コラム

「非モテ」の苦しみはどこから来るのか。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

海燕をフォローする
コラム

「非モテ」とは自意識の問題だ。

 『「非モテ」からはじめる男性学』という本を読んだので、「非モテ」について何か記事を書こうと思ったのだが、どうにもうまくまとまらない。

 「非モテ」を巡る問題は複雑に錯綜しており、その意見は百花繚乱というか百鬼夜行というか、とにかく多彩を究めている。いったいどこからこの問題を切り取ったら良いのか、迷ってしまう。

 とりあえず、ぼくは日本で「非モテ」について書かれた本はほぼすべて読んでいる。

 ネットの記事は当然、膨大な量があって、とても追い切れないわけだが、目立つものは読むようにしている。

 それくらいこの問題に関心があるのだ。

 それでは、そもそも「非モテ」の問題とは何なのか?

 それは一般に「モテないこと」、「恋人ができないこと」だとされているが、この問題を追及していくと、どうもそうではないのではないかという気がしてくる。

 先述した『「非モテ」からはじめる男性学』でも、帯には大きく「ぼくらは本当にモテないから苦しいのか?」と記されている。

 「非モテ」においては、恋人ができないとか女性にもてはやされないといった「モテ」の問題が前景化してくることはたしかだが、どうもほんとうのところはそれだけが問題ではないらしいのだ。

 むしろ、「非モテ」とは、複雑骨折のようにこじらせ切った自意識のうずきのようなもので、モテるかモテないかといったこととは無関係な「実存的問題」というほうがふさわしい。

「モテ」は「当然の権利」なのか。

 実存的問題。

 あまりに大袈裟な表現だと思われるだろうか。しかし、じっさいのところ、「非モテ」が幾重にもねじ曲がった自意識の問題であることは間違いない。

 いわゆる「モテ」の課題が前景に出ていることはたしかだが、じっさいには仮に恋人ができたとしてもそれですぐに解決するような性質のものではない。

 とはいえ、多くの「非モテ」当事者は恋愛に切ない夢を託す。あたかも、理想的な恋人ができたなら、それで人生の多くの問題が解決に導かれるかのように。

 もちろん現実にはそのようなことはありえず、むしろ恋人ができることは新たな課題を背負い込むことですらあるかもしれないのだが、「非モテ」の人々はなかなかそういうふうに考えることはできないようだ。

 「非モテ」の苦悩は切実である。自分には基本的人権がないのだ、と独白する者も少なくない。

 とはいえ、人生には、望んでも叶わないことが多々ある。それはべつだん人権の侵害ではない。

 たとえば、あるアスリートがオリンピックで金メダルを取ることができなかったことを嘆いたとしても、だれもそれを人権の問題だとは考えないだろう。

 ところが、非モテのばあい、しばしばそれは「あたりまえの権利」の侵害として捉えられるようだ。

 それはおそらく、「恋愛して結婚すること」が「だれでも叶えることができる、当然の権利」として受け取られているからだろう。しばらくまえの社会では、じっさいそういう傾向もあったようである。

「非モテ」問題の現実的/妥協的な解決策。

 しかし、それがほんとうに「自然な権利」なのかというと、答えはもちろん「否」だ。

 恋愛や結婚が自由な選択の結果に任せられるリベラルな社会においては、当然、恋愛したくてもできない人も出て来る。

 だれにでも「挑戦」する権利は与えられているわけだが、「成功」するとは限らないわけだ。それでいて、その結果に関する責任は個人に課せられることになる。

 「だれでも恋愛することはできる」という幻想と「じっさいに成功する人は限られる」という現実の乖離が発生しているわけである。非モテの苦悩はひとまずここに発生するといって良いだろう。

 で、もし「非モテ」があくまで「恋愛の成就」を巡る問題であるとするなら、解決方法としてはふたつが考えられる。

・そのための方法を工夫しながら、あくまで恋愛の成就をめざす。
・恋愛はあきらめ、ほかに楽しみを探す。

 問題があくまで「恋愛」を巡るものだとしたら、これ以外に解決策はないといっても良いと思う。

 ところが、「非モテ」当事者は往々にしてこのいずれに対しても拒否感を示す。

 前者に対しては、「いくら身だしなみやコミュニケーションを工夫しても、自分などがモテるはずがない」といい出すし、後者に対しては「なぜ自分だけがあきらめなければならないのか」と不満を爆発させる。

