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『進撃の巨人』の「愚か者たちのデモクラシー」は本当に成り立つか?

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【この記事の簡単な要約】

 いや、たった3行か4行程度で要約するとかさすがに無理ですよね? 18000文字とかあるんですよ! ひさしぶりに暴走して書きに書いてしまった。たぶんもっと丁寧に削っていけばもう少し短くなると思うけれど、もう気力がないのでこのまま載せておきます。

 杉田俊介氏の『進撃の巨人』論への批判的論考です。だれも最後まで読む人はいないような気もするのですが、もし万が一気に入っていただけたら、ツイート、ブクマなどよろしくお願いします。あなただけが、頼りです。いや、ほんと。

杉田俊介氏が語る『進撃の巨人』論への強烈な「違和」。

 杉田俊介氏の『進撃の巨人』論「『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体」を読んだ。

 べつだん、いま読み終えたわけではなく、『進撃の巨人』全巻を読み返し終えたあとに反応しようと考えて放置していたのだが、それではいつまでも書けないのでいま書くことにした。つまり、本文はこの記事への批判的応答である。

 ぼくは『宮崎駿論』や『ジョジョ論』を初め、杉田氏が公に書いた文章はその大半を読んでいる。その意味では、杉田氏の愛読者といって良いのだが、同時にこの人が書くものにはつねにつよい違和感を感じる。

 それは、ぼくの目から見て、あまりにかれの書くものが傲慢に思えてならないことが頻繁にあるからである。

 杉田氏の批評は、いずれもきわめて精緻に、論理的に考え抜かれていることが一読してあきらかだ。そして、それにもかかわらず、ぼくはその結論に納得できないことがしばしばなのである。

 『天気の子』のときもそうだった。そして、『進撃の巨人』でもやはりそうであるようだ。なぜそういうことになるのだろう? 思うに、そこにあるものはひとり作品の上に立ち、作品の良し悪しを問うというか決めつける批評家というポジションそのものの傲慢不遜さなのだろうと思う。

 それはただ「何となく偉そうで気に食わない」という次元のことではなく、ある作品を批評することがどのようにあるべきかを問う行為であるのだと考える。ぼくは杉田氏の批評のやり方がいまひとつ気に入らないのだ。

 かれが書くものはいつもぼくにとって刺激的、かつ説得的であり、その意味で、ネットで散見される「感想」とはたしかに一線を画している。あたりまえといえばあたりまえだが、かなりハイレベルなクリティークがそこにあるのだ。

 だが、そうであってなお、かれの文章には「何かが違う」という「世界観の違い」とでもいいたいものを感じる。それが率直な「感想」である。

「型通りの正論」という「気楽な作法」。

 もちろん、そうかといって、その違和をただあいてを皮肉ったり、揶揄したりするだけで終わらせるわけにはいかない。それではまさにインターネットに跋扈する無数の過激な(過激なだけの)論者と同じでしかない。

 だから、ぼくは自らが違和を抱く言論には自分なりの言論をもって対抗しようと思う。もちろん、杉田氏の書くもののように広く読まれることはないだろうが、ぼくなりに誠実に書いていくつもりだ。もし非常に最後まで読んでいただければありがたい(一応、これも有料記事だが、最後まで無料で読めるようにしておく)。

 さて、それでは端的にいって、杉田氏の批評のどこにそれほどまでの傲慢を感じ取り、あるいは違和を抱いているのだろうか。ひと言でいうなら、それはかれのリベラルな「正しさ」との距離の取り方であると考える。

 『天気の子』の批評でもそうだったし、今回の『進撃の巨人』でもそうなのだが、かれはつねに「正しい」ことをいっている。

 世界が水没しているのに「大丈夫」なわけがない――その通り。人類の大半を虐殺する行為は「狂気のような自由」の矮小化である――なるほど。

 それらは、たしかに一読すると「そうかもしれない」と思わせるだけの意見だとは感じる。ただ、それなのに、ぼくはどうしても杉田氏の意見に納得し切ることができない。

 たしかに東京をなかば水没させたり、人類の過半数を虐殺したりする選択が倫理的に考えて「正しい」はずはない。どう考えてもどこかで間違えているに違いない。

 それはそうなのだが、そのことは特に杉田氏の指摘を待つまでもなく、おそらくはそれぞれの物語の「内」と「外」のだれもがわかっていることだと思うのだ。

 それをことさらに指摘して済ませる行為そのものに、ぼくは物語をそのメタレベルから一方的に裁断する読者、あるいは批評家という立場の、あえていうなら「気楽さ」を思わずにはいられないのである。どういうことか。

具体的にどこがどう問題なのか?

