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何でもあり?映画『100日間生きたワニ』で考える「批判の倫理」。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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映画『100日間生きたワニ』とネット上の「いたずら」。

 ご存知のことと思うが、映画『100日間生きたワニ』が「炎上」している。

 もっとも、通常は「炎上」といえば、何かしら問題があって騒ぎが巻き起こるわけだが、この場合は映画そのものにはまったく原因はない。何しろ公開前から各所のレビューが荒らされているのだから、映画の内容と無関係の騒動であることはあきらかだ。

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 特に座席予約における「いたずら」に関しては被害を受けた映画館が警告を発するまでになっており、映画文化にとってきわめて危機的な事態といえる。

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 自身もネットで誹謗中傷を受けた経験を持つスマイリーキクチ氏のツイートが印象深い。

 「ノリ」と「空気」がすべてを支配し、「こいつには何をやってもいい」とラベリングされた相手に対して徹底して暴力的になる現象は、まさに学級におけるいじめの構造そのものだ。

 いじめの背景には、いつだって「正義」がある。今回も、映画の原作である『100日後に死ぬワニ』の商業展開に、ネットの「正義」に反するところがあったことはたしかだろう。

 しかし、それが映画を見ることもなくバッシングする権利を保障するはずもない。まして、座席予約で遊ぶことはやっている本人は「面白いいたずら」のつもりなのだろうが、完全に営業妨害以外の何ものでもなく、かぎりなく犯罪に近い行為である。

 この「ノリ」と「空気」のおぞましさ。

「悪評」が映画をつぶすとき。

 このような悪評が影響したのだろうか、『100日間生きたワニ』はいまのところ興行成績的にもきわめてきびしい数字になっているようだ。

 もっとも、もともとがTwitterで話題を集めたに過ぎない企画ものではあり、連載終了から映画公開まで時間が経っていることもあるから、「炎上」がなくても数字は伸びなかったかもしれない。

 とはいえ、この「炎上」事件が映画に悪い方向での影響を与えたことは間違いないだろう。スキャンダラスな悪評の数々は「観に行こうか、どうしようか」と考えていた人たちをもウンザリさせたに違いない。その意味で、今回の一件の問題は大きい。

 一定の悪意と反感を持った人間たちが徒党を組めば、小規模な映画ひとつくらい簡単に潰してしまえるということがあきらかになったからだ。この件に関してペトロニウスさんがこのようなツイートを行っているが、まさにそうだ。

 これはこの一件だけに留まる話ではなく、インターネットにおいては「悪意は善意に勝利する」という普遍的な事実を示しているという一点において注目するべき事案であるといえる。

 もちろん、つねに悪意が善意に勝るわけではないだろう。熱心なファンが多い作品であれば、ファンの「愛」は悪意に対抗し、勝利すらできるかもしれない。しかし、そうでない場合は、「御覧の通りのありさまさ」というわけだ。

それはほんとうに「自由」なのか?

 それもまた自由な意見の結果なのだから、しかたがないことなのではないかと思われる方もいらっしゃることだろう。そうだろうか。ぼくはそうは思わない。

 何といっても、今回は映画が公開されるよりまえから騒動が起こっていたのであり、まともに作品を評価するつもりがない連中による「犯行」であることは自明だ。

 また、映画公開後に映画を見た上で(あるいはすくなくとも見たと主張している上で)行われた評価にしても、あらかじめ作品に対しバイアスがかかった状況で下された判断という意味で、問題がないとはいえない。

 いままでは、作品に対する評価はお金を払った観客の当然の権利であり、映画監督を初めとするクリエイターは、いかに気に食わない意見であろうときちんと受け止めるべきだ、とされていただろう。

 それはたしかに一面では真理であり、ぼくも反対するつもりはない。だが、このような事態を見ていると、その「観客の権利」が、一部の悪意を持った人間に利用され、ある文化そのものを破壊していく危険性について思いを馳せずにはいられない。

 あらかじめ映画に対し愛着も情熱もなく、「どうせこんなもの、くだらないに違いない」といった偏見を抱いた観客による悪意ある「レビュー」が、批評系サイトに大量に投稿されれば、それだけでまったく見ていない層を含めた世論を誘導することはたやすいのだ。

 いったいこれを「自由」の名のもとに放置していて良いものだろうか。

ネットの「レビュー」とは何なのか?

