アニメ映画

「最後はひとり」。細田守映画を貫くリアリティとは。

アニメ
スポンサーリンク

毎回、賛否両論の映画監督。

 細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』が興行的に好調のようだ。初日から大入りで始まり、いままでの細田映画で最大の興行成績を記録することはほぼ確実と見られている。

 映画は興行成績がすべてではないが、もちろんヒットするに越したことはない。日本のアニメ映画全体のためにも、歓ぶべき快挙というべきだろう。

 ぼくは先日、青春恋愛映画の秀作『サイダーのように言葉が湧き上がる』を観てきたが、こちらはほとんど客が入っていなかった。映画の入り不入りは内容の良し悪しとはべつだとしかいいようがない。

 あらためて映画がヒットすることのむずかしさを感じ入ったしだいである。

 そういうわけで過去最高の興収を確実視されている『竜とそばかすの姫』なのだが、その一方で、つよい批判を集めてもいる。シナリオの整合性や、そのメッセージが問題だというのだ。

 ある程度ヒットした映画が賛否両論となることは当然といえば当然だが、細田守作品はつねに「倫理的に正しくない」という批判を受けつづけてきた。

 この場合の「倫理」とはいったい何なのだろう。そして、どうして細田守の映画は「正しくない」といわれるのだろうか。

 たとえば宮崎駿の『風立ちぬ』などは、はるかに危険なメッセージを主張しているようにも見えるが、あまり問題になっているようには思われない。

created by Rinker
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

 そこで、細田映画批判の意見にはどの程度の妥当性があるのか、あらためて考えてみることとしたい(以下の記述は『竜とそばかすの姫』クライマックスのネタバレを含みます)。

『竜とそばかすの姫』、クライマックスの展開を見る。

 さて、その作家性のつよさゆえに、毎回、いろいろな「ツッコミどころ」を問題視される細田映画だが、今回、批判が集中しているのはクライマックスの展開である(いつもそうかもしれない)。

 物語の最後、主人公のすずがたったひとりでインターネットで出逢った「竜」の正体である子供たちのところへ向かう展開がありえないことだというのだ。

 この点について、ヒナタカ氏は「『竜とそばかすの姫』解説|細田守作品が賛否両論になる理由が改めてわかった」と題して、その問題を分析している。

 これはかなり中立的な立場から客観的に語られた分析だと思うので、引用しよう。

そして、今回の『竜とそばかすの姫』では、終盤に強引を超えて、誰もが「いやいやいや、おかしいでしょ!」と思ってしまうツッコミどころが、ある1点で限界突破してしまっていたというのが、正直なところだ。

誰もが気になるであろうことは、クライマックスで未成年の女の子である鈴を、2人の子どもを虐待している親のところまで、周りの誰もが止めることなく、1人で行かせてしまうということだ。

その虐待の光景を鈴と一緒に見ていたはずの、しのぶやカミシンは(子どもたちの居場所を突き止めてくれたが)ついていくこともなく、駅まで送ったおばちゃんたちも「1人でだいじょうぶかな」などと言っただけだけだった。鈴もまた暴行されてもおかしくないし(実際に鈴は虐待親から顔に傷をつけられる)、その後に虐待親と子ども2人が「たまたま家の外に出ていた」ことも含めて、あまりに展開が強引に感じてしまったのだ。

これは、単純なツッコミどころというだけでなく、テーマに対しても齟齬がある、そう感じさせてしまう作劇になってしまっているように思う。なぜなら、鈴のすぐそばにいた善意の人々さえも、ここで「傍観者」に近い存在にさせてしまっているからだ。

鈴の母は、周りの大人たちが何もできずに立ち尽くしている中、幼い女の子を救うために川に飛び込み、そのために亡くなってしまっていた。その時にネットでは「他人の子どもを助けて死ぬなんて、自分の子どもに無責任だ」「人助けなんて善人ぶるから、こうなるんだ」などと勝手な匿名の書き込みがされていた。そして、鈴もまた虐待をされている2人の子どもを救うため、その行動の決断をする。細田守監督の意図は、誰かを救おうとする意思を肯定し、そして何もしないばかりか、匿名で悪意の言葉をぶつける者への批判である、ということは明白だ。

『竜とそばかすの姫』解説|細田守作品が賛否両論になる理由が改めてわかった | cinemas PLUS
→『竜とそばかすの姫』画像ギャラリーへ現在『竜とそばかすの姫』が劇場公開されており、公開からわずか3日間で、動員数60万人、興行収入8億9000万円に到達する大ヒットを遂げている。まず、本作は絶対に映画館の大スクリーンで観る価値がある。ネッ...

