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ぼくたちはメンタリストDaigoの「差別」を責められるか。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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メンタリストDaigoによる「ホームレス差別動画」。

 「メンタリスト」を自称する有名YouTuberのDaigoさんが「差別発言」を載せた動画によって炎上してから数日が経ちました。

 初めのうちはわりと強気に対応していたようですが、あまりに状況が悪化しつづけることに「さすがにヤバい」と思ったのかどうか、先日、「謝罪動画」と「再謝罪動画」を上げたようです。

 以下の動画ですが、まあ、ちょっと見苦しいというか情けないですね。

昨日の謝罪を撤回いたします【改めて謝罪】

 あれだけ「辛口」の毒舌発言を行っていた人が、自分が追い詰められると一転して憔悴したところを見せるなんて、もうかっこ悪いことはなはだしい。Daigoさんに何らかのカリスマがあったとしても、これでもうそれも雲散霧消してしまうのではないでしょうか。

 といっても完全に自業自得としかいいようがなく、全然同情するつもりにはなれませんが、まあでも、あらためて「毒舌キャラ」で売っていくことのハイリスクがわかったような気がします。

 「世間が隠している欺瞞をズバズバ突いちゃう辛口で頭のいいオレ」というキャラで行こうとしてやり過ぎちゃったということなんだろうけれど、そのスタイルはほんとうに一歩でも足を踏み外すとおしまいという怖さがある。

 やっぱりネットでは「いいひと戦略」で行くべきですよね。岡田斗司夫さんはその意味では正しい。なぜ自分で実践しないのだろうとは思ってしまいますが。

 とはいえ、Daigoさんに対する「批判」もかなり混乱している部分もあるようにぼくには見えます。あらためてここで具体的に「何がどう問題なのか」考えていきましょう。

それは「優生思想」なのか?

 今回の件に対して最もクリティカルな批判は、「生活保護問題対策全国会議」、「一般社団法人つくろい東京ファンド」、「新型コロナ災害緊急アクション」、「一般社団法人反貧困ネットワーク」という四つの団体が発信した「メンタリストDaiGo氏のYouTubeにおけるヘイト発言を受けた緊急声明」でしょう。

メンタリストDaiGo氏のYouTubeにおけるヘイト発言を受けた緊急声明 | つくろい東京ファンド
2021年8月14日メンタリストDaiGo氏のYouTubeにおけるヘイト発言を受けた緊急声明生活保護問題対策全国会議一般社団法人つくろい東京ファンド                               新型コロナ

 この声明では、Daigoさんの発言を徹底して批判し、謝罪を求めています。

 で、そのほとんどの部分はぼくも賛成できるし、納得がいくものなのですが、ひとつ気になるところがあります。Daigoさんの発言内容について「人の命に優劣をつけ、価値のない命は抹殺してもかまわない、という『優生思想』そのものであり、断じて容認できるものではありません」と記しているところです。

 政治家の東国原英夫さんなども、この発言を受けて「本質的に優生思想肯定論者なのだろうと推察する」と発言しています。

 でもね、ぼくはDaigoさんの発言は「『優生思想』そのもの」ではないと思うのですよ。

 というのも優生思想とは「人の命に優劣をつけ、価値のない命は抹殺してもかまわない」というだけの思想ではないからです。

 人の命に優劣をつけるだけならただの差別思想なのであって、優生思想とはいえない、とぼくは考えます。

ナチス・ドイツの「優生思想」と虐殺事件。

 「障害保健福祉研究情報システム」の記事によると、優生思想とは「優生学」から発生したもので、そして優生学とは「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」です(『広辞苑』)。

用語の解説 優生思想

 たしかにその背景にあるものは「生きるにあたいするいのち」と「そうではないいのち」を区別し、後者を抹殺しても良いとする価値観であることに間違いないのですが、ただそれだけでは優生思想とはいえないでしょう。

