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百合作品の多彩性は素晴らしい。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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『作りたい女と食べたい女』。

 ゆざきさかおみのマンガ『作りたい女と食べたい女』第一巻が素晴らしかった。

 たくさんの料理を作りたくてたまらないが小食なので作れずにいる「作りたい女」が、偶然に近くに住んでいる「食べたい女」のことを知り、彼女といっしょに食事をするようになるというお話。

 広い意味でのシスターフッドの物語であり、百合ということもできるだろうが、その点はとくだん意識しなくても読める。

 ささやかな出来事から知り合ったふたりのタイプの違う女性が、少しずつ親しくなっていくプロセスが読ませる。読み終えてすぐ続きを読みたくなるような爽やかな作品だ。

 大きなオムライスや特大プリンなど、べつだん特別なものではないが、それでいてやはり美味しそうな料理の数々も楽しいが、やはり魅力的なのは主人公の女性ふたりの飾らない関係性だろう。

 女性同士ならではの助け合いの様子はフェミニズム的といって良いように思われる。

 すでによしながふみ『きのう何食べた?』の女性版という評価も出てきているようだが、『きのう何食べた?』にせよこの作品にせよ、女性が作って男性が食べるという決まりきったスタイルからの脱却を描く作品であるといえるかもしれない。

 すべてのステロタイプが一様に悪いというわけではないが、ひとつのパターンしか許容されないのは退屈だ。このような作品が市場に出て来ることは歓迎されるべきだろう。多様性(ダイバーシティ)の効果である。

「多様性」ではなく「多彩性」。

 もっとも、いま、多様性などというと、どうしてもポリティカル・コレクトネスくさい印象がぬぐえない。

 一概にポリコレが悪いというわけでもないが、どうしてもこの言葉を使うとイデオロギーが先行する印象を与えることだろう。

 しかし、ぼくがいいたいのは、さまざまな関係の表現がありえる状況のほうが、エンターテインメントは面白くなるという、それだけのことなのだ。

 そこで、ここでは「表現の多彩性」といういい方をしたい。

 ぼくは普段からさまざまな恋愛ものや友情ものを読むほうで、そのなかにはいわゆるボーイズ・ラブや百合の作品も含まれているのだが、それはBLや百合そのものが好きだというよりはやはり関係の多彩性を味わいたいという思いがつよいようにも思う。

 それは決して多彩な表現がある状況が「正しい」と考えているからではなく、エンターテインメントシーンにおいて、一様ではない表現がなされている豊饒な状況こそ望ましいと考えているということなのだ。

 たとえば、百合はそもそも、多彩な女性の表現なくしては成立しないジャンルである。女性のあり方が何パターンもないような状況では百合はまったく面白くない。

 『作りたい女と食べたい女』本編のなかに「同じ女はいない」という言葉が出て来るが、まさにその通りで、ひとりひとり異なっている女性の多彩性を描写できていることこそが百合というジャンルを成立させる条件となっているのである。

その昔、百合はほとんど成立していなかった。

 ここでいう百合とは、必ずしも女性同士の恋愛関係を描くジャンルという狭い意味ではなく、女性同士のあいだの何らかの関係性を描写する作品全般のことである。

 そのような意味での百合は、かつてはほとんど成り立たなかった。なぜなら、そもそも女性同士の関係の多彩性がジャンルを成立させるほどの次元に達していなかったからである。

 藤本由香里は1998年に上梓された少女漫画評論集『私の居場所はどこにあるの?』のなかで、その時代までの百合カップリングがほとんど「真紅の薔薇と砂糖菓子」というたったひとつのパターンに集約されていることを語っている。

 それにくらべ、いま、女性同士の関係はなんと多彩に、豊かになったことだろう。そしてもちろん、マンガというエンターテインメントはそのぶん、面白くなったのである。

 これはもちろん、女性の社会進出などの事情も絡んだことには違いないが、もっと単純に漫画表現のなかで女性のイメージが単純ではなくなったということも意味しているように思われる。表現上の技術的な進歩があったのだ。

 いま、百合にせよ、あるいはBLにせよ、決してその表現は単純ではない。これはマンガを楽しむ一読者として、歓迎するべきことといって良いのではないだろうか。

 完全に同じ男も、同じ女もいない。あたりまえといえばあたりまえのことだが、それを丹念に描写できるほどマンガ文化は成熟したということなのであろう。

女性同士の関係の多彩性。

 百合というと、まず、往年の『マリア様がみてる』のような、疑似姉妹関係が思い浮かぶ人はまだ一定数いるかもしれない。

 しかし、現在の百合作品は、そのような限界を遥かに突破しているといえる。じっさいにさまざまな女性がいて、その関係が存在しているように、百合作品のなかでも多彩な女性と関係が描かれるに至っているのである。

 かつて一般的だった「真紅の薔薇と砂糖菓子」や、あるいは「王子と姫」のようなパターンは、いまでもまだそれなりに好まれて描かれているかもしれないが、それはあくまで無数にあるパターンのなかのワン・オブ・ゼムでしかない。

 もちろん、いまだキラキラとした美少女たちを描く作品が主流であることはまちがいないが、『作りたい女と食べたい女』を見てもわかるように、それだけであるわけでも決してない。じつにいろいろなパターンが好まれるようになっているのだ。

 おそらく、歴史的に見ると、『美少女戦士セーラームーン』の登場あたりがひとつのブレイクスルーだったことだろう。

 それ以降、ほとんどありとあらゆる女性表現と、女性同士の関係表現が試みられているようにすら見える。それは、ほんとうに凄いことだとぼくは思う。

 その可能性は、最終的には百合という言葉を超えていくのではないだろうか。ぼくはそのように思っている。

狭い意味での百合やBLではなく。

 ぼくが見たいのは、必ずしもボーイズ・ラブであったり百合であったりするのではなく、多彩な関係性を孕んだエンターテインメントの可能性そのものなのである。

 百合作品にはどうしても物語が対幻想的な関係性のなかに閉じこもって、それ以上面白くならない一面が散見される。

 だが、あくまでぼくとしてはエンターテインメントとしてより面白い作品を見たいわけだから、美少女同士がひたすらいちゃいちゃしているだけの作品では満足し切れないところがある。

 そういう作品はそれはそれで良いのだが、そのような関係を描くと同時に、ほかのもっと多彩な関係をも描く作品がもう少しあっても良いのではないだろうか。

 そのような意味で、『百合好きくんと百合好き好きくん』というマンガは面白かった。

 この作品のなかでは、百合作品を愛好する「百合好きくん」と、その百合好きくんに恋する「百合好き好きくん」のほか、「腐女子ちゃん」や「リア充くん」など、まさに多彩なキャラクターが登場する。

 これが狭い意味でのボーイズ・ラブにあたるか微妙なところだが、そんなこととは関係なく楽しい作品だ。

 その意味で、ぼくは「百合作品に男キャラはいらない」、「男性との辛みがある百合は邪道だ」といった意見には賛成しない。そういう意味では、ぼくは狭い意味での百合オタクではないのかもしれない。それならそれで良い。

 なるべくいろいろなキャラクターがいたほうが面白い。作家には、ただ狭い読者の需要に応えるだけでなく、広い世界の多彩性を活写する作品を描いてほしい。ぼくはそのように考えるものである。

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