それは「必然」なのではないか。

 ヒナタカ氏の指摘はよくわかる。しかし、どうだろう、ほんとうにこの個所は「テーマに対しても齟齬がある」といえるのだろうか。

 じつは、ぼくはむしろ、細田守監督の抱えるテーマにおいて、この展開は「たまたまそうなってしまった」ものではなく、ある種の必然だったと考えているのである。

 この映画は、細田守監督自身が脚本を手掛けていることもあって、過去の細田映画にも増して、強烈な作家性に満ちている。それはポジティヴな面でもネガティヴな面でもそうだろう。

 あえていうなら、いままだ細田映画を受け入れてきた層にはより受け入れやすく、受けれられなかった層にはより受け入れづらくなっているのである。

 その意味では、映像作家・細田守の最高傑作であるとともに、最大の問題作であるともいえる。

 その変化を「ノラネコの呑んで観るシネマ」では「純化」という表現を使って評価している。

本作もまた、竜の正体に興味を持ったすずが、傷付いた彼を救おうと奮闘する。

ただ、この動機の部分はちょっと弱く、なぜすずが自分のライブを壊してしまった竜にこだわるのか?という疑問は最後まで残る。

本作は細田監督が自分で脚本を担当して三作目にあたるが、いまだに構成は不得手と見えて、娯楽映画としての観やすさ、流れのスムーズさは、やはりかつてコンビを組んでいた奥寺佐渡子には及ばない。

一方で、映画作家として描きたいことはより純化されていて、いわば夏休み娯楽大作の仮面をつけたゴリゴリの作家映画となっている。

当然アンバランスな部分もあるので、この作品の作家性に共鳴できるかどうかが、評価の分かれ目になるだろう。

ノラネコの呑んで観るシネマ 竜とそばかすの姫・・・・・評価額1750円

「欠点」なのか「個性」なのか。

 「ゴリゴリの作家映画」。一見すると大味な娯楽大作とも見えかねないこの作品は、その実、細田守監督のきわめてプライベートな作品だということである。

 これは、『竜とそばかすの姫』で頂点に達してはいるものの、本質的には細田監督の出世作である『時をかける少女』移行、ずっとそうだったといえるかもしれない。

 その意味では、庵野秀明監督の『エヴァンゲリオン』シリーズにも近いものがあるだろう。庵野監督作品も、そのアクの強さから、いつも賛否両論を巻き起こしてきたのだった。

 ただ、庵野監督作品は、いかにも「作家性を表に出しています」ということがわかり切っているのに対し、細田守監督作品は、一見するとファミリー向けの「安全な」娯楽大作映画とも見える点が問題である。

 いわば庵野監督作品が見るからに「危険な」雰囲気をただよわせているのに対し、細田守作品は表面的には「安全な」作風に見える。だから、その作家性の問題点も「うっかり失敗してしまった」ものとしか受け取られない。

 だが、その、一見するとシナリオ上の瑕疵と見える「強引な」展開は、ほんとうに単にシナリオ上の瑕疵であり、「ツッコミどころ」であるに過ぎないのだろうか。

 もしそうなら、他の人物が補佐としてシナリオに手を加えるなどすればその問題を防げるだろう。しかし、ぼくは個人的にそうは考えない。むしろ、その「欠点」にこそ細田守作品の個性があると感じている。

「応援」と「協力」。しかし――

 くり返そう。『竜とそばかすの姫』終盤の展開に対し、ヒナタカ氏はこう批判していたのだった。

これは、単純なツッコミどころというだけでなく、テーマに対しても齟齬がある、そう感じさせてしまう作劇になってしまっているように思う。なぜなら、鈴のすぐそばにいた善意の人々さえも、ここで「傍観者」に近い存在にさせてしまっているからだ。

 この指摘は正しい。この問題に対して、すず以外のすべてのキャラクターはことごとく「傍観者」でしかない。

 だが、ぼくはこれは「たまたま描写を失敗してしまった」ということではないと感じる。なぜなら、いままでの細田映画でも、この「最後はひとり」という描写は繰り返されて来ているからである。

 こう書くと「どこが?」といわれるかもしれない。『サマーウォーズ』を始め、さまざまな作品で主人公はまわりに応援され、多大な協力すら受けて活躍して来たではないか、と。

 そう、とりあえずはその通りではある。そのことはこの『竜とそばかすの姫』でも変わらない。自らアンヴェイルして素顔をさらし、孤独に震えるすずに向かって、世界中の人々が「歌って!」と応援する。

 しかし、それでいてやはりすずは「最後はひとり」なのである。これはどういうことなのか。テーマと矛盾しているではないか。

 いや、ぼくはそうは思わない。むしろこれこそが細田守監督のテーマであり、リアリティなのであると受け止めるべきなのだと考えるのだ。つまり、

「他人は応援はしてくれるが最後には助けてくれない」

 これが、細田守映画の人間観なのではないだろうか。

「傍観者」は否定されているのか?

