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映画、マンガ、ゲームと「ポリコレ」のむずかしい関係。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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海燕(筆者)
海燕(筆者)

さまざまな「行き過ぎたポリコレ」が問題視されています。はたして「ポリコレ」とは「良いこと」なのでしょうか。それとも「悪いこと」? なるべく公正に考えてみました。

新スーパーマンはバイセクシュアル。

 スーパーマン(の息子)がバイセクシュアルのキャラクターとして設定された一件が、過剰な「ポリコレ」の結果だと話題となっている。

 10月11日、DCコミックスがクラーク・ケントの息子であるジョナサン・ケントがバイセクシュアルとしてカミングアウトすることを明らかにした。11月に発売される『スーパーマン』シリーズ最新号で、彼が友人で記者のジェイ・ナカムラと恋愛関係になるという。同社は、2人がキスをしている画像もプレスリリースとして提供した。今年7月からはじまった新シリーズ『Superman: Son of Kal-El(原題)』の主人公であるジョナサン・ケントは、クラーク・ケントとロイス・レインの息子。彼は父のヒーローマントを受け継ぎ、2代目スーパーマンになった。できる限り多くの人を助けようと奔走してきた彼は、あるとき「心も体も燃え尽きる」。そんな彼をケアしてくれたジェイと、ロマンスがはじまるのだという。

スーパーマンがバイセクシュアルに アメコミヒーロー界におけるLGBTQのこれまでと未来(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース
 10月11日、DCコミックスがクラーク・ケントの息子であるジョナサン・ケントがバイセクシュアルとしてカミングアウトすることを明らかにした。11月に発売される『スーパーマン』シリーズ最新号で、彼が友

 この記事によると、すでにアメリカンコミックスではゲイやレズビアン、バイセクシュアルなどのキャラクターはめずらしくないという。

 今回の「スーパーマン」ことジョナサン・ケントの場合もまったく斬新な出来事というわけではなく、その例に並んだに過ぎないわけだ。

 それでは、なぜ、このようなことが起こるのかというと、やはりアメリカを席巻する「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)」が背景にあるのだろう。

 この記事ではあらためて「ポリコレ」の是非を考えてみたい。

「ポリコレ」の定義とは。

 まず、「ポリコレ」とは何か。Wikipediaによると、このような定義となる。

ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。

 「不快感や不利益を与えないよう意図」。そして「中立的」。

 これだけでは何のことかまったくわからないが、つまりはその社会において少数派だったり弱者だったりする人に対して公正であろうとする姿勢のことだとぼくは理解している。

 たとえば黒人や女性や同性愛者はぼくたちの暮らすこの社会において少数派(マイノリティ)である。

 だから、普通に映画やゲームを作っていると多数派(マジョリティ)の出番ばかりが増え、少数派は抑圧されることになる。それは良くない。なので、意図してマイノリティの出番を作っていこう。

 「ポリコレ」の発想とはおおむねこのようなものではないだろうか。

 だから、古典的なヒーローマンガである『スーパーマン』シリーズにバイセクシュアルのキャラクターが登場したりすることになるのである。

 スーパーマンは異性愛者だけのヒーローではない、というわけだ。

「ポリコレ」が「行き過ぎる」とき。

 このように書いていくと、「ポリコレ」とは「良いこと」であるように思われて来る。

 いままで白人異性愛者ばかりが幅を利かせてきた映画やコミックやゲームに黒人や同性愛者のキャラクターが出て来る。けっこうなことではないか。

 これだけなら、いまとなっては、よほど偏狭な思想を持っている人以外はそのように受け止めるのではないだろうか。

 ところが、そう単純にはいかないのである。「ポリコレ」が「行き過ぎている」とみなされる例がいくつも存在するからだ。

 『スーパーマン』の例もそうかもしれないが、特にいままで「ポリコレ」的配慮が存在しなかったシリーズが、突然、「ポリコレ」的になる場合に、ファンの多くがとまどいや困惑や怒りを感じることになる。

 たとえば、『The Last of Us』のシリーズ第二弾は典型的な例だといえるだろう。

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 以下、『Last of us 2』に関するネタバレを含みます。

 以下の記事によると、次の点が『Last of us 2』がネットで「行き過ぎたポリコレ」とみなされ、「炎上」した理由だという。

1.男性主導の物語から、女性主導の物語へ

 前作の主人公である屈強な白人男性のジョエルは、本作では新キャラクターの屈強な女性であるアビーに殺される。ゲームの主人公はジョエルから同行していた女の子であるエリーに変わり、エリーとアビーを中心とした物語が描かれる。