 優生思想とはあくまで曲がりなりにも「社会を良くする」ことを目指して「遺伝的改良」をもくろむからこそそう呼ばれるのであって、だからこそある種の悪魔的魅力があり、恐ろしいわけです。

 ナチス・ドイツがこの「学問」と「思想」を背景に「T4作戦」と呼ばれる虐殺計画を実行に移し、じつに20万人もの人を死に追いやったことは(さらに膨大な人を殺害したユダヤ人虐殺の陰に隠れがちではありますが)、よく知られています。

 Daigoさんの発言はホームレスなどの「不浄」な人々を「生きるにあたいしない」とみなしているという一点において、たしかにナチス的なところがある。おそらく、上記の声明もその点を重視したのだと思う。

 しかし、それでも単なる差別思想を「『優生思想』そのもの」と呼ぶことは、ぼくは違うと思います。

その「差別」そのものをとがめられるか。

 より正確にいうなら、Daigoさんの話は優生思想の背景にあり、優生思想を成立させている価値観といったほうが正しいでしょう。

 この種の差別思想なしでは優生思想も成立しない。あるいは、優生思想とはこの種の粗雑な差別的価値観を遺伝学でコーティングしソフィスティケーションさせたものといえるかもしれません。

 ただ、Daigoさんの該当発言ももう少し細かく見る必要があるとは思います。ぼくはかれがホームレスを見下し、軽蔑し、「猫のいのちのほうが重い」と考えることそのものは否定できないと考えます。

 もちろん、なんというイヤな奴なんだとは思うけれど、倫理的/論理的に間違えているとは考えない。ある人のことを個人的にどう思うかということと、その人が社会的にどう扱われるべきかということは基本的にべつのことだからです。

 だから、Daigoさんが「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。だからホームレスの命はどうでもいい」ということそのものは、批判できない。

 いうまでもなく傲慢で尊大で悪意ある発言ではあるけれど、「個人的にそういう価値観を抱いている」ことそのものはその人の自由なのです。

 上記の声明では「DaiGo氏が猫を大切に思う気持ちは尊重されるべきとしても、猫と生活保護利用者やホームレスの人の命を比べて、後者について「どうでもいい」と貶めることは、明らかに一人一人のかけがえのない命を冒とくするものです」と書いているわけですが、ぼくはそうは思いません。

 Daigoさんにとってホームレスのいのちが「どうでもいい」ということと、一般論として社会がホームレスのいのちを「どうでもいいもの」として扱って良いということは、微妙に、しかし決定的に違っている。

 だから、ぼくはこの部分だけなら、感情的に強烈な不快さは感じるとしても、ロジカルに批判できるとは思わない。

 もっとも、この後でかれは「邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ。ねえ、治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん」と続けていて、まさに馬脚をあらわしているわけですが。

嫌悪が問題なのではない。

 どうでもいいことにこだわっているように見えるかもしれません。しかし、すくなくともぼくにとってはそうではありません。

 というのも、Daigoさんが個人的にホームレスに対し嫌悪感や差別意識を持つことそのものは責められないことだ、とぼくは考えるからです。

 たしかにとなりにいたら殴りつけてやりたくなるような不快な発言ではあります。こんな奴とは友達にはなれない。それはそう思う。

 しかし、やはり個人的な不快感と、社会的な正義とは分けて考えなければならない。Daigoさんがホームレスを蔑視することそのものは社会正義に背くことではないとぼくは考えます。

 もっとも、そのあとに思い切り社会正義に背くことをいっているので、やはりこの部分にも社会正義に背く意図があったのだろうと推測はできるのですが、それでもぼくはここは分けるべきだと思う。

 なぜなら、その方向で話を進めていくと、「嫌悪そのものが悪である」ということになりそうだからです。

 ぼくはそういうふうには考えない。ターゲットがホームレスであれ、オタクであれ、あるいは外国人であれフェミニストであれネトウヨであれ、嫌悪することそのものは悪くはないと思うのですよ。