 そうだ。たしかにこの映画は「自分を犠牲にしてでも人を助けること」を称揚しているように見える。その一方で「傍観者として他人を誹謗すること」は否定されている、ようにも見える。

 しかし、よくよく考えてみると問題はそう単純ではない。なぜ、すずは自分のコンサートを混乱させた「竜」にこだわるのか。そして、なぜ、すずは最後にひとりで東京へ向かわなければならなかったのか。

 それらをただ「シナリオのミス」と見てしまえばそれまでだが、ここではあえてその見方に疑いを持ち、細田守作品においては「他人は応援はしてくれるが助けてくれない」という人間観があると考えてみる。そうすると、見えて来るものがある。

 細田守という作家は、ある意味では一見すると陽性の人間礼賛の作家であるように見えて、その実、きわめてシビアな人間不信を抱えているということである。

 つまり、かれは「いざとなったらだれかが助けてくれる」ということを信じていないのだ。

 たしかに、『竜とそばかすの姫』や過去作品では、他者はある程度のところまではきわめて協力的だ。

 それは庵野監督作品のようないかにも人間不信を感じさせる「傷ついた、傷つけられた世界」とはまったく異なっているように見える。

 だが、細田守作品においては、最後の最後、決定的なポイントで主人公は「ひとり」であることを突きつけられる。『竜とそばかすの姫』では作家性の「純化」のためにそれがわかりやすく突出しているだけだ。

「個」と「個」のささやかなつながり。

 このリアリティ、世界観が一方で反発を受けることは良くわかる。

 いままでの細田守の作品では、一見すると、他者はごく優しい存在として描かれているように見えていた。

 『サマーウォーズ』でも、『竜とそばかすの姫』でもそうなのだが、主人公が一念発起して勇気を振り絞り、利他的な行動に移るとき、まさに世界中が応援してくれるのである。

 それはきわめて感動的な演出をともない、脚本上のクライマックスともなる。しかし、その実、かれの作品では、最後の最後ともなると、他者は徹底して助けてはくれない。

 『おおかみこどもの雨と雪』などでも見られるように、主人公自身もまた、他者の協力を求めない。

 細田守映画における他者とは、ほんとうにただただ、応援してくれるだけの存在なのだといっても良いだろう。

 一方で、主人公はつよい利他精神を発揮する。しかし、それも、ある種の孤独な魂の共振、つまりは「個人的なつながり」にもとづくものに留まる。

 その意味では、かれは、彼女は、ヒーローではない。

 『バケモノの子』で象徴的に描かれていたように、かれは自分の「シャドウ」と対決し、それを乗り越えはする。だが、それを万人のため、普遍的な正義のために戦っていると解釈すると作品を見誤ることになるのではないか。

 あるいは、すずの母親は、そのような意味での「利他の人」であったかもしれないが、すず自身は違っていると見るほうが合っていると思うのだ。

遥か遠く離れ合った星と星。

 ヒナタカ氏は先述の記事でこう書いている。

それでは、母が亡くなった時に川で突っ立っていた大人たち、ネットで無責任なことを言う者たちとあまり変わらないではないか……というのは言い過ぎだろうか。だが、せめて、しのぶも自分のアバターをアンヴェイルして鈴の気持ちに寄り添ったり、誰かが鈴を猛烈に引き止めたりするシーンはあってよかったはずだ。おそらく、数人で虐待親のところに行かなかったのは「(ネットの住人のように)集団から個への攻撃」になることを避けたかったことも理由なのだろうが、個人的には「ネットだけでなく現実でも、鈴は1人じゃない」とこの時点で訴えてほしかった。

 だが、それはまさにいままで縷々書いて来た細田守のリアリティではありえないことなのではないだろうか。

 むしろ、ネットでも現実でも、「人は最後にはひとり」というのが細田守の感覚であると見たほうがスッキリする。

 そして、その「ひとり」と「ひとり」、無限の大宇宙にわずかにかがやく遠く離れた星々のような子供たちが、互いに惹かれ合い、寄り添い合い、支え合う。そこにこそ、細田守はかすかな希望を見ているのかもしれない。

 そこには、「他人は応援はしてくれるし、協力してくれることすらもあるが、それでも人間は最後はひとり」というきわめて厳しいリアリティが見て取れる。

 その意味では、『竜とそばかすの姫』のクライマックスの展開は完全な必然なのである。

人は信じ合うべきなのか?