 もちろん、すべては「自由」であり、「権利」である。何をいおうが、書こうが、個人の人権侵害でもしない限り(あるいは、それをしてすら)法的に咎められることはない。

 しかし、よくいわれるように、「自由には責任がともなう」。一切の責任なしにその自由を行使できるいまのインターネットでは、必然的に低次元の言論が支配的になる。

 『100日間生きたワニ』の一件は、ぼくにとっては、いま、ネットを席巻している「レビュー」とは何なのかを考えさせられる事件だった。

 ぼくは「金を払った観客は何をいい、どう評価しても良い」という原則を支持する。だが、その原則を悪利用する人間が大勢(じっさいには意外に数少ないのかもしれないが)いて、その勢力はたやすく作品も文化も破壊できる、という事実があるのだ。

 これは通常、対抗言論によって解決されるべき事態だと考えられるだろう。そのような言論に対し、べつの言論をぶつけることでそれを批判し、全体としてのバランスを取れば良いのだ、と。それが民主的な社会における意見の多様性だと考えられることもある。

 それはそうなのだろう。ただ、そうはいっても、ネット上でいったん支配的になった意見を覆すことは並大抵のことではない。今回も、映画を見た上で支持する層もそれなりにあるようだが、悪意ある「荒らし」が作り出した言論の「流れ」に対抗できているとは思われない。

「くたばれ評論家」。

 もちろん、ほんとうに傑出した名作であれば話は違ってくるのだろうし、映画とはそうあるべきなのだという人もいるだろうことは想像がつく。

 しかし、映画文化を根底で支えているのは、そのような1%のスペシャルな名作には及ばずとも、精一杯観客を楽しませるよう努力が払われた99%の「凡作」の数々である。

 傑出した名作でなければ粗雑な「批評」にさらされてまともに評価されることなく消えていってもしかたないのだと考えるとすれば、長期的には映画文化そのものが壊されていくことだろう。

 ご存知の方も多いと思うが、「創作と批評」におけるあるべき倫理を語った名作に、藤子不二雄『エスパー魔美』の「くたばれ評論家」という回がある。

 画家である父の作品を低評価した批評家に対し、魔美が超能力でしかえしをするものの、父はじっさいにはそのような行為を望んではいなかった、という話である。

 この作品のなかの「あいつはけなした! ぼくはおこった!」というセリフはインターネットではしばしば引用され、クリエイターはそうあるべきだ、という規範の意味でも使用されることがある。

 なるほど、「この時代においては」、それは作家かくあるべしという姿であったのだろう。ぼくにしても、この「くたばれ評論家」が傑作であることに異論はない。

 だが、ぼくは同時に思うのだ。このマンガは、きわめて牧歌的な時代における素朴な価値観を示した作品だったと。いまではこの価値観は通用しないのではないだろうか。

その牧歌的な時代は遠く。

 「くたばれ評論家」の前提となっているのは、画家も含む「作家」と「評論家」が互いに互いの存在を認知しており、プロフィールを公開の上で言論活動を行っているということである。

 当時は一般の読者には公に作品の評価を問う方法はほとんどなく、プロの作家の作品に対し、「評論」なり「批評」を行えるのはプロの評論家くらいだったのだ。

 しかし、もちろん、いまではそうではない。インターネットの発達によって、ありとあらゆる分野において、無限に湧き出て来るアマチュアが「批評」とも「評論」ともつかない文章をアップするようになった。

 そのクオリティは大半の場合は「シロウトレベル」だろうが、膨大な数が集まればプロの評価以上の力を持つ。結果、どのジャンルにおける創作も、インターネットにおける「レビュー」を無視することはできなくなった。

 これはかならずしも悪いこととはいえない。何よりぼく自身がその恩恵を大いに受けている身である。あまり偉そうに批判することはできない。

 ただ、プラスの面があればマイナスの面もあるのが世の中である。おそらく、インターネット時代に入ってから容赦ない「酷評」に心を折られたクリエイターは数知れないのではないかとも思われる。そのなかには前途有望な作家も含まれていたはずだ。

 もちろん、そのような「酷評」もまた受け手の権利であり、作家はそれをしっかりと吟味するなり無視するなりするべきだというのが一般的な倫理だろう。ぼくも通常の「酷評」に留まるならその通りだと思う。

「批判」ではなく「否定」。

 だが、いま、ネット上を飛び交っている「酷評」は、「批判」というより「否定」というべき次元に達し、さらには作家への人格攻撃まで大きく含むものまで含むようになっている。

