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ほんとうに映画は幼稚な観客向けになったのか?

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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 こんな記事を読んだ。

映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由(稲田 豊史) @gendai_biz
先日、映画やドラマやアニメを倍速視聴、もしくは10秒飛ばしで観る習慣に対する違和感を記事にしたところ、大きな反響があった。記事で指摘した倍速視聴・10秒飛ばしの背景の中でも、特に多くの議論を呼んだのが、「セリフですべてを説明する作品が増えた」ことだ。なぜこのような傾向が生まれたのか。そして、こうした流れについて作り手は...

 「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647)の続編で、「映像作品の観客が幼稚になってきている。あるいは、幼稚な観客の感想がネットによって可視化され、それが作品にフィードバックされた結果、作品もまた説明過多の幼稚なものになって来ている」という趣旨である。

 一読、なるほど、と思わせられる。たしかに、テレビ番組などは「説明過多」の傾向があるし、そこから論理的に考えるとそういう結論が出て来る。いや、まったくいまどきの映像作品は幼稚かつ低俗で困ったものだ……。

 うん? ちょっと待て。ほんとうにそうだろうか? この記事、論旨そのものはきわめてロジカルだし、うっかりするとつい安直に追随して「昔は良かったなあ」とかいいたくなる誘惑に満ちているのだが、それだけにここは眉に唾をつけて読んでみることにしたい。

 そうすると、色々と怪しい個所が見えて来る。たとえばこの記事の結論は、こうだ。

「変えた、と言えば『シン・エヴァンゲリオン』がいい例ですよ。1995~96年のTVシリーズから25年間、ずっと“説明しない”でおなじみだった庵野秀明監督でしたが、『シン~』の終盤では、主要キャラクターが順番に登場して、心情をセリフで丁寧に説明してくれました。

こんな親切な『エヴァ』は初めてです。庵野さんは常に時代に寄り添う人だから、“今はこういうターンだ”と思って、あえてそうしたんじゃないでしょうか」(佐藤氏)

 一瞬、たしかにそうだな、庵野さん変わったな、と思いたくなるのだが、ほんとうにそういえるのか。

 庵野秀明監督作品、特に『エヴァ』が「説明しない」作品だったことは事実だ。しかし、それは物語の背景設定について説明しないということであって、登場人物が心情をセリフで説明する側面がないということではないだろう。

 むしろ、『エヴァ』で名ゼリフとされているものは直接的に心情をセリフで説明したものが少なくない。何しろ第一話から「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」である。

 これは主人公・碇シンジの「そこから逃げ出してしまいたいけれど、逃げてはいけないと思う気持ち」をダイレクトにセリフで説明しているわけで、とても『エヴァ』が「セリフで説明しない」スタイルだとはいえない。

 よくよく考えてみると『エヴァ』の特徴はその直接さにあるとすら思えて来るくらいだ。たとえば「みんなもっとぼくに優しくしてよ!」のようなきわめて直接的なセリフは、どう考えても「登場人物の心情をセリフで説明」しているものだろう。

 そしてまた、物語の背景設定について説明を省いていることは『シン・エヴァ』でも同じである。あいかわらず「ゴルゴダ・オブジェクト」だの何だの、よくわからない専門用語が膨大に登場して観客を幻惑する。情報過多で一回見ただけでは把握し切れないスタイルは何も変わっていないのだ。

 たしかに『シン・エヴァ』にはきわめて「親切」な印象があるのだが、それは「登場人物が急に自分の心情をセリフで説明するようになったから」だとはいえないとぼくは考える。

 それでは、それまでの『エヴァ』と『シン・エヴァ』では何が違っているのか。それは、ひとつには登場人物のコミュニケーションが円滑に行われているということなのではないか。

 この記事は『シン・エヴァ』について語ることが趣旨ではないのでこの作品についてこれ以上は踏み込まないが、『シン・エヴァ』を例に出して「庵野監督はリテラシーが低い層にも通じるように心情をセリフで説明するようになって来ている」とはいえない。

 そもそも、前編で佐藤氏自身が語っている「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」というのがほんとうなら、『シン・エヴァ』のアスカのシンジに対する態度はいまの観客には「通じない」はずではないか。

 『シン・エヴァ』におけるアスカの心情はそれこそセリフではほとんど説明されていない上に、愛情と嫌悪がないまぜになった非常に複雑なものである。もし佐藤氏のいうことが正しいのなら、それは「誤読」されて当然のはずなのだ。

 しかし、あの描写を見て「アスカはシンジのことが心から嫌いだから辛くあたっているんだな」といった感想を抱いた人はほとんどいないものと思われる。

 じっさい、ネットでは「アスカが何を考えているのかさっぱりわからなかった」といった感想は見かけない。つまりは、観客はアスカの「説明されない」複雑な心情を正確に把握することができているわけだ。

 ほんとうにいまはそういう描写が通じないのか、非常に疑わしいのではないか? ぼく個人の実感としては、むしろ現代のアニメは、特に京都アニメーションあたりの作品を代表格として、かつてでは考えられないくらい繊細な描写を行うようになって来ていると感じている。

 『リズと青い鳥』とか、『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』とかね。『リズと青い鳥』なんて、相当にリテラシーが高くないと理解できない非常に高度な脚本だ。

 また、昔のアニメやドラマや映画がそれほど知的だったのかというと、「ぼくの実感は逆」なのである。昔、そうだな、たとえば80年代とか90年代くらいのフィクションは一般にもっと「幼稚」だったとぼくは思っている。

 もちろん、その頃の作品も色々あったので、それを乱暴に総括して幼稚だの低俗だのいうことはできないことは当然だけれど、少なくとも大衆向けにヒットした作品には知的な意味ではろくでもないものが少なくなかった。

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