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西野亮廣は天才かペテン師か。いまこそ「批判禁止」を乗り越えよう。

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天才か、それとも詐欺師か。

 「時代を切り拓く“異能”の人びとの物語 令和の開拓者たち最終回【西野亮廣】芸人・絵本作家」という有料noteを読んだ。「文藝春秋digital」のシリーズ記事のひとつである。

時代を切り拓く“異能”の人びとの物語 令和の開拓者たち最終回【西野亮廣】芸人・絵本作家|石戸諭|文藝春秋digital
テレビからネットに軸足を移し、本気で「ディズニー超え」を目指す。/文・石戸諭(ノンフィクションライター) 一挙手一投足がインターネットを騒がせる 庶民的な歓楽街というイメージが強かった東京・五反田界隈は、今やすっかり様変わりした。駅周辺には、成長を夢見るITベンチャーも集い、あらたな活気に満ちている。その一角に、...

 西野亮廣。

 いまの日本のインターネットで、おそらくは最も賛否両論を集める人物のひとり。

 かれが手掛けた『映画 えんとつ町のプペル』は興行収入20億円以上を記録している。まず、大ヒットといって良い数字だ。

 しかし、その一方で西野氏に対しては根強い「批判」がある。その内容はさまざまだが、途方もない大法螺を吹いて人を集め、その集団から金銭を搾取している、といったものが一般的だろう。

 つまりは、「まだ捕まっていない詐欺師」とか「金に汚いペテン師」といったダーティーなイメージが、西野には付きまとう。

 だが、この記事のなかで描かれる西野はその印象とは大きく異なっている。夢に対して真摯に向かい合う孤独な努力家。まわりからまったく理解されないままで行動を続け、いまようやく「仲間」を手に入れた高度な才能。

 だから、おそらく、この記事に対しては大きな反発が寄せられることだろう。西野のダーティーな一面を描き切っておらず、かれを大きく美化している。実態と乖離した提灯記事であるに過ぎない、と。

真実の、その一面。

 しかし、ぼくはおそらくすくなくともこの記事は真実の一面を捉えているのであろうと感じている。

 もちろん、ぼくは個人的に西野を知っているわけではないし、かれの性格のほんとうのところはわからない。ただ、この記事で描かれている西野像は一貫しており、一定以上の説得力があるのだ。

 西野に寄せられる「批判」の多くは、かれが金銭を第一の価値と見る法螺吹きの守銭奴である、という前提に立っている。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか。ぼくは西野がこの記事で書かれているように本心から「金」より「夢」に価値を見いだしているとしても驚かない。

 良く語られる金持ちの世俗的なイメージとはべつに、ある程度以上の金額を稼いでしまった人間にとって、かならずしも金銭は最高のインセンティヴにはならないと考えるからだ。

 もちろん、ただただ空虚な数字をふくらませていくことにカタルシスを感じる人間も多いだろうが、西野がそうだとは限らない。

 だからぼくは西野は自分の「夢」を本気で信じているのかもしれない、と思うのだ。

 かれはたしかに大法螺吹きではあるかもしれない。だが、その「大法螺」を自分自身でも心から信じている可能性はある。

 それが良いことなのか悪いことなのかは何ともいえないが、一概にかれを否定し切ることは、この人物の本質を見誤ることにつながるのではないかと思う。

サツバツとしたインターネットのアンチテーゼ。

 とはいえ、もちろん、この記事で描かれていることがすべてでもないはずだ。

 この記事を一読して気づくのは、やはり西野のオンラインサロンがあまりにも危険な構造をともなっているのではないかということだ。またべつの記事では、このように書かれている。

 ここにあるのは循環の構図だ。西野の物語を応援するということは、応援する側が物語の世界の一部になることを意味する。彼らは西野からの「ありがとう」というひと言に励まされる。応援することで、応援されるということだ。

 ここに、オンラインサロンで批判を禁止した理由も見えてくる。今のインターネットの世界では、誰かを肯定するより、批判や否定する言葉が目につく。少なくない人々は、批判の中身ではなく、「批判」というスタイルそのものに辟易としている。それは、それぞれの「神」を「推す」行為が隆盛を極めていることとリンクしている。ネガティブな言葉よりも、励ましの言葉が飛び交う場、批判なき「優しい」場から生まれるポジティブな物語のほうに、人は惹かれていく。

 彼は時代の空気を期せずして汲み取ってしまった。「西野亮廣」を取り巻く現象の本質はここにある。

「夢を信じているものは笑われる」西野亮廣のサロンにこんなにも支援者が集まる“本当の理由” | 文春オンライン
一体、なぜここまで惹かれる人が出てくるのかさっぱりわからない。ゼロ年代のお笑いブームを牽引した芸人であり、原作・製作総指揮を手がけた映画『えんとつ町のプペル』がヒットさせた西野亮廣についてそう思ってい…

