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クロエ・ジャオ監督『ノマドランド』ネタバレレビュー。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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映画『ノマドランド』のテーマ。

 この手のブログの記事は書き出しが大切だと良くいわれる。GoogleなりYahoo!を通してそのページにたどり着いた読者がその記事を読むかどうか決めるのは書き出しにかかっているのだと。

 だから、いつも何か魅力的な文句で書きだそうと思っているのだが、ろくなアイディアを思いついた試しはない。今回も同じ。いったい何から書き始めたものか迷う。

 だから、使い古された定型の文章で始めよう。クロエ・ジャオ監督の映画『ノマドランド』を見た。すばらしかった、と。

 おそらく賛否は出て来ているものと思う。ひじょうに詩的で美しいが、まさにそうであるからこそ、深刻な社会問題を美化し過ぎているという批判は出て来るはずだ。

 この映画はその意味でどこまでも映画的であり、「社会派」的ではないように思える。「告発映画」を期待している向きにとっては、失望させられることだろう。

 この映画のなかでは、経済問題も労働問題もさらりとふれられている程度でしかない。作品の本質はそこにはないのだ。

 それでは、どこにあるのか? この映画は人の誇りと尊厳とは何かを描いている。映画の主人公は、ある意味では社会的弱者のきわみ、底辺労働者でしかない。

 それでも彼女は自分のライフスタイルにプライドを抱いているし、それは他者が踏みにじってはいけないものなのだ、ということ。ぼくはそこに『ノマドランド』のテーマを見た。

批判意見もあることだろうが――

 物語は、ネバダ州のある企業城下町がリーマンショックの煽りを受けて町ごと消滅してしまうところから始まる。

 そこでひとり暮らしをしていた60代の女性ファーンは、キャンピングカーに日用品と想い出の品をすべて積み込み、そこを家にして移動生活をくり返す「ノマド」として暮らすことになる。

 仕事を求めてアメリカ各地を放浪する彼女は、そのうちに同じような「ノマド」の人々とつよい絆を保つようになっていく。いつ果てるとも知れないファーンの「ノマドライフ」は、しかし、しだいに破綻しはじめる――。

 上で賛否がある映画だろうと書いたが、ぼくはこの映画を観ながら多数の批判的意見が出て来るだろうことが想像できる気がした。

 というのも、『ノマドランド』はあまりにも美しい映画なのである。美しすぎる、現実はこのようなものではない、と主張する人たちがかならず出て来るはずだと思った。

 クロエ・ジャオ監督はじっさいにノマドとして暮らしている人々を映画のなかに取り込んで独特の映像空間を作り出し、圧倒的なリアリティを演出することに成功している。

 だが、それでいてこれが「ノマド」の生活の実態かというと、やはり違うだろう。映画のなかの「ノマド」たちは貧しくも誇り高く生きているが、じっさいにはそのようには生きられない人たちがたくさんいるはずだからだ。

 その意味で、現実を無視しているという批判は成立するだろう。だが、その批判の妥当性はどうだろうか?

プライドは捨てられない。捨ててはならない。

 どれほどリアリティに富んでいるとしても、映画はあくまで映画である。そして、すくなくとも劇映画の目的は一般に社会問題を告発することだけではないはずだ。

 もちろん、ときには告発を意図して作劇されることもありえるが、それが主眼ではない。そこで中心となるのは、あくまで美しいこと、面白いこと、楽しいこと、哀しいことなど、エモーションに訴えかけることである。それが映画。それが芸術。

 『ノマドランド』はあきらかにひとつのフィクションとして美しく切々と感傷を盛り上げることを選択している。そして、ぼくはそれがひとつの社会問題を劇的に告発する映画より劣っているとは思わないのだ。

 また、この映画のなかの人々は、たしかに社会の理不尽に見舞われた弱者ではあるが、一方でギリギリのところで自分の生き方に誇りを持っている。

 これについても、現実はそんなものではなく、誇りなど持ちようもないひとたちが大勢いるはずだという批判が寄せられるかもしれない。

 ただ、ぼくは思う。人はどんな生き方をしていても最後の最後までプライドを捨てられないものだし、自分の生をどうにか肯定しようと努力するはずだと。その努力をいったいだれが否定できるだろうか。

 作中のノマドたちを「アメリカの政治と経済の矛盾によって生み出されたかわいそうな社会的弱者」と見ることもできるが、それもまた一面の見方であるに過ぎない。何が正しく、何が間違えているかは単純には判断できないのだ。

たとえ野垂れ死にするとしても。

 いずれにせよ、定住を拒否して家を持たない以上、作中の主人公ファーンを含めたノマドたちを待つものは、最後にはかならず「野垂れ死に」でしかない。

 ぼくはファーンがそういう人生を心から肯定し切れているとは思わない。迷いもあるだろう。ためらいもあるに違いない。しかし、それでもなお、ファーンは数少ない選択肢のなかからその生き方を選び、そのことにプライドを抱いている。

 それはあるいは、単なる自己正当化に過ぎないように見えるかもしれない。だが、人間の人生とは、そのようにどうにか自己正当化して「これでいいのだ」と考えていくしかないものなのではないだろうか。

 どんな時代のどのような国家にも理不尽な出来事はあったし、またある。人にできることは、そのなかで何とかして自分の人生を肯定できるようにしていくことだけだ。

 それはべつだん、ノマドだけに限ったことではなく、だれでも同じなのである。そうである以上、だれがファーンのあり方をみじめだと笑うことができるだろう? だれにもできないのではないか。

 あるいは政治的な見地から見れば彼女はもっと「弱者」として描かれるべきであるのかもしれない。だが、そのしなやかでつよいあり方は魅力的だし、ぼくは映画はそれで良いと思うのである。

 くり返す。すばらしい映画だ。ぜひ、Amazonなどでご覧になられることをオススメするしだいである。傑作。

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