2.LGBTQIA+キャラクターの登場と、その恋愛描写の存在

 本作ではエリーの恋愛対象が女性となっており、その恋人(ディーナ)も登場し、その二人の(女性同士の)恋愛描写が濃密に描かれる。また、女性として生まれたが、その事に違和感を抱き、頭を丸刈りにするキャラクター(レブ)も主要なキャラクターとして登場する。

【ネタバレあり】『The Last of Us Part 2』の“炎上”から考える、ポリティカル・コレクトネスに向き合うということ
先日書いた「【ネタバレあり】『The Last of Us Part 2』に向けられた批判は妥当か? “不快さと誠実さ”併せ持つ問題作について考える」という記事では、先月発売され、今もなお議論が続くゲーム、『The Last of Us Part 2』について、ゲーム中の「ある仕掛け」を軸に本作が招い…

それは冤罪なのか。

 ぼく自身は『The Last of Us』シリーズを遊んでいないので、この「炎上」の正否を問うことはできない。

 これだけだと何が問題なのかわからないような気もするのだが、保守的なユーザーにとってはこのような変化はあきらかな「ポリコレ」の表出であり、許しがたいことと受け止められたようだ。

 ただ、そもそも前作からして「ポリコレ」に配慮した作品だった、という意見もあるようで、この問題は単純ではない。

【ラスアス2考察】炎上・低評価とポリコレ配慮は無関係である理由【ラストオブアス2】
待望の続編として発売されたものの、ファンを中心に低評価が大量に付けられ大炎上中の『ラストオブアス2(The Last of Us…

 この問題について考えていくためには、そもそも「行き過ぎたポリコレ」とは何かと考えなければならない。

 「行き過ぎたポリコレ」を批判する人たちはたくさんいる。それは「行き過ぎたポリコレによって作品の世界や物語が歪められている」と感じるからだ。

 たとえば『The Last of Us Part2』においては、前作主人公の物語が見たかったのに、あっさり冒頭で殺されてしまうことが我慢ならないといった意見が数多くある。

 しかし、どうだろう。何しろぼく自身はプレイしていないから何ともいえないが、この展開自体は「ポリコレ」とは関係がないのではないだろうか。

 ようは作品の展開に対する不満を「ポリコレのせいだ!」と決めつけているだけであって、じっさいには「ポリコレ」は冤罪であるようにも思える。

 ある作品の続編の展開が賛否両論を生むのは良くあることだ。必ずしも「行き過ぎたポリコレ」の問題だとはいえないだろう。

「面白さ」と「正しさ」。

 ただ、だから「行き過ぎたポリコレ」など存在しないのかというと、それも単純にはいえない。

 そもそも「ポリコレ」が批判されるのは、作品の制作にあたって純粋な「面白さ」を以外の価値観、つまり「正しさ」が介在していると感じられるからだろう。

 作品はどこまでもピュアに「面白さ」を追いかけていくべきなのに、「正しさ」などというわけのわからない価値観がかかわって、そのせいで「面白さ」が毀損されている。

 そのように感じるとき、人は「ポリコレが行き過ぎている」などという。

 たとえば、いままでの『スーパーマン』で十分に面白かったのに、いきなりセクシュアル・マイノリティの表現が混ざって来るなんて理解できない、これは「ポリコレ」のせいに違いない、といった意見は典型的だ。

 しかし、よく考えてみよう。それでは、ほんとうにクリエイターは純粋に作品の「面白さ」だけを追求するべきであって、「ポリコレ」的な配慮は一切しないほうが良いのだろうか。

 そうかもしれない。だが、その結果としてできあがったのが、毎回、白人男性異性愛者のヒーローが美女と結ばれるハリウッド・テンプレートのストーリーである。

 そのような映画は、じつはマイノリティにとってはかならずしも「面白くない」ものだったのではないだろうか。

 たとえば毎回、白人男性ヒーローばかりが活躍することにひそかな不満を抱えた女性だっていたのではないだろうか。

『モータルコンバット』のアジア系描写。

 以下のような記事がある。

映画『モータルコンバット』を、「ゴアシーンがあるTVゲームの映画化で真田広之がとても格好いいらしい」ほどの認識で観に行った(のでどれほど原作へのリスペクトに溢れているか等については語れない、申し訳ない)。エンドロールから泣けてきて、映画館を出てからも、しばらく涙が止まらなかった。

悔しくて。嬉しくて。

『モータルコンバット』には多数のアジア系の俳優が出演している。日本人である真田広之、浅野忠信以外に、インドネシア人のジョー・タスリム、シンガポール系イギリス人のルイス・タン、中国系シンガポール人のチン・ハンら、多彩な国籍、出自の俳優がおり、それぞれがキャラクターの母国語で話すシーンもある。冒頭の江戸時代初期のハサシ・ハンゾウのシーンでは、真田広之の(ボランティアらしい…)監修もあり、かなり丁寧に日本文化の再現が試みられている。冒頭7分が公開されているからぜひ観てほしい。