 ぼくはこの内容を理解できる、と感じる。ありとあらゆる揶揄、嘲弄、冷笑、罵倒が「批判」というパッケージにくるまれて飛び交うサツバツとしたインターネットのアンチテーゼ。だれもだれかを批判しない「優しい」空間。そこにはつよい魅力があるだろう。

自由だが生きづらい言論の戦場。

 すくなくとも日本において、インターネットは、たしかに自由な言論空間だ。だれも他者に忖度することなくだれかや何かを「批判」できる。

 日本の政務を司る最高権力者たちですらその例外ではない。いな、権力者や有名人こそが最も痛烈な「批判」のターゲットとなる。

 それはたしかに素晴らしいことだと思う。しかし、その一方で、インターネットはやはりあまりにもサツバツとしている。あたかもインターネットにおいては万人が万人の敵であるかのようだ。

 特に有名人はわずかな失言や失敗すらも許されず、攻撃され、炎上させられる。そして、一般の無名人ですらも、いつ攻撃のターゲットになるかわからない。それは「自由」とうらはらの戦場だ。

 このようなインターネットの現状を好ましいと考える人間も多いだろうが、他方では日々、だれかの「悪口」が飛び交うネットの現状に心底うんざりしている人も少なくないはずである。

 そのことはよく理解できると思う。なぜなら、ぼくじしんが、ときとしていまのインターネットにうんざりさせられるからだ。

 ネットではどうしても人を称賛したり、褒めたたえたりする言論より、批判し、攻撃し、追い詰めようとする言論のほうが目立つ。

 それらはあるいは量的にはかならずしも多数派ではないのかもしれないが、それでも圧倒的に突出した印象を与える。

 そのような「自由だが、息苦しい」インターネットに失望した人びとこそが、西野の「批判禁止」のオンラインサロンに希望を見い出しているのではないだろうか。

カルト宗教の構造。

 しかし、一方でその「批判禁止」というルールは、やはり致命的に危険である。

 上記の記事のなかで描写される西野のオンラインサロンのかたちは、あまりにもカルト宗教に似すぎている。

 「神」とも「天才」ともいわれる「教祖」への心酔。あらゆる批判的意見の禁止。周囲からの意見の遮断。それは、ひとつの巨大な「エコーチェンバー」に過ぎないのではないか。

エコーチェンバー現象(エコーチャンバー現象、Echo chamber)とは、自分と同じ意見があらゆる方向から返ってくる「反響室」のような狭いコミュニティで、同じような意見を見聞きし続けることによって、自分の意見が増幅・強化されることを指す。ツイッターなどのSNSや、インターネット掲示板など「同じ趣味・思想の人とつながることができる」場で起こりやすい現象だ。

エコーチェンバー現象とは・意味 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
エコーチェンバー現象とは? エコーチェンバー現象(エコーチャンバー現象、Echo chamber)とは、自分と

 ということは、つまり、西野のオンラインサロンは「間違えた空間」なのだろうか。あくまで正しいのは、「自由な」インターネットなのであって、西野のオンラインサロンに集まっているのはそのきびしさに耐えられずに逃避した愚かな人々に過ぎないのだろうか。

 そのように見る人は、西野の「信者」たちをさんざんに揶揄し、嘲弄するだろう。「自分を客観視できずに「教祖」に金を貢ぎつづける愚か者ども(笑)」とでも。

 しかし、そのような態度はすでに西野自身によって西野のストーリーに取り込まれている。その種の「批判」は、西野の「信者」たちにとって、ただただうんざりする誹謗中傷にしか見えないだろう。

二者択一の袋小路。

 ぼく(たち)はここにひとつのどうしようもない袋小路を見いださざるを得ない。

 それでは、ぼくたちは、一切の「批判」が禁止された「優しい」、しかし欺瞞に満ちた閉鎖空間か、ありとあらゆる攻撃が「批判」という美名のもと肯定されるサツバツとした公開空間という二択を受け入れなければならないのだろうか。

 それはあまりにもうんざりさせられる二者択一であるようにしか思われない。たしかに、いまのインターネットで活き活きと、ありとあらゆる誹謗中傷も気にせず、「議論」を続けている人たちはいる。

 しかし、そういう人はこのインターネットにおいてすらも、絶対的なマイノリティであるように思われる。

 ほとんどの人は攻撃されれば傷つくし、まして多数から成る集団から「批判」されたなら、深く絶望するのだ。それはときとして、「自殺」という最悪のかたちへ通じることすらある。