 たとえば、『天気の子』だ。杉田氏はいう。

私は、主人公の選択には賛否両論があるだろう、というたぐいの作り手側からのエクスキューズは、素朴に考えて禁じ手ではないか、と思う。そういうことを言ってしまえば、作品を称賛しても批判しても、最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまうからだ。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78976

 ぼくはこのくだりに非常な違和を覚える。なぜか。そもそも「最初から作り手側の思惑通りだったことになってしまう」として、それの何が問題なのかと考えるからだ。

 素直に読むのなら、この一節は、作品の受け手側の称賛なり批判は決して「作り手側の思惑通り」ではないと主張しているとしか読めない。

 この場合、杉田氏は作品を批判しているわけだから、「自分の批判は意見は作り手の思惑を乗り越えたものである」と主張したいということになるだろう。

 もっというなら、自分の意見は作り手の思惑を乗り越えているにもかかわらず、「最初から思惑通り」だという態度を取られることは不愉快だ、アンフェアだ、といいたいということではないだろうか。

 その気持ちは、わかる。せっかく自分なりに作品に決定的な批判を加えたのに、「最初からそんな批判は想定済みでしたよ」という態度を取られたらつい「それは卑怯じゃないか」と思ってしまう、その心理は十分に理解できる。

 だが、それでもやはりぼくは杉田氏のこの主張はどこか違っていると思うのだ。いったい杉田氏はいつから「作り手側の思惑」を超えることを目指していたのか。

 もしあくまで自説に自信があるのなら、むしろたとえそれが「作り手側の思惑」通りであったとしても、おかしいものはおかしい、間違えているものは間違えている、そう主張するだけで満足するべきではないか。

 それができないとするのなら、ただ「作り手側の思惑」を超えて何か鋭い批判を加えてやるというゲームに夢中になっている。そういうことでしかありえないではないだろうか。

批評家には謙虚さが必須であるということ。

 そう、ぼくには、杉田氏は、わたしはこの作品に対して「作り手側の思惑」を遥かに超えた素晴らしい批判を行っているのだから、「作り手」である新海誠監督はそれを素直に認めるべきだ、そして自分の作品の拙劣さを反省するべきなのだ、といっているようにしか思えないのだ。

 ぼくの見方は過剰なものだろうか。あるいは意地悪な見方に過ぎないだろうか。そうかもしれない。だが、そうであるとするならなぜ杉田氏はことさらに「作り手の側の思惑」を問題とするのだろう。

 自分(たち?)の意見が「作り手側の思惑」の範疇にあるかどうかを問題にするのでなければ、このような意見は出てこないはずである。

 そして、それならそうで素直にいえばそう良いと思うのだ。「自分の意見のような鋭い批判を、新海誠監督はまったく想像もしていなかっただろう。それなのに、あたかも思惑通りであるような態度を取るのはずるい。卑怯だ」と。

 ほんとうに、そういえば良いと思う。なぜいわないのかといえば、そこまでいってしまえば、それがあまりにも傲慢な態度であることがだれの目にもあきらかになってしまうからだろう。

 過剰な意見かもしれないし、意地悪な見方かもしれないが、ぼくにはどうしてもそういうふうに思われてならない。

 そして、その傲慢さは本質的に「後出し」でしかありえない批評という行為にどうしても必要な謙虚さを欠く結果につながっているように感じられる。

 もちろん、それはひとり杉田氏のみが陥った落とし穴というよりは、ある作品を後から語るとき、だれもが落ち込みかねない陥穽ではあるだろう。その意味で、かれ個人を攻撃して済ませるつもりはない。

 だが、それにしても杉田氏の姿勢はその種の傲慢さに対して無自覚であり過ぎないか。むろん、そのような意見を「後出し」でいっているぼくもまた、だれかのさらなる「後出し」による批判にさらされる可能性はあることはわかった上でなお、そのように考える。

リアリティのシェアができていない。

 ぼくは杉田氏のいうことが必ずしも端的に間違えているとは思わない。

 『天気の子』にせよ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にせよ、『進撃の巨人』にせよ、たしかに批判されるべきポイントを抱えた作品ではあるだろう。杉田氏の批判は、紛れもなく作品の根幹を突いているところがある。

 が、それでもぼくがどうしても納得がいかないと思うのは、ひとり「物語の外側、あるいはそのメタレベル」に立って、わかったような「正論」を説くだけの行為に批評的な意味を見いだせないからだ。

 ある一連の物語のなかで、きわめて切迫した状況下において、ひとつの判断を下した「作り手」なり登場人物なりに対して、その外側からあたりまえの正論でもって説教する。もしそれが批評の本質なのだとしたら、批評とは何と気楽で他愛ないものだろうか。

 杉田氏のいうように、気候現象は一面で人為の作用した「シャカイ」なのだから、人間に責任がないと考えることは間違えているかもしれない。しかし、「それなら具体的にどのように問題を解決すれば良かったのか」。

 なるほど、杉田氏のいうように極限的な状況で二者択一を求められることじたいが「間違えている」ことなのかもしれない。だが、映画のなかの人物たちにとって、じっさいに二者択一を求められているように感じられることは紛れもない事実なのだ。

 もし、杉田氏が映画のなかの登場人物たちと同様の責任感と切迫したリアリティを持って物語を語っているのなら、二者択一に限らない第三の、より優れた選択肢をきちんと提示しなければならないだろう。

 それなくして、「二者択一など幻想だ。第三、あるいは第四の選択肢があったかもしれないのだ」といっても、無責任な放言としか思われない。

 それはその通りではあるだろう。すべてを二者択一と捉えることはおかしいだろう。だが、そこにはそうとしか考えられない状況下に置かれた主人公を初めとする登場人物たちへの共感がない。同じリアリティをシェアしていないのだ。

