スタジオカラーから岡田斗司夫への「告発」。
ちょっとまえ、『エヴァンゲリオン』シリーズを制作・管理するスタジオカラーのスタッフがネット上の番組配信で岡田斗司夫さんを名指しで非難したことがあった。以下の記事によると、それに対して「批判の声が殺到」したそうだ。
『カラー』公式チャンネルでの唐突な岡田叩きに、ネット上では《公式が悪の総本山として岡田を吊し上げていることに違和感を覚える》《岡田も割とエヴァ絶賛してるんだし、ほっといてやれよ。否定するのも違うと思うぞ》《なんでそんなにたかが個人の解釈にムキになっているの?》《せっかくエヴァ終わったのに醜い場外乱闘すんなや》《もうなんか気持ち悪いわ最近のエヴァ界隈》《鬼滅にもウマにも負けて岡田に八つ当たりか》といった批判の声が殺到している。

……いや、ほんとうにそうなのか? Twitterを検索すると「賛」「否」でいうなら「賛」の声のほうが多く見つかるのだけれど、これらの発言の出典はどこなのだろう?
「批判の声」を引用するならせめてソースをはっきりさせるべきでは。もし、それが実在するならだが。
まあ、このような記事はどうでも良いのだが、ぼくもスタジオカラースタッフの発言には問題があると考えている。
岡田さんの「ビジネス」に問題があるとするならスタジオカラーの名前で正式に批判するべきであり、このような中途半端な陰口めいた批判はいかにも筋が良くない。もっとも、発言者の気持ちもわかることはわかるのだ。
「気持ちはわかる」が、しかし。
もし、スタジオカラーの名前で一個人を正式に、公式に批判するとなったら、それこそ「大事」になってしまう。岡田さんの「考察」が正しいのかどうか、間違えているとすればどこが間違えているのか、きわめて深刻な騒動になることだろう。
「そもそも一個人の解釈を制作企業が名指しで批判することは良いことなのか」といった副次的な議論が勃発することも必然であると思われる。
岡田氏のやり口にどれほど問題があるとしても、企業としての株式会社カラーがそのような重大な判断を行うことはほとんどありえないことに違いない。
ただ、それでもなお、今回、あえてカラーのスタッフが岡田さんを批判したのは、「さすがに我慢できない」という心境があったのではないだろうか。
今回の批判は、それほどかれらにとって岡田さんの行為が目に余るものであり、許しがたい行為だったということを意味しているように思う。そういう意味では、いかにもアンフェアなやり口ではあったが、納得のいく話ではあるのだ。
ぼくは、長年、「岡田斗司夫ウォッチャー」として、かれの著書や発言を眺めてきた。そのくらい、岡田斗司夫という人物を興味深いと考えているのである。
岡田さんはいわゆる「オタク第一世代」を代表する論客であり、みずから「オタキング」を名乗ってオタク論を語って来た。しかし、ひっきょう、この人物は何ものなのだろう。考えはじめるとよくわからなくなることもたしかである。
岡田斗司夫とはだれか?
岡田斗司夫とはつまり何ものなのか? かれはまずその名前で何冊もの本を出している著述家である。その著書のクオリティには当然ばらつきがあるが、そのなかにはまず名著といって良いものも含まれている(ダイエット本を出したあとすぐにリバウンドしてしまったのは感心しないが)。
しかし、岡田さんの最近の活動の中心はむしろネットである。かれはいまニコニコチャンネルを中心に、いろいろな作品の裏話やら「考察」を語る活動を続けており、現在の収入も多くはそこから来ているのではないかと思われる。
今回のスタジオカラーによる岡田斗司夫批判も、そのお金を取った上での「考察」がその実、かなりいいかげんなものでしかないという指摘が根幹にある。
おそらく、その指摘はあたっているだろう。岡田さんの「考察」は、たしかに一種の鋭さを帯びていて、「なるほど」と思わせるものはあるのだが、一方で論理的な飛躍も少なくなく、また具体的な根拠を欠くところがある。
さらに問題なのは、かれが過去の交友関係にもとづき、庵野秀明監督の人格についてわかったようなことを語っているところだろう。おそらく、庵野監督をリスペクトするスタジオカラーの人間にとって決定的に許せなかったのはこの点であるものと思える。
今回、岡田さんはじつに四半世紀にわたって(ということはつまり、ほぼ『エヴァ』の放送以来)、庵野さんと逢っていないことが暴露されたわけだが、ということはつまり、庵野さんにとって岡田さんは「昔の知人」以上のものではないことになる。
いま現在の自分を深く理解しているように語られることを迷惑に思ったとしてもおかしくはない。
「過去の人物」でしかないのだが――
とはいえ、スタジオカラーの人間の多くはともかく、庵野秀明さん本人が岡田さんに対してどのような感情を持っているのかはもちろんわからない(何も思っていないかもしれない)。
あるいは迷惑に感じているとしても、第三者がそれをかってに代弁することは良くないだろう。
そういうわけで、今回の「告発」は、たとえ「気持ちはわかる」し、「しかたがない一面がある」としても、いかにも後味が良くないものであった。このような形ではない方法でかれを批判することは不可能だったのだろうか?
