まだ二巻しか出ていないが、『姫騎士は蛮族の嫁』というマンガが面白い。
タイトルですべてが表されてしまっているが、つまりはそういうお話である。
ある国の遠征軍を率いるひとりの美しい女騎士が、蛮族と蔑む敵たちに捕らわれ、すわ陵辱されるかと思いきや、若き族長の妻に選ばれるという筋立て。
広い意味では、最近よく見かける「結婚もの」に入ってくるであろう作品で、異なる二つの文化のギャップをギャグに仕立て上げているところがとても面白い。
まあ、エロゲなどでよく見かける展開を換骨奪胎しているわけだけれど、ひとりひとりのキャラクターが総じて魅力的で、読ませる。
絵柄は荒いものの、これから人気が出るのではないだろうか。今年、オススメの一作である。
タイトルだけ見るといかにもパロディ的な作品のように思えるかもしれないが、じっさいにはかなり骨太で王道の物語だ。
これから先、物語が進むにつれて、さらに骨太になっていくかもしれない。既にそんな雰囲気をただよわせている。
これは掘り出し物だという気がするので、ぜひ、皆さん、読んでみてください。
で、総じてキャラクターは魅力的に描けていると書いたが、そのなかでも、ぼくが好きなのは、何といっても主人公のセラフィーナである。
物語の途中まではただの「チョロイン」というか、「蛮族」との文化の違いにとまどうところが可愛いふつうの女の子に過ぎないのだが、じつはまれに見る剣技の使い手にして、格式張った騎士道精神を心から奉じる、高潔な人格のもち主。
彼女が弱者である女子供(彼女自身が女性であるわけですが)を守って、徒手空拳で竜に立ち向かい、絶体絶命の危機にまで追い詰められ、「これで騎士として死ねる」と思い定めるところは、何だか無性に感動的だった。
いわゆる「ノブレス・オブリージュ」の精神であるわけだが、人の心の高貴なところ、本当に美しいところを見せられると、つよく惹きつけられる。
また、彼女を妻にと求める「蛮族」のかしら、ヴェーオルもよく描けている。
まさに豪放磊落を描いたような人物で、何かとセラフィーナをからかいこそするが、傑出した戦士である彼女を心からリスペクトしているようでもある。
この奇妙なカップルが、しだいに心通じあわせていくところにこの作品の魅力はあるのだろう。
じっさい、かれらを見ていると、その発言の数々、あるいは一挙手一投足にすら、精神が高潔であるということ、魂がノウブルであるとはどういうことなのか、深く理解させられる。
こういうキャラクターたちは好きだし、ぼくがフィクションに求めるものの本質があるように思える。
もちろん、人間の弱さ、愚かさ、醜さを切実に描き切った、たとえばTONOの傑作マンガ『アデライトの花』のような作品も好きなのだが、その一方で、この残酷な世界の摂理に屈しない人間の「人間らしい」姿を見せられるとやはり感動するのある。
というか、「醜悪な現実」と「気高い理想」は物語を支える二つの屋台骨なのであって、そのいずれかにあまりにも傾き過ぎると、いまひとつ深みが出てこないように思える。
理想を見失った現実主義は単なる堕落だし、現実を踏まえない理想の追求は最後には暴力に帰結することだろう。
その二つはいずれもがこの世界の真実のあり方なのであって、どちらか片方だけが「本当」ではないのだ。
そのように考えていくと、ぼくが物語に求めるものは、ひっきょう、泥沼のような現実のなかでキラリとかがやく理想、あるいは理想の輝きをひき立てる凄惨な現実の描写、そのようなものなのだろう。
人はみな、理想を求めはするが、そこにたどり着くことは決して容易ではない。現実はどこまでも厳しく、また、容赦ない。
だが、その「容赦なさ」のリアリズムだけを正確に描き抜いたところで、読む者の心を震わせることはできないのではないだろうか。
つまりは、人がどれほどこの世界が無残に厳しいとしても、「それでも、なお」、理想の火を掲げるものなのであって、それこそが人間の最も人間らしい姿なのではないかとも思うわけなのである。
ぼくはそういう物語が好きだ。『姫騎士は蛮族の嫁』という作品は、一見するとコミカルなラブコメのようにすら見えるが、一方で、とても読み応えのある王道のマンガでもある。
ここでは、世界はやはりきわめて残酷で、互いへの無理解に基づく戦乱は絶えないが、それでも人々は高貴さとか高潔さなどと呼ばれる「高い精神」を捨ててはいない。
おそらく、そのような精神を一切、無用のものとして捨ててしまえば、人は楽に生きられるのだ。
だが、それは堕落の始まりであり、そして、一旦、堕ち始めれば、その先はどこまでも堕ちていくことができるのである。
物語のなかのセラフィーナを見ていると、心を高く保とう、保ちたいと思う。
たったそれだけのことでも、マンガを読む意味があるのではないか、と思うのだ。どうだろうか。