プロフェッショナルな批評家が負うべき責任。

 ぼくは何かおかしいことをいっているだろうか。映画の物語のなかで「正しい判断」を行う責任はその物語の登場人物が負っているのであって、単なる一観客が負うべきものではないといえば、それもまたその通りだ。

 だが、少なくとも卑しくもプロフェッショナルな批評家たるものは、そのようなあたりまえの逃げ口上に終始して非現実的な「正論」を唱えて良しとするのではなく、よりシビアに自分を追い詰めていくべきではないのか。

 そう、作品の外にいる立場なら、物語のメタレベルに立つその気なら、どのような「正論」でも語ることができる。最後まであきらめるな、もっと努力しろ、簡単に決めつけるな、幻想を捨て去れ――何とでもいえるだろう。

 そして、また、そのそれぞれが何もかもたしかにお説ごもっともな話ではあるのだ。だが、それはすべて、物語の「外」から「内」へ投げかけられた、いわば野次馬的な意見でしかない。

 批評家が単なる観客、野次馬を超越した意見を述べるためには、物語のなかの登場人物と切迫した状況を共有していなければならないはずなのだ。

 そのリアリティのもと、それでもなお、自分の意見としてそれは間違えていると叫ぶのなら、たとえより悲惨な結果につながったかもしれないとしてもあくまで「第三の選択肢」を模索しつづけるべきだと主張するのなら、それはまさに一聴に値する意見だと感じる。

 また、そのリアリティそのものが幻想なのだ、ほんとうの現実はもっと気楽で、多様な選択肢が用意されているものなのだと主張することも可能だろう。

 問題は、そういった、見ようによってポジティヴともネガティヴともいえる価値観が、じっさいに物語で採用された価値観と比べ、人の心に響くものであるかどうかである。

 もしその意見がまったく人心を打たないのなら、そのときは作品ではなく批評家こそが「時代のリアリティ」を読み損ねていることになる。批評家にはそういうふうに自分自身を賭ける勇気が必要だろう。

「血を流しながら」批評せよ。

 かつて、宮崎駿はその昔に「弟子」であった庵野秀明について「庵野は血を流しながら映画を作る」と語ったという。しかし、ぼくにはそれはひとり映像界の鬼才である庵野だけのことではなく、程度の差こそあれ、多くのクリエイターに共通する話だと考える。

 「作り手側」はいつも血を流しながら作品を作っている。物語のなかの登場人物も、それが何かしら優れた作品であるなら、多くの場合、血を流しながら判断を下している。

 それでは「受け手側」はどうだろうか。はたして血を流しながら作品を語っているといえるのか。むろん、単なる一観客に「ちゃんと血の通った批評をしろ」と詰め寄ることはできないだろう。

 だが、批評家は違う。プロフェッショナルな批評家は、少なくとも自分が裁断する作品を作ったクリエイターたちと同じくらいには血を流しているべきだ。ぼくはそう思う。

 杉田氏の批評は、あえて明言してしまうのなら、いかにも血の流し方が甘いように思えるのである。ぼくの目には、いかにも自分を安全圏に置いてどうとでもいえるような正論を語っている印象がつよい。

 そのようなやり方では、いかにロジカルな意味で「正しい」としても、有意義な批評とはいいがいように思う。それはつまりただ単に「正しくあることが容易な」次元に留まっていることしか意味していないと考えられるからだ。

 むろん、それはいままさに「批評家に対する批判」を繰り広げているぼくにしてもいえることではある。したがって、ぼく自身もまた、はたして自ら血を流し、血の通った言説を展開できているか、シビアに問われなければならないだろう。

 その上でいうなら、ぼくは血を流して話を続けるつもりである。この記事を単なる「上から目線での批判」に終わらせることはしない。ぼくはそうしたい。じっさいにそうできているかどうかは、読者諸氏ひとりひとりにご確認いただきたい。

 とりあえず血を流す覚悟を持っているつもりであることと、ほんとうに血を流しているかはまったくべつのことなのだから。

杉田氏による『進撃の巨人』批評の傲慢。

 さて、ようやく『進撃の巨人』批評の話に移る。ここまでのぼくの杉田氏への批判の根幹は「物語のメタレベルから、傲慢にも一般論としての「正論」を述べているに過ぎない」というものである。

 それでは、この『進撃の巨人』論においてはそれはどう違っているのだろうか。ざんねんながら、ぼくにはあまり違っているようには思えない。

 杉田氏はあい変わらず非常に不遜な議論を繰り広げている、そしてほとんど血を流すことなく「正論」を語っている。かれの言説は、ぼくの(あるいは歪んでいるかもしれない)目にはそのように映る。

 それは決して「その態度が偉そう」ということではなく、より本質的なところで謙虚さに欠けているという問題だ。

 とはいえ、杉田氏の議論はじっさい、説得的なものである。かれは『進撃の巨人』は政治的な物語であると語る。まったく賛成だ。『進撃の巨人』が、たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』などと違うのは、その高度な政治描写にあるだろう。

 しかも、その政治性とは、真実が二転三転し、何がほんとうなのかまったく判断できないという「ポストモダンにしてポストデモクラシー」なストーリーに宿っていることも指摘している。