映画『モータルコンバット』本編映像(冒頭ノーカット7分) 6月18日(金)公開

私は気づいたのだ。それまでハリウッド映画のトンチキアジア描写にハハハと笑ってきたけど、実は私は傷ついていたし、悔しかったのだと。アジア人がそれぞれ個性ある俳優として出演し、リアルなアジアの描写がある映画を求めていたのだと。『モータルコンバット』はそれだった(トンチキアジア描写については無理解からくるものと、メタ的なモチーフとしてあえてやっているもの等、様々な態度があり十把一絡げにはできないが、ここでは省略する)。

映画『モータルコンバット』の感想など|武川佑|note
ただ書き留めておきたいので書く。 映画『モータルコンバット』を、「ゴアシーンがあるTVゲームの映画化で真田広之がとても格好いいらしい」ほどの認識で観に行った(のでどれほど原作へのリスペクトに溢れているか等については語れない、申し訳ない)。エンドロールから泣けてきて、映画館を出てからも、しばらく涙が止まらなかった。 ...

 このような人は、必ずしも「少数の例外」ではないのではないだろうか。「ポリコレ」はいくつもこのような「幸福な出会い」を生んでいるのでは。

 その意味で、「ポリコレ」という名の「正しさ」は、じつは「面白さ」に大きく貢献しているのかもしれない。

「面白さ」には多様性がある。

 そもそも、ひと口に「面白さ」といっても人それぞれである。

 従来のハリウッド映画やアメリカンゲームでの「面白さ」の基準は、白人男性異性愛者であっただろう。

 しかし、じっさいにはこの社会にはメキシコ系もいれば、女性もいれば、両性愛者もいるのである。

 そのような人たちの「面白さ」は、必然、白人男性異性愛者のそれとは微妙に、しかし決定的に、違っていることだろう。

 となると、あくまでも純粋に「面白さ」を追求してきたはずのいままでの作品は、じつはそれらの人々にとっての「面白さ」を無視してきたことになる。

 「ポリコレ」という名の「正しさ」はそのことに気づかせてくれる。

 その意味で、「正しさ」は「面白さ」に対して良い仕事をしている。それは素直に評価するべきであるように思える。

 既存のものはそのままに、「プラスα」、「プラスβ」というように「面白さ」を拡張していくことは基本的に「良いこと」として受け止められるべきだろう。

 その意味では、「正しさ」に配慮すればするほど、より多くの人が「面白く」感じられるようになるといえそうだ。

 それはマーケットの拡大も意味するだろう。いろいろな意味で「ポリコレ」に配慮したマーベル・シネマティック・ユニバース・シリーズの黒人ヒーローもの『ブラックパンサー』は世界的に大ヒットした。

 じつはヒーローは白人でなければならないというのはただの思い込みだと暴露されたわけである。

「ポリコレ」の結果は市場が決める。

 また、最近は『キャプテン・マーベル』や『ワンダーウーマン』など、女性ヒーローもたくさん見かけるようになった。

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 おそらく、これは多くの女性、あるいは少女にとって、より「面白い」映画だといえるだろう。

 その意味では、一概に「ポリコレ」を批判することはできない。

 「行き過ぎたポリコレ」とされる例にしても、じっさいにはかならずしも「ポリコレ」に問題があるとはいい切れないことは見てきたとおりだ。

 単純に「ポリコレ」が絡むと映画やゲームが面白くなくなるとはいえないのである。

 いや、あるいは従来の層の人たちにとっては「面白くなくなっている」かもしれないが、べつの層にとっては「より面白くなっている」。

 総合的に見てそれがほんとうに「より面白い」作品であるかどうかは、最終的には社会が、市場が判断するだろう。

 それだけといえば、それだけのことだ。

 いままでも映画は、ゲームは変化してきた。これからも変化していくだろう。いま、「ポリコレ」とされる規範もまた、その変化の一翼を担うものである過ぎない。ある意味では、何も変わってはいないのだ。

 そういい切ることもできる。

 しかし、それなら、なぜ、「ポリコレ」はいまも賛否両論を生んでいるのだろうか。単に旧弊で保守的な一部のファンがさわいでいるだけなのだろうか。

『リトル・マーメイド』の黒人女優。

 もちろん、かならずしもそうとはいえないだろう。

 「ポリコレ」が特に問題となるのは、既存の作品の設定を変更したり、あるいはそこに新設定を追加する形で「作品を歪ませる」場合である。

 まったくの新作品で同じことをやったならそれほど問題にならないかもしれないのに、既存の作品を「正しい」形に変化させようとする。そこにある種の傲慢さと暴力性を見ないわけにはいかない。