 まあ、自分の嫌悪感と差別意識を客観視し反省して修正していくことができたらそれがいちばんなのは間違いないだろうけれど、なかなか人間、それはむずかしい。

 だから、大切なのは「自分が嫌いな人間にも人権がある」とはっきり認識していることではないでしょうか。

社会政策は個人の欲望を反映してはならない。

 Daigoさんは「生活保護の人が生きてても僕は別に得しないけどさ、猫は生きてれば得なんで」といっていますが、そもそも生活保護を初めとする社会福祉はかれが「得」をするためにあるわけではないわけです。

 厳密にいうなら、かれが「自分が得をするように社会システムが変わってほしい」と望むことそのものは問題ないけれど、そのために他者の権利を踏みにじることは許されない。

 あたりまえといえば、これ以上なくあたりまえのことです。しかし、くり返しますが、Daigoさんが生活保護受給者嫌いであることそのものは責められないと思うのですね。

 あくまで重要なのは、「嫌いな相手に対しても公平に振る舞えること」なのです。人に対して一切の好き嫌いを持たないということではありません。

 いや、当然、それもむずかしいわけで、やはり自分の偏見を修正していくことは大切だと思いますが、純粋に論理的にいうのなら、嫌悪という差別意識そのものを糾弾することはできない。

 なぜなら、人間はその意味ではだれもが差別意識を有しているからです。客観的、社会的な「いのちの重さ」は同じであるべきだとしても、主観的な「いのちの重さ」はそれぞれの人で異なる。

 それは人間が、人類が抱える現実なのであって、「見知らぬホームレスより猫のいのちのほうが重い」と考える人がいたとしても、そのことそのものはしかたない。

 ぼくだって、自分の愛する家族や友人と知らない人のいのちを比べたら、前者のほうが重いと考えますから。

 重要なのは、だからといって社会政策にその「差別」を反映してはいけないということであって、「人間が差別意識を持ってしまうこと」そのものはどうしようもないことなのです。

なぜひとは「差別」せずにはいられないのか。

 このように書くと、そうはいっても差別は良くないとおっしゃる方も出て来るかもしれません。でも、人間社会から一切の「差別」を排除することはかぎりなく不可能に近いのです。

 天才作家・坂口尚の遺作に『あっかんべェ一休』という作品があります。とんちで有名な「一休さん」の一生を追った名作なのですが、その物語のなかで、若き一休は、師から「お前の心には差別心がある」といわれ、衝撃を受けます。

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 当然、かれは師のことばを否定します。平等こそ仏法の基本、差別する心などわたしにはありません、と。しかし、そんなかれに向かって師はいうのです。

「そうかな……ではなぜ心の塵を払いたいという? おまえが「チリ」という時「清浄」が 「浄らか」という時「汚れ」たものがおまえの心の中に生まれるのじゃ おまえが「善き」ものと思う時おまえの心は「悪しき」ものを生んでいるのじゃ おまえが「美しい」と感じる時「醜い」ものを生んでいるのじゃ」

 そう、本来、自然界には「美しい」ものも「醜い」ものもありません。それらはただそこに存在しているだけです。

 しかし、人間は世界をありのままに感じることは出来ないため、良いの悪いの、清らかだの汚いのと区分して理解することになる。これが「差別」の根本です。

 とはいえ、この次元の「差別」をなくすことが人間にできるでしょうか。

『ヴィンランド・サガ』における「愛」と「差別」。

 おそらくこの『あっかんべェ一休』の影響を直接に受けた作品に、幸村誠『ヴィンランド・サガ』があります。

 この『ヴィンランド・サガ』では「愛」と「差別」を対比し、通常、「愛」といわれているものは「差別」に過ぎないと喝破されています。

 そう、その通り。ぼくたちはしばしばだれか、あるいは何かを「愛」し、それに敵対するものを「憎み」ます。これはまさに「差別」です。

 なぜなら、それはあるひとつのいのちを「ほかのいのちより重いもの」と見る発想に他ならないのですから。「愛する」とは「差別する」ということの別名でもあるのです。

 しかし、そうはいっても、人はそのようにして「差別」することなしでは生きていけない。そう、やはり幸村誠さんの『プラネテス』で、「愛しあうことだけはやめられないんだ」という名ゼリフがありましたが、まさにぼくたちは「愛という名の差別」を捨てられない生きものなのです。