 これもまた、そのような言葉を選ぶかどうかはともかく、間違いのないところだろう。『進撃の巨人』にはどこか一流のミステリーのようなところがあって、その時点で「善」であったり「悪」であるように見えたものが、後でまったく違う姿に逆転するといったことが次々に起こる。

 そこにこそ、この作品の魅力があるわけだが、それは同時に「いったい何が真実なのか?」、その点を最後の最後までたしかめることができないということもであって、だからこそ、作中にはいつも一種の相対主義的なニヒリズムに陥りかねないような絶望的な雰囲気がただよっているのだ。

 そこまでは納得できる見解だ。ぼくがついていけなくなるのは、その先である。

長い長い引用。

 杉田氏はまた書いている。いくらか長くなるが、大切なポイントなので、引用させてもらおう。

その点では、むしろポイントだったのは、最後の結論に至る手前の、次のような可能性ではなかったか――地ならしによって人類殲滅戦争へと突き進むエレンを食い止めようとするミカサやアルミンたちの態度は、エレンとの友情を信じながら、敵対勢力との対話を尊重する、という対話型の平和主義であり、つねにどこか、甘っちょろい不徹底さを感じさせるものだった。それはエレンの覚悟や決断に匹敵していない、と思われていた。

しかし、最終回から振り返ってみると、そこには、『進撃の巨人』の連載の積み重ねによってはじめて生まれつつあった、新しい可能性があったように考えられる。

すなわち、第127話、第128話あたりの、アルミン、ミカサ、ジャン、コニー、リヴァイ、ハンジ、ライナー、アニ、ピーク、マガト、ガビ、ファルコ、イェレナ、オニャンコポンたちが一時的に形成する集団性に私は注目してみたい。

その場には、火を囲んで、敵と味方、仲間を殺された者、仲間を殺した物、裏切った者、裏切られた者などが複雑に重層的に入り乱れて、異様なまでに混乱した、わちゃわちゃした協力関係(デモクラシー)が形成されつつあった。ここに新しい重要な可能性があったのではないか。彼らは同じ普遍的な正義感を共有しているわけでもないし、何らかのコンセンサスがあるのかも疑わしい。彼らにとっては、憎み合うことと話し合うことがもはや見分けがたいのだ。

重要なのは、それでも彼らが、おそらく次のような最小限の前提を分かち合っていた、ということだ。マガト元帥の言葉に耳をすまそう。

「昨夜の…私の態度を詫びたい/我々は…間違っていた/軽々しくも正義を語ったことをだ…/この期に及んでまだ…自らを正当化しようと醜くも足掻いた/卑劣なマーレそのものである自分自身を直視することを恐れたからだ(略)/この…血に塗れた愚かな歴史を忘れることなく伝える責任はある/エレン・イェーガーはすべてを消し去るつもりだ…/それは許せない/愚かな行いから目を逸らし続ける限り地獄は終わらない」(第128話)

第127話、第128話あたりに開かれかけていたのは、いわば、愚かさをわかちあう人たちの協同的な関係、あるいは、愚か者たちのデモクラシー(無知と無能のデモクラシー)とでも呼ぶような何かだったのではないか。

「愚か者たちのデモクラシー」という切実な呉越同舟。

 「愚か者たちのデモクラシー」。これもまた、『進撃の巨人』終盤の「わちゃわちゃした」呉越同舟的なグループの雰囲気を、なかなかに的確に表現した造語であるかもしれない。

 ぼくは、物語のクライマックスにおけるアルミンたちの集団が、その言葉にふさわしい可能性を示していたことを認めるものである。

 アルミンたちは、その時点で、何らシェアしあうべき「正義」を持ってはいなかった。かれらが共通して持っていたのは「自分自身の無知と無能の痛切な自覚」ともいうべき「愚かさの意識」だけであり、その意味でかれらのパーティはたしかに一群の「愚か者たちのデモクラシー」を成している。なるほど、そうかもしれない。

 そこまでは、わかる。ただ、ぼくがそれでも杉田氏の見解に納得しがたいものを感じるのは、その「愚か者たちのデモクラシー」が成立するためには、ひとつの削り取ることのできない条件が存在していると考えるからだ。

 これもごくあたりまえのことかもしれないが、「愚か者たちのデモクラシー」を成り立たせるためには、「自分はほんとうにどうしようもない愚か者である」という苦い自己認識と、「それでもなお、より良い選択を考えつづけることをやめはしない」という強烈な意思が併存している必要がある。そのいずれが欠落していてもこの「デモクラシー」は成立しない。

 それでは、この両者は、アルミンたちのなかできちんと併存できているだろうか? ひとまずは、できていると見て良いように思われる。そのとき一時だけのことではあるかもしれないが、かれらは世界の滅亡を目前にして、ごく謙虚に自分の愚かさを省みている。

 自分は、自分たちは正しくなどない、正義の見方などではない、ただのひとりの愚かな過ちを犯した人間であるに過ぎないのだ、と。そして、その上でそれでもエレンの虐殺行為は認められないと考えているわけである。

