「温泉むすめ」を巡る問題が続いている。
この炎上騒動にかんしては前の記事でくわしく語ったので、その点について知りたい方はこの記事を読んでほしい。
今回、取り上げたいのは「温泉むすめ」が性暴力と関係しているという主張である。
初めにこのコンテンツを取り上げた仁藤夢乃さんを初め、幾人かの人物が「温泉むすめ」とじっさいの性加害は連続していると主張している。
さて、ほんとうに「「温泉むすめ」は現実の性犯罪と地続き」なのだろうか?
このことを取り上げる前にひとつ考えておきたいのは、なぜ、こうまで不毛な議論が続くのかということである。
今回、「温泉むすめ」を非難しようとする側も擁護しようとする側も、非常にかたくなで異なる意見を聞こうとしない態度が目立つように思う。
これは現在の(過去もそうかもしれないが、現在、さらに極端になっている)インターネットの状況を表す象徴的な出来事である。
現代は「分断の時代」といわれるように、無数の異なる価値観が乱立し、しかもそれぞれが対話しあることなく激しく対立しあっている、そういう時世だ。
オタクとフェミニストといった対立の構図はそのごく一面に過ぎない。
インターネットは本質的に人をつなぐのではなく、対立させ、対決させる傾向を持つメディアであるのかもしれない。
しかし、だからといってこの「分断」をそのままに放置することはできない。
ここまで複雑化した状況が単一の価値観で支配されることはありえないにせよ、社会は和解と統合を必要としており、そのための手段が模索されるべきだ。
もちろん、対立から一切の妥協のない「絶滅戦争」へ進む道もないわけではない。
とはいえ、フェミニストの「殲滅」を唱えるオタクたちはいったいどうやって殲滅するつもりなのか。
そのためには現実世界においての暴力が必要になるはずで、そのような行為は法的に許されるべからざるものにならざるを得ないだろう。
そういうテロリズムの方法論を否定するのなら、どれほど「敵」を嫌悪していようと、否応なく同じ社会で生きていくしかないわけであって、やはり分断は解決しておく必要がある。
それでは、その分断を乗り越える「対話」はどのようにして成り立つだろうか。
重要なことは、分断された各々の価値観はそれぞれ大きくかけ離れており、通常のやり方ではわかりあうことはできないということである。
「萌え絵は犯罪を発生させる!」と考える人と、「そんな考えは妄想だ!」と考える人とでは、いくら話し合おうとしても水掛け論に終わることはすでに膨大な実例が証明している。
ある意味では、これを解決する方法はないのかもしれない。
たび重なる炎上(放火?)事件をくり返すうちにオタクもフェミニストもいっそうかたくなになっており、ほとんど対話不可能な状況にある。
また、フェミニストはことさらに対話を避ける傾向がつよく、ただただ一方的に批判し攻撃する印象がある。
その気持ちはわからないわけではないが、あまりに自閉的であるようにも思える。
まるで固く閉ざされた貝殻のようだ。この貝殻をこじ開ける方法がないのだとしたら、どうすれば良いのだろうか?
ひとつには、法廷闘争に乗り出して名誉棄損や侮辱罪を問うことがあるかもしれない。
あるいは愉快犯が混ざっているのかもしれないが、オタク、フェミニスト双方ともすでに舌禍が許容水準を超えている印象があり、いつ訴訟案件になってもおかしくないように思える。
だが、そのような事態が問題の解決に繋がるとは限らない。「不埒なフェミニストをやっつけてやった!」とか、「汚いオタクを黙らせてやった!」といった暗いカタルシスはあるかもしれないが、それはそれで分断を悪化させるばかりだ。
オタクとフェミニストに限らず、それぞれ譲れない正義を抱えて対立するグループが対話の道を探る術はないのか?
