双龍(という名前の作家)の『こういうのがいい』の第二巻が上梓されたので、レビューを書いておきます。
このマンガをひと言で表すとどういう感じになるかというと、偶然に知り合ってなんとなく気があったひと組の男女がひたすらにセックスしまくるお話です。
いや、投げやりな解説に思えるかもしれないけれど、ほんとうにそれだけの筋なんですよ。
第一巻と第二巻とを通して、ただ延々と、軽口を叩きながらエッチしかしていない。
それもそのふたり、べつだん、恋人どうしというわけですらないんです。少なくとも本人たちは彼氏彼女とは認識しておらず、なんとなくたまに逢ってからだを重ねる関係だと考えているようなのですね。
それ、いわゆる「セックスフレンド」のことじゃないのかと思われるかもしれませんが、いや、特にセックスだけの関係というわけでもなく、ふつうに友達同士みたいなこともしてはいる。
まさに、ある種の人たちにとっては「こういうのがいい」と認識されるであろう、その、現実にはありそうでなさそうなひとつの「理想の関係」を描写したマンガです。
これね、ぼく、読んでいて悩んでしまうのですが、こういう「互いを束縛しあわない」関係ってほんとうに成立するものなのだろうかと。
まあ、おそらくそういう関係を良しとする人も現実にはいるとは思うのですが、でも、ここまでセックスしていて、そのこと以外はふつうの友達として振る舞えるものなのかというと、やっぱりひとつのファンタジーでしかないのかなとも思うのですよね。
もちろん、ファンタジーだからといってマンガの価値が下がるわけではないので、そうであってはいけないとはまったく思わないのですが。
互いに互いを一切束縛しあわず、ただ己の欲望を満たすために利用しあっている主人公たちふたりは、互いにとって「都合のいい存在」です。
そのなんとも気楽な関係性は、たしかに一種の魅力がある。
ただ逢ってセックスするだけの関係にあこがれを抱く人もいるでしょうから、そういう人にとっては夢のような状況といえることでしょう。
でも、じっさいのところ、人間はこんなにもあいてを束縛することなくいられるものだろうか? どうなんだろう? そこのところが、よくわからない。
もちろん、突き詰めれば答えは「人による」としかいえないだろうと思うのですが、このふたりの「フリーフレンド」な関係性は魅力的であると同時に、いわゆる「ふつうの」恋愛関係を問い直すところがあります。
なぜ、人間は恋愛においてあいてを束縛してしまうのだろう?
それがあたりまえのことだとみなされているのだろう?
ほんとうに、だれかを好きになったらそのあいてを縛らずにはいられないものなのだろうか?
もしそうだとしたら、それはどうしてだろう?
このマンガを読んでいると、そんな問いが次々と思い浮かんでくるのですね。
たしかに、いまの社会では、そのようなどこかで束縛を孕んだ関係が通常の恋人どうしとして見られているし、そうではないのにからだを重ねる関係は「セックスフレンド」として処理されているのですが、ほんとうにそういうものなのだろうか。
うーん、ぼくにはよくわからない。
ここからマンガのレビューをちょっと外れますが、ぼくにはどうもあたりまえの恋愛感情というものがよく理解できないのですね。
愛とは何かというと、あいてのしあわせを祈る気持ちのことでしょう。それなのに、あいての自由な行動を縛り、自分だけを見てほしい、自分以外の人間に目移りしたりしないでほしいと願うことは、矛盾してはいないでしょうか。
いや、まあ、その「あいてのしあわせを祈ること」と「自分のしあわせを実現すること」のあわいに存在しているのが一般的な恋愛というものなのだろうけれど、どうもここらへん、ぼくにはピンと来ません。
べつにこの作中で描かれているようなセックス中心の関係を「こういうのがいい」とは思わないけれども、「恋愛するなら、互いに束縛し合うことがあたりまえ」という「常識」にも違和感があるのですよね。
どうも恋愛というものはむずかしい。まあ、わかる人にはすぐにわかるものなのかもしれませんが。
ちなみにこのマンガ、第二巻の最後のほうでは、自由な性的関係を楽しんでいたふたりのまえに、それぞれ、恋愛相手候補ともいえる異性があらわれることになっていて、いったいこの先どういう展開をたどるのか、ちょっと気になります。
からだの関係を重視するふたりではありますが、特に浮気症というわけでもなく、恋愛関係という約束を結んだなら、ほかのあいてをセックスしたりすることはありません。
さて、それでは、はたしてふたりは、いわゆる「ふつうの」恋愛関係と自由で気楽な関係のどちらを取るのか。そして、その理由はどういうものなのか。意外にちょっと気になります。第三巻が楽しみ。
この文章を読まれているあなたもぜひ、いっしょに新刊を待ちましょう。面白いですよ。