それにしても、じっさいの作品の制作者たちから「嘘の嘘」、「間違えた攻略本」とまでいわれる内容であるにもかかわらず、岡田さんの話術とその話のもっともらしさは驚くべきものがある。
これは皮肉でいっているのではなく、じっさい、その内容にどれだけ批判するべきところがあるとしても、いまだに岡田斗司夫は現役の評論家として通用しているわけなのである。かれを語るとき、すくなくともその一点は評価に値するのではないか。
岡田斗司夫という人を、現代のオタク・エンターテインメントシーンのなかで位置づけるなら、やはり「あくまで過去の人物」と見るしかない。
そもそも現代の作品の大半を見ていないだろうし、見ていても理解できていないだろうから。ただ、それにもかかわらず、かれにはまだ熱心なファンが大勢いる。その力はどこから来ているのだろう?
その話術の巧みさ。
じっさい、かれの巧みな話術は、一応、ネットで話をすることもある人間として、大いに参考にさせてもらうだけのものがある。しかし、岡田斗司夫の「魅力」は、そのような点だけにあるものではないだろう。
かれに「凄み」とでもいうべきものがあるとすれば、それは「虚像を生み出す能力」だろうとぼくは考えている。
そう、岡田斗司夫とはつまり何ものなのか? その答えは、「虚像の人」であるというのがぼくなりの考えである。
岡田さんのすべての論法は、徹底して自己の虚像を巨大化することに用いられているように思える。
かれの初期の代表作である『オタク学入門』にしてからが周囲の人物の着想のパッチワークであるに過ぎないとは竹熊健太郎さんによる指摘であるが、べつだん、岡田さんに批評家としての傑出した能力があるわけではないだろう。
しかし、それなのに、岡田さんはいまなお人気を集めている。金銭的にも苦労していないだろう。その秘密は、かれが巧みに自分の虚像を作り上げてきたところにある。
その虚実の具体的な例はいくらでもあるだろうが、今回はかれの女性関係に関する醜聞を指摘しておく。
ただ、このきわめて高い「虚像創作能力」を持っていることは、かれが「ほんとうの自分自身」と向き合うことなくここまで来てしまったことをも意味しているかもしれない。
「普通の人」なのに。
そもそも、学生時代からあきらかにその天才を発揮してきた庵野秀明などと比べると、岡田さんはべつだん何ものでもない。あくまで普通の人である。
ただ、かれには人並外れた自己顕示欲があったように見受けられる。普通の人が天才に混ざって自己顕示欲を満たすにはどうすれば良いのか? これは岡田さんにとって深刻な問題であったのではないだろうか。
岡田さん(や、唐沢俊一さん)のことを「プチ権力者志向」と評価しているツイートがあるが、ぼくはこれはかなり正確な洞察なのではないかと考えている。
そう、ぼくにはそのときの岡田さんの発想が理解できるように思うのだ。つまり、庵野秀明や宮崎駿のような天才的創作力を持たない人間が、かれらより偉い自分という「虚像」を作り上げるためにはどうすれば良いのかという話である。
その答えは、「創作に関してはたしかに天才だが、人間的に幼稚な庵野や宮崎と比べ、自分は成熟した大人である」という幻想を作り上げることだったのではないだろうか。
いわば、岡田さんは「清濁あわせのむ大人の自分」という「仮面」をかぶり、その虚像を生きることを選んだのだ。
これも無数の例があるのだが、それはとにかく、その行為は「ほんとうは幼稚で未熟な自分」と直面することを避けるということでもあったのだとも考えられる。その意味で、岡田斗司夫という人物はオタクのひとつの類型としての「エセ大人」の代表である。
「終わらない思春期」と「エセ大人」。
エセ大人は、大人ではない。ほんとうの意味での大人としての自信も成熟も備えていない。ただ、かれらは周囲に「自分は大人である」という幻想を見せることができる。
あるいは、自分自身でも「自分は大人だ」と思い込んですらいるのかもしれない。かれらがそのような幻想を成立させることができるのは、「自分のなかの幼稚さ」に直面することを徹底して避けているからである。
もし、オタクという現象が「終わらない思春期」であるとするのなら、かれらはその「思春期」を正面から経験することを避け、その恥ずかしさや愚かしさを笑い飛ばすことで、それをあっさり卒業してのけたかのように見せかけるのだ。
岡田さんの仕事関係や女性関係のスキャンダルを見ていると、その人間的な問題があからさまに見えて来るように思えるのだが、本人はあくまでその問題と向き合うことを避ける。
「その程度のことは余裕で笑い飛ばすことができる大人の自分」という幻想を離れることができないのである。
それに対し、まさに血まみれでみずからの未熟さと向き合ったのが庵野秀明であろう。かれはべつだん岡田さんより未熟だったわけではなく、ただ正直だったのだ。
そうしてその結果、いまや一流の経営者にして日本を代表する映画監督にまでなった。ここにはより下の世代のオタクにとって、教訓とするべきモデルがあるように思われる。
オタクが大人になるということは、まず恰好の良い「エセ大人」をやめて未成熟な自分と真摯に向かい合うということなのだ。スタジオカラーの「告発」からぼくが思い浮かべたのは、おおよそそのようなことなのであった。おしまい。