 その、切迫した言葉たちよ。ここには最も切実な民主主義がある。素直にそう思う。

人類滅亡の瀬戸際において。

 そう、ぼくはべつだん、アルミンたちの「愚か者たちのデモクラシー」を批判しようとする意志はない。それは、ほんとうに人類滅亡の瀬戸際においてようやく、かろうじて成り立ったという意味において、ほんとうに愚かな連中が乗り合わせた「ひとつの船」に過ぎないかもしれないが、それでもある種の希望を感じさせるものではある。

 『進撃の巨人』の酷烈な物語は、むろん、そういうかれらこそが人類の希望だなどという甘ったるい言説を弄することはしないが、それでも、読者の側がかれらの「わちゃわちゃした」姿に何らかの可能性を見て取ることは悪くないことであろう。

 「愚か者たちのデモクラシー」。美しい響き。自分が無知で無能な愚か者であること、ほんとうにどうしようもない愚か者でしかありえないことを明確に自覚し、その上で、それでもなお、少しでも良い可能性を模索しつづけること。

 そこにはもはや純潔な意味での「正義」や「正しさ」はありえないわけだが、それでも「ほんの少しだけマシな愚かさ」を選びつづけることでどこかへ突破するルートは完全に閉ざされたわけではない。

 それは、おそらくはエレンが選んだルートよりはるかに現実的な道ではあるのだろう。きっと。おそらく。いや、しかし――そうだろうか? ほんとうにそういい切って良いのか?

 ぼくが断定的に「愚か者たちのデモクラシー」を肯定することを躊躇するのは、まさにここ、この瞬間である。ほんとうに「愚か者たちのデモクラシー」はエレンという「明確な悪」より相対的に善いといい切れるのか? そう断定してしまって問題はないのか?

 ぼくはどうしても迷う。なぜなら、ここで「愚か者たちのデモクラシー」の相対的な「善」を確定させてしまったなら、逆説的ではあるが、それは「愚か者たちのデモクラシー」の前提条件を喪失させることにつながりかねない、とそう考えるからだ。

 いくらかわかりにくい論理展開になっているかもしれない。くわしく見てみよう。

「愚かさを自覚する」、そのむずかしさ。

 「愚か者たちのデモクラシー」とは、自らの「愚」を徹底的に知り尽くした人間たちのあいだでしか成らないものであった。

 もし、少しでも自分の「善」、あるいは「正義」に自負を抱いたままであるなら、そのプライドはすぐに肥大化し、またも「自分は正しい!」と信じて戦いを始めることだろう。

 それはじっさい、アルミンたちにしても人類滅亡の瀬戸際にまで行かないとたどりつけないような境地であったことになる。だが、まさにだからこそ、この「デモクラシー」がエレンの選んだ道より自明に、無条件に正当だと考えることには問題がある。

 そのように考えるとき、「愚か者たち」は十分に自分たちの愚かさを自覚しているとはいえなくなるからだ。

 だれかが自明に排除するべき「悪」であり、自分の側に相対的なものでしかなくとも「正しさ」があると考えるとき、それはもはや正しく「愚か者(であることの自覚を持った者)たち」とはいえないのである。

 もちろん、だからエレンの殺戮を黙って見過ごすべきだ、ということにはならない。どれほど愚かであっても、目の前でたくさんの人が殺されていくことをそのままに看過するわけにはいかない。あたりまえのことだ。

 それは殺戮を止めることにイデオロギー的な大義があると確信するからではない。たとえあいてに、つまりこの場合はエレンに、どのような正義があるとしても、その大量殺人を許すことはできない、そう、「自分自身が耐えられない」という理由であるに過ぎない。

 アルミンたちは「世界を救う」ことを目指してはいるが、その「デモクラシー」にはエレンの覚悟に対抗できるほどのジャスティスはないし、また、あってはならないのである。

 少なくともそれが杉田氏のいうように「愚か者たちのデモクラシー」であるとするなら、いかなる「確信」も共有していてはならない。そうでなければ、それはただ自分の正義を盲信するだけのほんとうの愚か者の集団でしかない。

「敵」がいたからこそ。

 さらにもっと根幹のところから考え直してみよう。もともと敵味方に分かれて長いあいだ、怒りと憎しみに満ちた闘争を続けてきたアルミンたちがなぜ形だけでもひとつの「デモクラシー」を成り立たせることができたのか?

 そう、いうまでもない、それはエレンという強大で絶対的な「敵」があらわれたからである。もしエレンの存在がなかったなら、アルミンたちはどうにかひとつに結集することはできなかっただろう。

 そのように考えてみると、「もしエレンが自ら英雄的に「悪」を引き受けることなく「愚か者たちのデモクラシー」に参加していたら」という仮定がいかに意味がないものであるかがわかる。

 もし、エレンが自ら「悪」であり「敵」であることを引き受けることによって、本来、「いかなる結集の大義も持たない」アルミンたちをまとめあげることがなかったなら、そこにはそもそも「愚か者たちのデモクラシー」など成立するはずもなかったのだ。

 どうしてマガト元帥は自分の愚かさを心の底から思い知ったのか? エレンが自らの手を汚して、「悪」としてかれの前に立ちふさがったからだ。

 人類滅亡前夜にかろうじて成ったかと見える「愚か者たちのデモクラシー」のすべてはエレンの選択と行動を起点としているのであって、それがなければ影も形もないまま始まることすらなく終わったに違いない。

