
(ライター)
本日(2021年10月8日)は『ファイブスター物語』第16巻の発売日です。はたしてこの長大な物語もまた、いまとなっては「昔は面白かった過去の作品」となってしまったのでしょうか? 一考しました。
『ファイブスター物語』第16巻発売!
本日、永野護『ファイブスター物語』の最新刊である第16巻が発売されました。
前巻から2年足らずでの新刊ということで、愛読者は湧いています。
いや、2年近くもかかっているのかよ、と知らない人は思われるかもしれませんが、この作品のばあい、この間隔は短いほうなのですよ。
何しろ最長で9年間も放置されたことがあるくらいで、ここ最近の作者のマジメぶりは驚異的といって良いのではないかと。
ほんとうに何年もまったく休載せずにひたすら連載を進めているわけで、いったい作者に何が起こった?と長年のファンであればあるほど恐ろしく思っているはずなのです。
そもそもこの作品は――とか、ただのSFマンガではなくて――みたいなことをいい出したら切りがないのでやめておきますが、まあ、いま、『ファイブスター物語』はかつてないくらい盛り上がっているといえるのではないかと思います。
もっとも、ぼくは連載ですべて読んでしまっているので今回はふたたびぱらぱらとめくってみるだけで終わらせましたが。
この第16巻はいままでの巻にも増して新情報が膨大で、長年追いかけてきた読者ですら「さっぱりわからん」とかいい出しているくらい。
ええ、連載で追っていたときは「ええーっ」と思う衝撃の出来事が何度もありましたよ。「Fネームのファティマ」とかね。「大君主バフォメート」とかね。
おまえら何を平気で物語に顔を出しているんだ。いや、ホント……。
「面白いことは面白いのですが」。
とはいえ、これだけの長期連載になると、内容的に賛否もあるわけで、Amazonにはすでに批判的な意見も掲載されています。
面白いことは面白いのですが・・・
正直、1番ファン人気が広く浅くだったコーラス編が懐かしい。
2巻3巻ですっきり惜しまれつつ終わらせたからこそ
コーラスやジュノーンやブーレイがあんなに
人気あったんだな。
こういう意見は長く続いた作品ともなると、それが傑作であれ凡作であれ、かならず出て来ます。「昔は良かった」というやつですね。
ぼくはこの手の意見は全部まとめて無価値だと考えるほうです。昔がどれほど良かったとしても、昔に戻れはしないし、戻る意味もないから。
そりゃ、「昔」は良かったに違いないんですよ。『ベルセルク』の黄金時代編は面白かった。『ONE PIECE』の中盤は素晴らしかった。それはそう。
でも、だから何?ということであって、過去をなつかしみ、その比較でしか現在を見ない人には「いま」を真に味わうことはできないのだと思う。
人間の感性はしだいに衰えていくものですからね。どうしても、自分が若かった青春時代の作品を神聖視し、その方法論が唯一のものであるように考える。
それが「老い」であるわけですが、その怖ろしさは自分では自覚できないところにあります。
気づいたら人はノスタルジアの魔性に捕まっているのです。
たったひとつの冴えたやりかた。
ファンのなかでも、『ファイブスター物語』を若い読者に勧められるかどうかは議論があるようです。
FSSを自分より若い知人にオススメできるか
私にはできませんでした。
(中略)
で、聴いていた人から訊かれるわけです。
「FSSって私が今から読んでも楽しめますか?」
私も、A2さんも、A3さんも、FSS古参ファンの反応は
「・・・」
というものでした。
わかるわかる。ぼくも「……」ってなるかも。
何しろ35年以上もの長期連載の上、単行本は1冊が1500円近くするという高額商品。
しかも、ストーリーを追うためには超絶ややこしい設定や名称の数々を憶えなければならない。
ちょっと見には「一見さんお断り」にも見えかねないくらいハードルが高い作品には違いない。
でも、これにはクリアーなアンサーがあります。その人が「『ファイブスター物語』に向いているかどうか」、あっさりと判別する方法があるのです。
簡単です。
今月の『ニュータイプ』の表紙を見て、「なんだこりゃ! よくわからないけれどかっこいい!」と思ったら読んでください。「ナニコレ! 変な形でちっとも惹かれない!」と思ったら読まなくてもいいです。
ほんとうにシンプル。
『ファイブスター物語』はたしかに世界一といわれるようなややこしくも膨大な設定が絡む作品ではありますが、そのバリューはひと目で判断できます。
たとえば、「ツァラトウストラ・アプターブリンガー・パンツァークンプフロボーター(ZAP。長い!)」のデザインを見て、「うわ、めっちゃかっこいい!」と思うかどうか、それがすべてです。
ただ「かっこいいか、どうか」。
たしかにこの作品、ひと筋縄ではいかないところが多々あるシロモノではありますが、基本的には結局、「ただの面白いロボットマンガ」なのですよ。
「かっこいいかどうか」、ようはそれだけなのであって、そう思わないなら読まなくてもいい。ぼくはそう断言できます。
ただ、その基準はあくまで「最新のデザイン」にしてください。『ファイブスター物語』はあくまで「いま」を生きている物語なのであって、「過去」は「過去」でしかないからです。
これが「すでに完結した名作」とのいちばんの落差ですね。また、「ファン界隈」の「駄サイクル化」を指摘する声もあるようです。
作者がまあロックンローラーらしく少しの虚勢も含めて「俺様すげえ!かっけえ!」の自画自賛を隠しもしない性格で、また読者が作者のモチベ下げてまた休載されたら困るからって
「さすが永野!そこに痺れる憧れる!」
って絶賛するもんだから、傍目から見たらちょっと宗教じみてて気持ち悪いと思うんですよね。富野由悠季が角川を「永野をチヤホヤしすぎるな!」と怒るのも、そういうところなんじゃないかと思います。
自分も「信者」名乗っちゃうし、「簡単に理解されたくない」とか言い出すし、なにかこう「FSS読者であること」「古参ファンであること」にアイデンティティを過剰に持ってしまっているというか。
サンクコストとしてこの作品に投じた金銭も時間も労力も膨大なので、この作品が面白くないと困るし、もう今さら引っ込みつかないんですわ?