 典型的なのは、実写版『リトル・マーメイド』に黒人女優が採用された一件だろう。

アリエルの黒人歌手起用から考える、ディズニーの“進歩主義”的姿勢と女性キャラ表象の歴史
2019年、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズによる実写版『リトル・マーメイド』アリエル役がハル・ベイリーに決定し、大きな議論を巻き起こした。ベイリーは黒人だが、オリジナルのアリエルは白い肌をしている。このことを受けて、英語圏SNSでは、#NotMyAriel(彼女は私のアリエルじゃない)等の反対運動…

 このような抜擢が、『人魚姫』とアリエルのイメージに深い思い入れを抱く層を刺激したであろうことは論を待たない。

 そこにあるものは、かならずしも差別心でも政治的保守性でもない。

 自分が深い思い出と思い入れを持ったキャラクターやストーリーを、何らかの「正しさ」にもとづいて変えないでほしいという願いなのだ。

 このような抵抗が生まれるのは、ひとえに新しい作品ではなく古い作品を題材に「ポリコレ」の鉈が振るわれるからである。

 なぜ、「ポリコレ」はこのように古い作品を「アップデート」しようとするのだろう。ただ単に市場に新しい作品を付け加えていくだけでは満足し切れないのだろう。

 それは結局、「ポリコレ」が政治的運動だからである。その意味で「ポリコレ」は単なる「プラスα、β、γ……」に留まるものではない。

 表現の世界そのものを根本からある種の「正しさ」にもとづいて変革してしまおうという精神がそこにはたしかにあるのだ。

左翼運動に付きまとう急進性。

 つまり、「ポリコレ」には表現の世界をより豊かにしていき、「面白さ」を感じられる層を拡大するという側面と、従来の作品を暴力的に破壊し、再構築しようとする面の両方があるということだ。

 おそらく、「ポリコレ」の理念そのものは素晴らしい。だが、その「正しい」理念を急進的に広めていこうとするのなら、そこで多くのものが破壊されていくことになるのである。

 これは、左派の運動にいつも付きまとう問題点だ。理念がどれほど正しいとしても、じっさいの人間がそれをうまく使いこなせるかわからないのだ。

 それにもかかわらず「理念は正しいのだ。それに反対する人間はまちがっている」と決めつけ、あいてへの軽蔑もあらわに「正義」を振りかざすなら、「ポリコレ」への反発はさらに大きくなっていくだろう。

 ぼくは理念が素晴らしいからこそ、それを時間をかけてゆっくりと広めていく覚悟が必要なのだと考える。

 これは政治的に見れば「保守」の考えかたかもしれない。

 しかし、あまりに急進的にリベラルな運動がしばしば致命的な結果を生むことはすでに歴史が証明している。

 ある程度の「保守的」な態度をも受け入れたうえで、バランスを取りながら、その理念を実現していくことが「ポリコレ」には求められるのではないだろうか。

 反対に、「ポリコレ」に反対する向きにも、もはや時代は元には戻らないことを認識することが必要とされるだろう。

 いまとなっては、一切の「ポリコレ」を無視して偏見と差別に満ちた作品を作ることは許されないのだ。

日本のエンターテインメントと「正しさ」。

 最後に、わが日本について語っていくことにしよう。

 われわれの国のエンターテインメントは、いままでほぼ「正しさ」ではなく「面白さ」を追求することによって発展してきた。

 しかし、まさにその結果としてどうなったかというと、非常に多様性のある文化ができあがったのである。

 わが日本のアニメには、たとえば黒人のヒロインもいるし、同性愛者の男女もいる。それは世界に向けて誇って良いことなのではないだろうか。

 それが「正しさ」を追求していないことを責める人もいるだろう。「面白さ」などという愚にもつかない価値観を重視するあまり、あるべき「正しさ」を無視していると。

 しかし、エンターテインメントにおいてまず第一に重視されるべきなのは「面白さ」である。

 わが日本が、エンターテインメントを制作するにあたって、その点を重視し、結果として多様性という「正しさ」に近い点にまでたどり着いたことは、非常に重い意味を持つ。

 つまり、「面白さ」と「正しさ」はまったく無関係ではないということなのだろう。

 広い層の「面白さ」を追求するのなら、結果としてある種の「正しさ」に近づいていく。

 だからといって、「面白さ」を無視して急進的に「正しさ」という「結果」を追い求めてもうまくいかない。そういう話に思える。

 「ポリコレ」という「正しさ」そのものは作品作りにおいて善でも悪でもない。それを有効に使いこなせるかどうかが大切なのだ。

 永遠に変わらずにいることはできないが、あしたすぐに変われと望むこともばかげている。

 ほんとうにあるべき形は、両端にある極論のあいだの、そのどこかにあることだろう。

つばめ<br>(看板娘)
つばめ
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