 だから、エレンが正しいといっているのではない。たとえその「友達ファーストのパトリオティズム」を良しとするとしても、自らのエレンの行動はやはりあまりにも過剰で過激だ。

 自分の最も愛する人を守るために、それ以外のすべての人間を殺し尽くそうなどという行動を、軽々に認められるはずもない。

 だが、ここで重要なのは、エレンが杉田氏のいうような「絶対悪(正しさの名のもとに悪を為すという自己欺瞞)」を犯しているのかということだ。

 ぼくはそうは思わないのだ。エレンは自らの「悪」を明確に自覚しており、その上、「悪の名のもとに正義を行う」といった欺瞞にも陥ってはいないと信じる。さんざん「狂気」を印象づけられたエレンは恐ろしいほど正気なのだ。

そこに「正義」はあったのか?

 あるいは、ここで、そんなはずはないと考える読者の方もいらっしゃるだろう。

 自らの正義を確信しているからこそ、人類の大半を皆殺しにするといった史上最悪のジェノサイドに手を染め、おそらく何億にも上るかもしれない人間たちを殺し尽くすという蛮行を実施することができたはずではないか、と。

 もしエレンに「友達ファースト」であれ何であれ何らかの正義がなければ、かれはそのような恐ろしい行為を実行に移すことができたはずはない、と。

 そうだろうか。ぼくはそうは思わない。むろん、最終的にエレンを駆り立てたものが何であったのかは作中でもはっきりとは描写されていないし、議論の余地なく明快に決定することは不可能だろう。

 それにしても、たとえエレンが、杉田氏のいうように「英雄的に「悪」を引き受けて、自己犠牲によって仲間たちのみを救おうと」したのだとしても、それは自分の「正義」を盲信したこととは違うはずである。

 エレンがどのようなモチベーションから「地鳴らし」を始めたとしても、そこには「悪」の自覚があったと考えることのほうが自然だ。しかもそれは「あえて」悪を引き受けるなどという生易しい次元のことではありえない。

 エレンは本来、かれが最も忌み嫌ったはずの邪悪になり果ててまでもアルミンを初めとするわずかな愛すべき人々を救わなければならないと考えたのだ、と見るべきであるように思える。

 全人類規模の大量虐殺は極悪の行為であり、そこに弁解の余地はない。しかし、それでもエレンは行動を選択せざるを得なかった。ぼくはそう見る。

 なぜその道を選択せざるを得なかったか。そうしなければ、より悪い結果になる「かもしれなかった」からではないだろうか。じっさい、エレンの行動は、愚かなものであり、かぎりなく杉田氏のいう「絶対悪」に近いところにあるかもしれない。

 だが、それでもなお、それは「絶対悪」ではない。エレンにはエレンなりの行動の必然性があったはずであり、それに対する自覚も備わっていたと思うのだ。ぼくたちが知っているエレンという若者は、そういう人物ではなかっただろうか。

「私たち」のなかに含まれないもの。

 杉田氏は本文のなかで、エレンの「狂気にも似たラディカルな自由のポテンシャルが、まとまりのよい穏当な友達主義的なパトリオティズムへと矮小化されてしまったように思われ」ることを嘆いている。

 だが、杉田氏はほんとうにエレンの行動の意味を理解しているのか。ぼくにはどうしてもそういうふうには思われないのだ。

 かれはべつのところでこう書いている。

私たちはみな、多かれ少なかれ、洗脳や歴史偽造や被害者意識に加担してしまっている。自分(たち)の絶対的な正しさを信じることでかえってこの世界の暴力を広げてしまっている。そのことを自覚し、分かち合いつつ、せめてそうした負の悪循環を最小限化していこう。

 「私たちはみな」か。少なくとも「あなたたちはみな」と書かないだけ、杉田氏は謙虚である。きちんと自分の「愚かさ」を理解し、把握している。その上でなお、かれは「愚か者たちのデモクラシー」を提唱しているのだ。杉田氏の姿勢に矛盾はない。かれは自分だけを棚に上げることなく、自分の思想をきちんと体現してのけている。そうだろうか。

 じつはぼくはまったくそうは思わない。あえていおう。杉田氏のこの述懐はどこまでも口先だけのことでしかない。じっさいには、杉田氏は自分の愚かしさをほんとうに自覚してはいないし、むしろ、そんな自分の次元にまで到達することができない「他者の愚かさ」を嘆いていることだろう。

 あるいは、このように書くと、なぜそのように断言できるのか、と思われるかもしれない。どこにその根拠があるのか? どこにもないだろう? と。

 ところが、根拠はあり、断言できるのだ。なぜなら、この同じ記事のなかで、杉田氏は自分と思想的に異なる他者の行動に対する敬意をまったく持っていないことを自ら暴露しているからだ。

「ネトウヨ」は侮辱してもかまわないのか?