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 『BASTARD!!』に「おまえたちの愛は壊れている」というセリフがありました。その通りなのだろうと思う。

 ぼくたちの愛は不完全で、かたよっていて、それ故に「差別」になってしまう。あらゆる存在をひとしく愛すという「神の愛」のようなものは、ぼくたち人間には、かろうじて想像はできるとしても、実行は不可能です。

 余談ですが、山本弘『アイの物語』には、「人間とは異なる愛(i)」をもったマシンたちが登場し、いわば「完全な愛」を示します。

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 作中ではそういうマシンたちは人間より高度な存在だとみなされているのですが、ぼくはこの描写はあまりにも欺瞞的だと思います。山本弘的なるものの欺瞞がすべてそこに結晶している。

 ですが、まあ、この記事はそのことについて書きたいわけではないので、またべつの機会に話しましょう。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。

 とにかく、何がいいたいかというと、人間には「完全な愛」は達成不可能で、自分が好きな存在を「差別」しながら生きていくしかないということです。

 だから、その「差別意識」そのものを否定することはできない。みぢかな猫のいのちは重くても、知らないホームレスのいのちは軽い。そのように思ってしまうことは、あるいは露悪的な表現は問題だとしても、ありえることだし、避けられないことでもあるのです。

 そんなはずはないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう人でも、すべての人に平等に愛をそそぐことなどできるものではないでしょう。

 どうしたって、好きな人のほうが嫌いな相手より大切だと感じてしまう。それは人間にとって不可避の性質なのだと思います。

 もちろん、そういう人間の性質そのものを乗り越えようとした人がまったくいなかったわけではありません。たとえば、詩人の宮沢賢治がそうでした。

 賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉を遺しています。

 つまり、あるひとりの幸福は、全体の幸福が成り立って初めて成立する、たったひとりでも不幸な人がいるかぎりは、人は幸せになることはできないということ。

 あきらかに全体主義につながりかねない露骨に危険な発想ではありますが、しかし賢治のこの絶対的な真剣さは胸を打ちます。

 ここで賢治は、ある意味でDaigo的な露悪趣味の対極に立っているといって良いでしょう。

銀河鉄道のその先へ至る想い。

 とはいえ、その賢治ですら、ほんとうに「神の愛」を実践することはできなかった。『春と修羅』のなかに、最愛の妹トシを亡くしたあとの心境を記したと思しい箇所がありますが、そこを読むと賢治の切ない心境が胸に迫ります。

まだいつてゐるのか
もうぢきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
     ((みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない))
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 みんな昔からのきょうだいなのだから、決してひとり(トシ)の成仏だけを祈ったりしてはいけない。この、あまりにも潔癖な詩は、あきらかに「神仏の慈愛」を志すものです。

 しかし、賢治はその末尾を、「あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかつたとおもひます」と濁している。

 かれにしても、愛した妹とそこらのだれかを同一のように愛することはむずかしかったのです。たとえそれが「みんなのほんたうの幸福(『銀河鉄道の夜』)に通じるものだとしても。

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ひとの弱さこそが可能性でもある。

 人間は弱いものです。だれかを愛し、その存在を「差別」することなしでは生きていくことはできません。

 その意味ではDaigoさんの「差別」もまたしかたないものだといえます。許されないのは、その心理を社会政策に拡大して考えていることなのであって、「差別そのもの」はだれでも経験していることなのです。