そうでしょうか?
「駄サイクル」に取り込まれているか?
もちろん、『ファイブスター物語』ファン界隈が熱烈な「信者」の集まりであることは事実でしょう。
でも、作者が「そういったファンの絶賛に酔って自画自賛をくり返し、自信過剰になっている」かというと――ぼくには、「無関係」であるように思えるのですよ。
永野護というひとは、たしかに一見すると「自信過剰でナルシスティックな天才肌のクリエイター」に見えるかもしれませんが、ぼくはじっさいにはものすごくクレバーに自分の能力とその限界を判断していると感じています。
だからこそ、それまで「モーターヘッド」が中心だった作中のロボットのデザインをある日突然、「ゴティックメード」に変えたりするのです。
これを単なる気まぐれと見るべきではありません。
作者は「これらのデザインはもう古い」、「いまとなっては凡庸である」と判断したからこそ、この一大改革に乗り出したのです。
この「いままでのデザインはもう古い」という判断はじっさい、なかなかできるものではありません。
自分の才能と実力に自信を持っていればいるほど、「それすらやがては古くなっていく」という現実を認めることはできないものです。
しかし、永野護はあるとき、いままでの一切を切り捨てた。
それこそ、巨大な「サンクコスト」を払って作り出してきたデザインであったにもかかわらず……。
これはきわめて「謙虚」に自分自身を見ているからこそのアクションだったとぼくは考えます。
「過去」は「過去」でしかなく。
まあ、この意見自体も「信者のタワゴト」と受け止められるかもしれません。
とはいえ、この「モーターヘッドからゴティックメードへの移行」という革命的設定変更は、多くのファンの間にすら賛否両論を生み出しました。
その理由はいろいろあるでしょうが、結局のところ、ファンのほうが過激な路線変更についていけなかったということだと考えています。
結局、ファンには「昔」に基準を持ち、「昔のデザインのほうが良かった」と述べることをためらわない感覚のもち主が少なくないのです。
これはある意味で正しいのかもしれません。ひとの価値観はそれぞれですから、「昔のほうが良かった」と思う人物が多くてもおかしくないでしょう。
ですが、それでも、なお、過去を否定し! 未来を目ざすところにしか「希望(フォーチュン)」はない。ぼくはそう思います。
ただ「昔は良かった。いまのようではなかった」という望郷にも似た回想に耽るだけなら、それは「ノスタルジアの住人」であり、「時代に置いていかれてしまった老人」です。
ぼくは『ファイブスター物語』がここまでの業績を叩き出しながら、それでもそのすべてを捨て去り、新境地を目ざしていることを心からリスペクトします。
それは『シン・エヴァ』でも同じ。すべての「昔は良かった」に唾を吐くこと。「いま」という現実に向き合うこと。そこからしか何もかも始まりはしません。
「いま」を生きよ!
いささか過激な主張かもしれませんが、僕は本心からそう思います。
「過去」はどれだけ素晴らしいとしても、あくまで「過ぎ去った出来事」であるに過ぎない。
その「昔日の栄光」にすがって、「昔は楽しかったなあ」などといっているようでは、しょせん「過去の人」というわけです。
そういうぼくじしん、もういい歳ですから、時として「現在の状況」に付いていけないことを感じることもあります。
しかし、まさにそうであるからこそ、「いま」を生きている人たちを「先生」として、「いまの文化」を学びつづけていきたいと思うのです。
「いまの文化」は「昔」に比べて下品だったり、粗野だったり、クオリティが低いように思えるかもしれません。
それは簡単な話で、記憶に残る昔の作品が一部の特別なものだけだからです。「名作」以外は記憶から消されてしまうのですね。
また、リアルタイムで出て来る作品が完成度において「名作」に劣ることもほんとうではあるでしょう。
ですが、その粗削りさはつまりはその文化が「いまを生きている」というその証拠でもあるのです。
「美しいが死せる過去」を望むか、「粗削りだが生きた現在」を希望するか、それはひとそれぞれではありますが、ぼくは「現在」にこそ興味があります。
それがぼくの目の前にある「現実」だから。
『ファイブスター物語』もまた、「生きて」ある作品である限り過去のものとはならないでしょう。
作家も作品も読者とともに歳を取る。しかし、新境地を目指し拓きつづけるかぎり、その心は「いま」を生きるのです。
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