 そう、物語のクライマックスにおいて「ラスボス」的なところに落ち着いたエレンについて、杉田氏は平然と述べる。「あたかもそれは、古典的な少年マンガの正義のヒーローが、陰謀史観によって世界の真理に目覚め、右派(ネトウヨ?)の武闘派に闇落ちしたかのよう」だと。

 いったいこの表現のなかに何らかの解釈の余地があるだろうか? ぼくにはたったひとつの主張しか読み取れない。

 即ち、右派、あるいはネトウヨと呼ばれる連中は致命的に間違えている上に、自分のことを正義だと信じ込んでいる愚かな連中で、それに比べ、よりリベラルで謙虚な自分は相対的に賢く、正しい、そのことはあまりにも当然で自明な前提である、と。

 ぼくはまたも意地悪な読み方をしているかもしれない。杉田氏は「そんなことは書いていない」と主張するかもしれない。しかし、それでもなお、ここに「ネトウヨ」に対する明確な軽蔑が吐き捨てられていることは客観的な事実といって良いのではないかと考える。

 そもそも作中に、エレンと「右派(ネトウヨ?)の武闘派」を重ね合わせなければならないような描写など、どこにも存在しないのだ。

 エレンは杉田氏が皮肉っぽく書いているように「陰謀史観によって世界の真理に目覚め」たわけではない。ただ、かれなりに自分がやるべきだと考えたことをやっただけである。

 それが「正しい」かといえば、むろん正しいはずはない。愚かな、悪辣な行為であっただろう。たしかにもっと良い選択があったかもしれない。

 あるいは、杉田氏がいっているように、たとえ不完全な形でしかしありえないとしても「愚か者たちのデモクラシー」に参加していたら、もっと犠牲者が少なく、エレン自身も救済されるルートを選べた、そうなのかもしれない。

 それでも、エレンは杉田氏がいうような意味では愚かではない。決して違う。杉田氏の言葉遣いからは、エレンの選択に対して、1ミリグラムのリスペクトすら見て取ることができない。

 これはここで「ネトウヨ」と呼ばれているネット右派の一群に対する侮辱であるのみならず、何よりエレンに対するきわめつきの罵倒である。

そこに「謙虚さ」はあるか?

 もちろん、まさか杉田氏はここで右派思想全体を全面的に否定しているつもりはないだろう。あくまで「ネトウヨ」というしかない一部のほんとうに愚昧な右派、それも「武闘派」と呼ぶべき暴力的な一群をのみ指して、「闇落ち」という表現を使っているのだろう。

 だが、そうであっても、杉田氏がそのような「ネトウヨ」に対してあたりまえのように侮辱表現を使用していることは看過できない。どうやら、かれにとって「ネトウヨ」がどうしようもなく愚かな集団であることは自明の前提のようである。

 そのことそのものを責めるのは酷ではあるだろう。ぼく自身、似たようなコンテクストで「ネトウヨ」や「パヨク」といった言葉を使ったことはある。

 だが、それでも、ここから「自らの愚かさに対する痛切な自覚」はかけらほども読み取れないことはどう考えてもたしかである。どう読んでも「愚かな絶対悪としての闇落ちネトウヨたち」を上から目線で切り捨てているとしか思われない表現ではないか。

 そして、その時点で杉田氏は「愚か者たちのデモクラシー」に参加する資格がない。基本的に「無知と無能のシェア」を根幹とする「愚か者たちのデモクラシー」に参加できるのは、自らの愚かさ、「正しくなさ」をかぎりなく痛切に思い知ったものだけである以上、一切のリスペクトなく「ネトウヨ」を切って捨てることができる杉田氏はそこにまったくふさわしくないのだ。

 たったこれだけのことで、と思われるかもしれない。だが、たったこれだけのことで十分すぎるほどであるようにはぼくには思われる。

 思うに、「愚か者たち」が何らかの「デモクラシー」を実現することは、杉田氏があっさりいっているほど容易なことではない。いや、本人も本文のなかで「容易な道ではない」と書いているのだが、自分自身がその「容易でなさ」を体現してしまっているという自覚はまったくないようだ。

多重的な「愚かさ」の困難。

 それは何重もの意味で困難だ。ひと口に「愚か者」といっても、その「愚かさ」は単純ではないのだ。ぼくたちはまず、この複雑な世界で何が正しいことなのか正確に把握できないという意味で愚かである。

 そして、その上、その愚かさにもかかわらず、「自分の愚かさを自覚できているわたし」は「自分の賢さを盲信している人々」と比べ相対的に賢いと思い込んでしまいがちであり、十分に「愚かさ」を自覚し反省することができないという意味でも愚かなのだ。

 「愚か者たちのデモクラシー」に参加する資格のある、いわば「しっかり目を開いた愚か者」であるためには、ひとつ目の愚かさを自覚するだけでは足りず、ふたつ目の愚かさをも明瞭に自覚している必要がある。

 あるいは杉田氏がいうのは、この「二重の意味での愚かさ」をも自覚し、その上で悪影響を最低限に保つ、ということであるのかもしれない。だが、ぼくには前述の理由でそれが信じられない。

 そもそも「ネトウヨへの闇落ち」が大きな問題だとしても、それと同じくらい、あるいはそれ以上に問題なのは、左派政治思想の絶対的正しさを盲信するあまり、攻撃的、暴力的になってしまうという意味での「パヨクへの光落ち」ではないだろうか。