結論を書くと、ぼくは、いったんその正義を「棚上げ」し、科学的に問題を捉えることが必要だと考えている。
そもそもそれぞれの正義にはそれなりの論拠があり、そこに感情的な理由(「お気持ち」)も混ざっているので、「どちらが正しいのか」とやりつづけている限り、永遠に解決できない。
もちろん、双方とも自分たちが正しいに違いないと考えているわけだが、この「正しさ比べ」をいくら続けても水掛け論が続くばかりなのである。
ここから何らかの対話を導くためには、直接に「正しさ」を比較するのではなく、その背景にどれだけの科学的根拠(「エビデンス」)があるのかで考えるほうが良いだろう。
この世の中には「正しさ」は無数に存在する。そのいくつもの「正しさ」を調停し、和解させるために科学と数字が必要なわけである。
思うに、フェミニストに限らず、リベラルを僭称する人々の傲慢さは、「自分たちの考え方が正しいに決まっているのだから、他の考え方は間違えており、彼らは自分たちに従うべきだ」と捉えて疑わないところにある。
ぼくも思想的にはわりあいリベラルを良しとしているほうだと自覚しており、その捉え方が理解できないわけではない。
しかし、この社会には型通りのリベラリズムのほかにもいくつもの考え方があり、価値観があるのであって、「とにかく自分たちが正しい!」と叫んでも解決しない問題があるのだ。
そのことを認めない限り、話は先へ進まないだろう。
そこで、科学にもとづいてものごとを判定し判断していくことが必要になる。
さまざまな認知バイアスに捕らわれやすい人間がそれでもなお何らかの「ファクト」を見いだすために、人類が生み出した最善の方法が科学である。
まずは個々のイデオロギーを棚上げして、「ファクトベース」、「エビデンスベース」で考えていくこと。それが必要なのではないか。
もちろん、科学にもとづいて考えようとすると、そのように科学的に考えようとする人とそうでない人、という分断は残るだろう。
オタクにいわせれば、フェミニストは何も科学的根拠もなく攻撃して来るのだから問題なのだということになるかもしれない。
これは、たとえば新型コロナウィルスへのワクチン投与に関することでもいえることである。
ぼくはこの科学と非科学の分断こそが、この社会における最も本質的な分断であると考える。
そう、重要なのは科学にもとづいて考える人とそれぞれのイデオロギーにもとづいて「正しさ」を盲信する人という構図で、オタク対フェミといった対立軸は見せかけのものに過ぎないのである。
それが何らかのエビデンスのあるファクトであるなら、たとえ自分の掲げる「正しさ」にとって不都合なことであっても直視する勇気を持つ。
そのようなことができる人間とできない人間のあいだにこそ対立はある。
そして、今回の件を見ていると、オタクにしろ、フェミニストにしろ、あまりにもイデオロギーにとらわれ過ぎているのではないか、という懸念を感じざるを得ない。
ぼくは、今回の件について、フェミニスト側による「性的搾取」といった攻撃は論外であるにせよ、「温泉むすめ」側にも問題はあったと考えている。
個人的な創作物ならともかく、広く温泉地を宣伝するためのキャラクターに「スカートめくりが好き」といった設定、属性はやはり不用意なものであり、その「隙」とつかれてしまった側面はあるだろう。
もちろん、創作における描写とじっさいの性犯罪、性加害は文字通り次元が違う問題であって、簡単に同一視するわけにはいかない。
そしてまた、それらが「地続き」だと考えることもいかにもばかげている。
なぜばかげているといえるのか。それこそ科学的根拠がないからである。
最近、表現の自由について素晴らしい記事を多く書いている神崎ゆきさんがこのようなツイートを発信している。
表現とその影響についてはすでにいくつもの論文が発表されているのだが、そのプロセスにおいていわゆる「強力効果論」は否定されて来ている。
もちろん、メディアがそれを鑑賞する個人に一切の影響を与えないわけではないだろうが、少なくともその表現が人をダイレクトに性的にしたり暴力的にしたりするといった根拠は存在しないわけだ。
したがって、フェミニストによる「フィクションの性的描写は性犯罪と地続き」という主張は「何となくそういう気がする」というレベルのものでしかありえない。
何となくそう思えるということはわからないでもない。じっさい、強力効果論も学問的に否定されるまでは有力な説だったわけなのだから。
だが、ここはイデオロギーベースではなくエビデンスベースで思考するべきところなのである。
くり返すが、『温泉むすめ』に瑕疵がないわけではない。
その点を非難するところまでは批判側の主張にも一定の正当性があるとぼくも思う。
問題はそこから先、イデオロギーと「お気持ち」を重視するあまり、非科学的な主張に埋没してしまうところなのである。これではまったくどうしようもない。
いったいインターネット上の対立は、いつかイデオロギーにもとづく「正しさ」を互いに叫び合うところから、科学的なファクトを重視するところまでレベルアップすることができるだろうか。
これは、ひとつフェミニストだけにいえることではない。
科学的な考えを進めていくなら、いつかオタク側にとっても不都合なデータが出て来るかもしれない。そのとき、それを受け入れることができるかが大切なのである。
あらためてくり返す。イデオロギーの、「正しさ」の対立は見せかけのものに過ぎない。ほんとうに重要なのは、科学対非科学の対立なのだ。
非科学の沼に腰まで浸かっているように見えるフェミニストを笑うことはできない。
自分にとって不都合なときも、「エビデンス」をもとに考えることができなければ、オタクや「表現の自由戦士」もまた、必ず同じ沼に溺れていくことだろう。
その沼は、深い。

この社会において最も深刻な対立は、個々の「正しさ」のあいだではなく、科学と非科学のあいだにあります。それでは、非科学的な主張とどう対峙すれば良いか。それが次の課題になるでしょう。