 ヒナタカ氏は細田守映画の欠点を「ファンタジーと現実の乖離」に見ているようだ。しかし、細田守監督の映画で描かれている世界は、ファンタジーでもなく、現実でもなく、最初から最後まで一貫して細田自身の心象世界であると考えればすべてに理屈が通る。

 映画はすずと「竜」が再会したところで唐突に終わりを迎える。これに対し、「現実的には何も解決していないじゃないか」と指摘することもできる。

 だが、細田守のテーマでは、かぎりなく孤独でだれにも頼れない「ひとり」と「ひとり」があらゆる艱難辛苦を越えて巡り会い、信じ合うことができたなら、そこで物語は終わりなのである。

 「その後、虐待事件はどうなったのか」といったことはしょせん蛇足に過ぎない。

 このようなリアリティを「間違えている」と考える人も大勢いるだろう。「人はひとりではないし、もっと信じ合うべきなのだ」と。

 だからこそ、細田守映画はつねに強烈な批判を受けつづけてきた。細田守の「人間不信」は、ある種邪悪なものとしてすら見られていたように思う。

 しかし、その見方は正しいのだろうか。いささか唐突かもしれないが、ここでぼくは最近読んだ鈴木おさむ氏の「いじめ問題」に関するコラムを思い出す。

 そのコラムでは、「いじめ」に関し、傍観する人間にも罪はある、否、むしろそのような人間こそが最も重い罪を抱えているのだ、と記されていた。

「いじめ傍観はいじめと同罪」論。

 鈴木氏は、過去、自分が関わった「いじめ」事件についてこのように書く。

 最初に僕がみんなの前に呼ばれました。僕は学級委員長でした。B先生に呼ばれ「おさむ、お前学級委員長だよな?」と言われて、思わず僕は「僕はイジメしてません」と言ってしまったのです。僕はイジメには「参加してなかった」。だけどイジメには気づいていた。

 するとB先生が言いました。「学級委員長でありながら、見て見ぬフリするのが一番の罪なんだよ!」と叫んで僕の右頬を強い力で張りました。先生の言うとおりだと思いました。

 気づいているのに見て見ぬフリ。一番の罪。最低です。

小山田圭吾さんの問題からイジメについて鈴木おさむが思うこと 見て見ぬフリも罪〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース
 放送作家・鈴木おさむさんが、今を生きる同世代の方々におくる連載『1970年代生まれの団ジュニたちへ』。今回は、イジメについて。

 「気づいているのに見て見ぬフリ」が「一番の罪」であるというこの意見は、しばしばいじめ関係の議論で見られるものである。

 これをここでは「いじめ傍観はいじめと同罪」論と名づけよう。

 この論理は、あるいはいじめをなくすためには有効であるのかもしれない。いじめは、いじめをしている人間だけではなく、そのまわりで傍観していた人間も含めた、すべての関係者に「罪」がある。そういう価値観ですべての人間が動けばいじめは減るのかもしれない。

 だが、ぼくはこの論理につよい反感を抱く。じっさいにいじめをした人間とただ見ていただけの人間が同罪でなどあるはずがない。まして、傍観していた人間こそが「一番の罪」であるなどということがありえるはずもない。そう思うのである。

「人はひとり」というリアリティ。

 おそらく「いじめ傍観はいじめと同罪」論を唱える人は、人は助け合うのがあたりまえである、そうしないことは罪悪である、というリアリティを有しているのだろう。

 そういう世界観を抱ける環境で育ったことは、皮肉ではなく、幸せなことだと思う。しかし、ぼくは、おそらく細田監督もそうなのかもしれないが、異なるリアリティを有している。

 それは「人は最後にはひとりで、だれも助けてはくれない」という人間観であり、世界観である。

 細田監督の映画においては、この娯楽映画としてはあまりにクールでシビアなリアリティは、「他人は応援してくれる」という描写を挟むことによって隠蔽されている。

 そこには、一見すると人間に対する暖かな信頼があるようにすら見えかねない。だが、じっさいには、いままで細田監督の心象は長々と述べてきたようなものだと思うのである。

 ゆえに、細田映画においては、主人公は決してヒーローでも「正義の味方」でもなく、ただただ、個人的な結びつきにおいて行動しているに過ぎない。たとえその結果、世界を救うことがあるとしても。

 かつて、『時をかける少女』において、物語の脇でいじめられている男子生徒の描写が未解決に終わっていることが問題視されたことがあったが、その意味ではそれすらも必然なのである。

 「人はひとり」。

 「そのひとりとひとりの結びつきがすべて」。

 そのリアリティに、ぼくはつよく共感する。そこにシナリオの整合性を超えた「ほんとうらしさ」を見るのだ。

 もちろん細田映画を批判し、反発する意見もあって良いが、ひとつの見方として、このような視点を考えてみていただければ幸いである。

 「最後はひとり」。

タイトルとURLをコピーしました