 そのような「光落ち」を遂げた人間は、おそらくは「闇落ちしたネトウヨ」と同じかそれ以上にネット上にはたくさん見つかる。決してリベラリストには他人事のように「ネトウヨ」を笑う資格はないのだ。

 もちろん、杉田氏がぼくのいうような危険性をもわかった上で、それでも自分は自分の「愚かさ」をわかっているのだ、と主張している可能性もなくはない。

 だが、自分には自分の愚かさや無力さがよくわかっている、だから自分の正しさを盲信したりする心配はないというのは、それ自体がひとつの巨大な傲慢である。

 いかにも逆説的に思われるかもしれないが、「自分はすこぶる謙虚な人間だ」と主張することくらい傲慢なことはない、ということでもあるだろう。

正しく「愚か者」であることは容易ではない。

 ここまであまりにも長々と杉田氏の『進撃の巨人』論への反対意見を記してきた。そろそろ読者諸氏も疲れ切ってしまっている頃合いかもしれない。ここら辺でぼくも論を終えることにしよう。

 杉田氏が自ら示してしまっているように、「愚か者たち」にとっては、自らの「愚かさ」を明確に自覚することがむずかしい。

 自分の正義を確信して、そのために他者を見下すこと、それが「絶対悪」ともいうべき最大の「愚かさ」であると理屈ではわかっていても、実感では自分と「ネトウヨ」のような愚物には差があることをごくナチュラルに確信している。

 そして、たとえそれを自覚できたとしても、「まったく自分の愚かさを自覚できていない」ようにしか見えない他者への軽侮をやめることはできない。「愚か者たち」、つまりぼくたちにとってそれほどまでに独善は骨身に沁みているのだ。

 ここまで書けばわかってもらえるだろう。その構造は、ぼく自身にもあてはまることがありえる。杉田氏が「ネトウヨ」をあまりにも自然な形で侮蔑しているように、ぼくもまた杉田氏や他の人間を見下していることが十分にありえるのである。

 さしあたって、ぼくは自分だけは決してそうではない、とはいい切れない。もしそういうのだとしたら、それこそ傲慢のそしりを免れないことになってしまうだろうから。

 ただ、ぼくがここまで、杉田氏のロジックを転倒させるために、そのためだけにここまで長い文章を書いてきたのは、自らのそのような独善性を恐れるからである。

 ぼくは杉田氏の文章を批判しているが、ともかくも読者のまえに自分を晒してのけたその勇気は高く評価している。ぼくも同じことをして、読者諸氏の視線の前に自分を晒けだそうと思う。

 それがぼくにとっては「血を流す」ことにつながる言論の方法論である。自分では十分に自分の「愚かさ」を自覚できないひとりの「愚か者」として、群衆のまえに自分自身を晒すこと。そのことによってしか、批評は健全さを保てないだろう。

もっとリスペクトを!

 かくも長く書き連ねてきたにもかかわらず、ぼくの主張は単純である。杉田氏はエレンに対しても右派(ネトウヨ)に対しても敬意を欠いている。まずその点を振り返るべきではないか、ということだ。

 杉田氏の書いていることは立派だが、自分の言葉が自分を裏切っている。

むしろ無知と無能であらざるをえない場所から、異質な他者たちとの関係を再構築していくこと、そこから何度でも行動をはじめ直すこと、それが「政治」の課題なのではないか。そうした意味での「政治」をはじめるためには、この私と同じように自分の愚かさに苦しみ、無知と無力に戸惑う他者たちとの新たな約束(社会契約)が必要になるだろう。

 「この私と同じように自分の愚かさに苦しみ、無知と夢力に戸惑う他者たち」。ただしネトウヨは除く、というわけなのだ。

 だが、もし杉田氏が「自分は自分の愚かしさをわかるほど賢い」というその「メタレベルの賢さ」を自明とするならば、その時点でいわば「メタレベルの愚かさ」に陥っていることになる。

 いま、政治のさまざまな局面において、「若者の右傾化」が問題視されるのは、べつだん右派勢力に強烈な魅力があるからではなく、むしろ「リベラル」のこういった傲慢無比な態度に原因があるように、ぼくには思われる。

 「愚か者たちのデモクラシー」とは、そのような限界を突破したその先にしかないものだろう。それはまた、「自分は愚かだと自覚している」という「メタレベルの賢さ」を持った集団なら、「絶対正義を信じ込むという光落ち」に陥ることなく「愚かさを最小限にする」ことができるという期待を込めた概念であろうとも思われる。

 なるほど、それはたしかに光り輝く希望の道ではあるだろう。しかし、杉田氏の論述を読むかぎり、その希望はきわめて実現困難というしかない。

 ぼくは、やはりどうにも杉田氏が自分の謙虚さについて楽観視しているとしか考えられない。

 ぼく自身の独善性のためにこそ、そのようにしか見ることができないのかもしれない、その可能性はわかる。あるいは間違えているのはぼくのほうなのかもしれない。ぼくの理解は牽強付会に陥っているかもしれない。

 しかし、そう考えてなお、自分を疑い尽くすことができないことはぼくもまた杉田氏と同じだ。だから、ここでこれまでの論考のすべてを読者諸氏に委ねる。あなたはどう思われるだろう? あなた自身で考えてみていただければ幸甚である。以上、おしまい!

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