 「非モテ」とは、良くも悪くも自意識をこじらせた人種だから、どうにも扱いづらいところがある。

「非モテ」の袋小路。

 そういう意味では、「非モテ」の問題とは、しょせん解決不可能なのだということができる。

 否、そもそも当事者が「解決」を望んでいるのかどうかすら怪しいものがあるだろう。

 結局のところ、「非モテ」当事者は半端に問題が解決することより、「社会において当然の権利をはく奪された自分」に対する自己憐憫に耽っていたいのではないか、とすら思えることがある。

 それはあまりにも悪意に満ちた意地悪な見方だとしても、「非モテ」たちが上記のようなある種、現実的な解決策に満足し切れないことは事実だろう。

 かれらにしてみれば、「非モテ」であることはきわめて悲劇的な境遇なのであり、それを妥協的な方法で解決させることはまったく望ましくないのである。

 それでは、どうするか。ここで最も過激な一派は、暴力的な解決を試みることだろう。自分を受け入れない(ように見える)社会への身勝手な復讐。

 アメリカで「インセル」と呼ばれている人たちが選ぶ方法はこれに近い。女性と「リア充」へと向かう、ルサンチマンの爆発である。

 しかし、そのような形での爆発はだれも幸せにしないだろう。いたって当然ながら、社会的な「非モテ」への視線もきびしいものになっていくはずだ。

 現実的、妥協的な解決策は受け入れづらく、そうかといってテロリズムによる解決は最悪のものでしかない。「非モテ」を巡る問題は、ここでどうしようもない袋小路に入ってしまっているように見える。

 いったいどうすれば良いのだろう。

「男性どうしの関係性」の闇。

 その鍵を握るのが「男性学」であるかもしれない。

 『「非モテ」からはじめる男性学』は、「非モテ」の問題を男性どうしの人間関係から読み解こうとする。

 ぼくたち男性は、男性どうしの関係の性質を自明のものとしがちだが、じっさいにはそれはある特殊性を孕んでいるのである。

 それは女性どうしの関係が男性どうしのものとはまったく違っていることを見ればあきらかだろう。

 そこで注目されるのが、男性どうしのあいだで起こる「からかい」や「いじめ」の問題である。

 男性たちのコミュニティにおいては、恋愛関係を成立させることができない、つまり「モテない」人物は絶え間ない「からかい」の対象となるという。

 それは一種のハラスメントであるわけだが、ほとんどの男性はその「モテハラ」に対し抗議することができない。

 その結果、屈辱が沈殿し、挫折感と劣等感ばかりが積み重なっていく。ひっきょう、男性的な苦しみの大方は「男性どうしの関係性」から来ているものなのかもしれない。

 男性社会には「地位」や「恋愛」において劣位に置かれた人間を差別し、劣等感を負わせるシステムがある。

 そのシステムからどうやって逃れるか、そこで生まれるねじ曲がった自意識をどう繊細に解体していくか。ほんとうの問題はそのあたりにあるのではないだろうか。

 つまりは、「非モテ」の問題とは当然ながら「モテないこと」に原因があるという、その「あたりまえの前提」を疑うことが大切である。

「非モテ」とは周縁化された男性たちである。

 「非モテ」周辺の話題をあつかった杉田俊介『非モテの品格』にしても、森岡正博『草食系男子の恋愛学』にしても、「決して、いわゆる「肉食系」の男ばかりがモテるわけではないのだ」と語っているのだが、そこにはどこか欺瞞的な雰囲気がただよう。

 その見方はかならずしも間違っているとは思わないが、「非モテ」男性自身がそういった価値観を信じられずにいることこそが問題なのである。

 ようするに、「非モテ」男性はかならずしも「草食系」のイキモノであるわけではなく、むしろ「肉食系」の価値観をつよく内面化していて、それで自分自身をおとしめているわけだ。

 それはしばしば女性憎悪(ミソジニー)へと向かい、最悪のばあい、ストーカー行為にすらつながるだろう。

 まずは、その価値観を繊細に、緻密に解体していくことが必要なようである。

 ただ、より根深い問題として、当事者がその解体を望むかどうかということがある。

 結局のところ、すべてが女性や「リア充」のせいであり、自分は(「キモメン」に生まれたこと以外は)何も責任がない、と考えることは「非モテ」当事者にとって都合がいい考えかたなのだ。

 その認識は絶望的に辛いかもしれないが、しかし一面で心地良い。「非モテ」問題の解決は、当事者がその心地良さを捨て、複雑に絡み合った自意識の糸を解きほぐそうと試みることができるかどうかにかかっていると思う。

 前途は険しそうだが、希望もまたそこにある。ぼくはそのように考えるものである。

タイトルとURLをコピーしました