 まさにペトロニウスさんが書いている通り、作品に問題があるから批判しているのではなく、作品が気に入らなくて腹が立ったからスカッとしたくて攻撃しているだけなのだ。

 このような攻撃の数々は、かつての「くたばれ評論家」における「評論」とはまったく性質が違う。「あいつはけなした! ぼくはおこった!」で済ませようにも、その「あいつ」がどこの何者なのかまったく正体が掴めないというのが現状なのだ。

 作家にとっては、受難の時代である。いまの時代、創作において大切なのは、一部に傑作、名作として評価されるような作品を作ることよりも、大勢の読者の反感を買わず、「炎上」しないことなのかもしれない。

 「これは叩いても良い」とラベリングされた作品に対しては、どれほど暴力的な行為も許容されると考える人間が無数にいるのだから。

 そういったことは、その作品を含む文化全体にとってマイナスに作用してはいないだろうか? 出来の悪い作品に対し「酷評」が加えられるのは当然としても、完全な私情なり私憤で作品を攻撃するような「レビュー」は批判されてしかるべきでは?

 とはいえ、完全な区別は当然ながら不可能でもある。

一億層評論家時代における倫理。

 現代は一種の「一億総批評家時代」である。だれもが何かに対し評価を下し、それを公開しているようにすら見える。そして、往々にして「好評」より「悪評」のほうが流通しやすかったりする。

 だから「悪評」をやめよ、というつもりはさらさらないが、それがクリエイターへの「批判」にとどまらず「否定」になっていないか、よくよく注意する必要があるだろう。

 ぼくがここで思い出すのはブログ「狐の王国」の「「本当の意味で批判的な態度」は、まず褒めるところから」という記事である。この記事では、「批判」とはそもそもただ対象を否定することではなく、良いところと悪いところを切り分けて判断することであると語り、以下のようにまとめている。

繰り返すが、何事もいいだけのことも悪いだけのこともないのである。かならず良い面も悪い面もある。それをこうして切り分けることが「批判」であり、「ほんとうの意味での批判的な態度」ではないのだろうか。

狂った活動家や思想家は、他人の話ばかりする。誰それがどこの立ち位置だとか、ポジショントークがどうだとか。そんなことはどうでもいい。

「本当の意味で批判的な態度」は、良し悪しを見分けようとする姿勢だ。全否定でも全肯定でもないといえばあたりまえが過ぎる話だ。

そんな「あたりまえ」をどうして忘れてしまったのか。そのことを深く深く反省する必要がある。

 まさにその通りだ。インターネットでは「批判」はむずかしく、「全否定」か「全肯定」に偏りがちだ。なぜ、そうなってしまうのだろう?

正しく「批判」するのは容易なことではない。

 いろいろな理由があるだろうが、ひとつにはある作品や人物を正しい意味で「批判」するためには、それなりの能力が要求されるからでもあるだろう。

 それは一般に「批評」と呼ばれる行為なので、むずかしいのはあたりまえなのだ。また、インターネットでの言論は、往々にしてポジショントークになりがちであるということもある。

 いずれにせよ、ある作品を繊細かつ妥当に「批判」することはじっさい容易なことではない。何かしら気に食わなかったら、とにかく貶して否定してしまうことのほうがラクなのだ。

 その場合、もちろん、そのような作品を生みだした作家も気に食わないから、ついでに攻撃してやろう、ということになるのだろう。それはやっている本人にとっては「当然の権利」を行使しているだけだし、「正しいこと」をやっているつもりですらある。

 また、じっさいにある程度まではそれは当然でもあり、正しくもある。しかし、たしかに許されるある一線はある。その一線を超えたなら、それは批評でもなければ評論でもない。単なる悪意ある攻撃である。人はそれを悪口とか誹謗中傷という。

 どこまでが批評でどこからが中傷かはきわめて見極めづらいが、それでも決して「何でもあり」ではないのだ。

 正しく、ほんとうの意味で「批判」するために、そのような「全否定」は避けるべきだろう。まして、観もせずに「全否定」するなど論外である。良心なき批評家は害悪なのだ。

 これは、だれよりもぼく自身に対する自省の言葉として、ここに置いておくことにしよう。ぼくもまた無数の「ネット評論家」の一人であり、いつ悪意の沼に落ちるともしれない身の上なのだから。

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