 そして、弱さといえば、やはり『春と修羅』のあまりにも有名な冒頭が思い浮かびます。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 「わたくし」という存在は「せはしくせはしく明滅」しているものだということ。この表現は『風の谷のナウシカ』のこれもまた有名な「いのちは闇の中のまたたく光だ!」という言葉につながっていくでしょう。

 人は、いのちは、生き、死に、あるいは灯り、あるいはかき消える、そういうかよわいものだということ。それで良いのだということ。賢治やナウシカの紡ぐ言葉はそのように主張しているかのようです。

 そして、ここまで考えて、初めて「平等」という概念がある種の意味を持ってきます。

どの遺伝子が役に立つか不明だから優生思想が問題なのではない。

 エリートであれ、ホームレスであれ、人間であれ、猫であれ、すべての存在は等しくかよわい。「せはしくせはしく」明滅をくり返す不安定な存在である。

 しかし、いい換えるならその「弱さ」とは「世界に対し開かれている」ということでもある。ぼくたちは「弱い」からこそ、不安定に揺らいでいるからこそ他者からの影響を受け変わっていくことができるのだから。

 松岡正剛はその「弱さ」を「フラジャイルの美」といい、ブレネー・ブラウンは「ヴァルネラビリティ」と呼びました。

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 そう、だからぼくたちは「弱くてかまわない」。むしろ、その弱さこそがぼくたちの可能性ですらあるのです。

 これは、「弱いことが見方を変えれば役に立つ」ということではありません。しばらくまえに、「自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。でも人間の社会では何故それが行われないのでしょうか?」という問いに対するあるアンサーが秀逸だということで話題になりました。

 それはこのような内容でした。

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ

あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう”形質”が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です

例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません

だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に... - Yahoo!知恵袋
弱者を抹殺する。不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思います。自然界では弱肉強食という単語通り、弱い者が強い者に捕食される。でも人間の社会では何故それが行 われないのでしょうか?文明が開かれた頃は、種族同士の争いが行われ、弱い者は殺されて行きました。ですが、今日の社会では弱者を税金だのなんだので、生かし...

 しかし、ぼくはこれは正しい答えではないと思っています。

醜くても、愚かでも。

 なぜなら、ここにあるものは「障害者だって何かの役に立たないとも限らない。だから生きていたほうがいい」という考えかたに過ぎないからです。

 この発想でいけば、もし将来的に遺伝子の解明が進み、「やはり何の役にも立たない無駄な存在だった」ということになったら、「弱者」は生きている意味がないということになる。

 そうではないでしょう。ぼくたちの「弱さ」は、あるいは何の役にも立たないかもしれない。それでも、ぼくたちは生きていたいと望むし、生きていていい。そういうふうに考えるべきです。

 迷惑かもしれない。無駄かもしれない。邪魔かもしれない。そして、そこには必然的にほかの生きものとの矛盾と相克が発生するでしょう。それでも、生きていたいと望むものは生きていていい。

 なぜなら、「みんなむかしからのきやうだいなのだから」。つまり、ほんのわずかな能力の差はあっても、同じように「存在の根源的な弱さ」を抱えた同胞なのだから。

 ぼくはそう思います。人は人を愛し、憎み、つまり差別する。それはどうしようもないことだけれど、それでもせめて、「むかしからのきやうだい」である他者に対して、少しでも優しくありたい。

 そのように願うのは、決してぼくだけではないでしょう。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という言葉は、決して単なる幼いきれいごとではなく、その文脈での血を吐くような言葉だと理解されるべきです。

 だからこそ、ぼくたちはこの地上で苦しみもがきながらも生きていく。そのすべての生は祝福されている。Daigoさんにもそのことがわかってもらえれば良いのですが。どこか遠くの星に祈るように、ぼくはいまそう祈っているところです。

 「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」(『SWAN SONG』)

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