 それはつまり正当な「批判」を受けいれられないほうが悪いのだ、というのも「正しい」意見だろう。自由な言論空間である以上、他者を批判する権利は大切だ。

 だが、そういう「正しい」理想のもと、くりひろげられているものを見てみよう。それは結局、ただの醜悪な「悪口」の際限のない肯定ではないか。

 じっさい、ネットにはあまりにも口汚い言葉があふれている。その醜さ、汚さに耐えられる人間ばかりではない。あるいは耐えられる人間であっても、ほとんどは疲弊しているのではないか。

袋小路を超えた第三の選択肢。

 そこで、ぼくは思う。「優しいが欺瞞的な閉鎖空間」か、「自由だが中傷が飛び交う公開空間」か、という二択を止揚し、第三の選択肢を考えることはできないものか、と。

 そこで、まずは西野のオンラインサロンできびしく禁止されているという「批判」という行為を考えなおす必要がある。上記のnoteから、「批判禁止」について書かれた部分を引用しよう。

ここに、オンラインサロンで批判を禁止した理由も見えてくる。今のインターネットの世界では、誰かを肯定するより、批判や否定する言葉が目につく。ネガティブな言葉よりも、励ましの言葉が飛び交う場、批判なき「優しい」場から生まれるポジティブな物語のほうに、人は惹かれ、お金を払う。

 しかし、「批判」とはほんとうにネガティヴなだけの行為なのか。ほんとうに「批判」は人を傷つけ、攻撃し否定することでしかないのか。辞書を引いてみよう。「批判」はこのような行為であると書かれている。

1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」

2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」

3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

批判(ひはん)の意味 - goo国語辞書
批判(ひはん)とは。意味や解説、類語。[名](スル)1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明...

 西野サロンで禁止されている「批判」は「2」の意味だろう。だが、ぼくは「1」の意味での「批判」こそが重要だと思うのである。

「批判」の暗黒面。

 もし、「批判」が、ただあいてより上位に立つことを目的とし、そして相手より上位に立っていることを前提として、ひたすらに相手の欠点を指摘し、指弾し、論難することを目的としたマウンティング行為だとすれば、それは、どれほど内容的に正しいことをいっていても、やはりネガティヴな行為だというしかない。

 むしろ、内容に正当性があることを根拠として、相手の人格までも貶めるような揶揄的、冷笑的な「批判」こそが、容易に反論しがたいという意味で、最も悪質であるともいえるだろう。

 ごくあたりまえのことだが、人間は複雑な存在である。ぼくもそうだし、たとえば西野のような人物もそうだが、ある一面で欠点があるからといって、全人格を否定することはできない。

 だが、ネットにおける「批判」は、往々にして「あいての存在の全否定」になりがちだ。それはある種の「正義」として「執行」され、その正当性を刃に変えて、あいての存在を切り刻む。

 このような意味での「批判」こそが、西野や、そのオンラインサロンに集まる人々にとって最も忌まわしいものなのだろう。それは理解できる。ぼくもそういった「批判」は、その内容的な「正しさ」を一面で認めるとしても、受け入れがたいと感じる。

 たとえば、ぼくが「1+1=3」と発言したとして、そのことそのものは意見されてしかないとしても、それを根拠にぼくの全存在を否定されるいわれはないと感じるのである。

 しかし、いまのネットではこれは通らない。何かしら間違いを犯した人間は「いくらでも叩いて良いしるし」を付けられた存在と化し、膨大な「批判」が集まる。

ポジティヴな行為としての「批判」。

 まさに西野がいうように、「夢を信じているものは笑われる」。そういう側面はネットにあるだろう。だからこそ、どれほど批判されても西野のオンラインサロンは求心力を失わないし、その「信者」たちの結束も乱れないのである。

 西野に対して、揶揄的、嘲弄的な「批判」は無効であるばかりか、むしろかれを利するばかりなのだ。

 それでは、いったいどうすれば良いのか。ぼくは「1」の意味での「批判」を取り戻すことが必要だと思う。

 揶揄するのではなく、攻撃するのではなく、嘲弄するのではなく、冷笑するのではなく、ただ「物事に検討を加えて、判定・評価する」。そのような、あいてにとっても大きな利益となる、ポジティヴな行為としての「批判」を行っていくことが必要なのではないか。

 たとえば、西野のオンラインサロンに集まる人々に対して、「信者乙www」、「やりがい搾取される奴隷ども、元気でな(笑)」などと揶揄しても、事態は絶対に解決しない。

 いま必要なのは、そのような「批判」といううつくしい言葉に隠蔽された悪意ではなく、ほんとうの意味で問題を解決することを目的とした「批判」なのである。

 つまり、「ある問題の解決策をいっしょになって考えること」のキッカケとしての「批判」。そのような批判のみが、かろうじて西野の「信者(とされる人々)」にも届くかもしれない。それは希望だ。

 だから、いまこそ正しく「批判」しよう。インターネットの言論をアップデートする「第三の選択肢」は、そこにあると思うのである。

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