暴力的なツイートの数々。
先日、このようなツイートを呟いた。
これはほんとうのことだと思う。このところ、いわゆる「表現の自由戦士」の言動の醜悪さが増している。
もちろん、これはぼく個人の観測による印象論に過ぎないが、それにしてもあきらかに対立者を誹謗中傷する非礼な表現の自由戦士は増加しているように見える。
ここではっきりと書いておく。ぼくはこのような誹謗中傷にはっきりと反対するものである。
もちろん、それはあくまで「批判」なのであって、少々ダーティーであるとしても、中傷などといわれる筋合いはない、といい通すことはできるだろう。
だが、あからさまにあいてを口汚くののしっておいて、これは「批判」なのだから問題ないといった理屈は通らない。
だれよりも、表現の自由戦士たち自身、そのようなロジックを批判してきたのではないか。
こう書くと、「おまえはフェミニストに味方するのか!」と非難されるかもしれない。だから、この記事を書くのにもいくらか勇気がいる。
しかし、そういった党派性によってこそ集団が頽廃していくことを考えれば、いまの時点で表現の自由戦士の「堕落」を指摘し、批判しておくことは重要だと考える。
おそらく、もうこの展開は止めようがないことかもしれない。
それでも、ぼく自身がどうにか正気を保っているために、ここで明言しておく必要を感じる。
表現の自由を掲げようが何だろうが、ひとに対する無礼な態度や誹謗中傷は許されるものではない、と。
表現規制への暗い情熱に抗して。
もちろん、背景になっている事情はわかる。
一部のフェミニストによるたび重なる表現への攻撃によって、オタクは、表現の自由戦士は、フラストレーションを溜めているのだろう。
また、幾人かのインフルエンサーなどが整理することによって、自分たちの側にこそ「正義」があるのだという確信を強めてもいるように思われる。
そのことそのものは、それほど大きく間違えているわけではないはずだ。
ぼくとしても、表現の自由を守る戦いは必要だと思うし、また、表現の自由を主張することは正当だと考えている。
フェミニストや表現規制派の「とにかく「悪い表現」をこの世からなくそう!」という暗い情熱にはほとほとあきれ返るばかりだ。
すでにいくつもの科学的研究が表現の影響力による「強力効果論」を否定しているにもかかわらず、「悪い表現」を駆逐しなければならないという確信には揺るぎがないようなのである。

いったいこのモチベーションはどこから来るのか? 怒りを禁じえない。それはたしかだ。
そう、それはそうなのだが、重要なのは「だからといって誹謗中傷が許されるわけではない」ということなのである。
これはあたりまえのことなのだが、どうも多くの表現の自由戦士たちは忘れ去っているようだ。
「フェミ」はこの世の絶対悪ではない。ただの生身の人間である。
その意見を批判することはできても、人格を否定することはできないのだ。
「フェミ」はひどいが、それでも。
くり返すが、ぼくとてフェミニストによるオタクへの攻撃には怒っている。ひどいと思う。
そしてまた、フェミニストたちがきわめて口汚い表現を多用してきたことも客観的な事実である。
あいてが先にやってきたのだから、自分たちもやっても良いだろう。そのように考えることも自然かもしれない。
しかし、だからといってフェミニストに対する誹謗中傷が正当化されるわけではまったくない。
そもそも、あいてがフェミニストであるのかどうかすら確認せず「このフェミめ!」と怒りをたぎらせている人が少なくない。
ごくあたりまえのことだが、表現規制派のすべてがフェミニストであるわけではない。
また、特に積極的な表現規制派でなくても、いわゆる「萌え絵」が好きではなく規制されてほしいと願っている人もいるだろうし、表現規制には反対だが、「この場合はさすがに……」というふうに考えることがある人もいるだろう。
それを「フェミ」という名のひとつの統一されたグループであるかのようにみなすことはきわめて危うい。
最初のツイートにも書いたが、表現の自由戦士による対立者へのリプライを見ていると気づかされるのは、「おまえら」、「あなたたち」といった表現が多用されることだ。
その「おまえら」という集団はほんとうに実在するのか、実在するとしてもあいてはそれに該当しているのかといった検証はほとんどなさされないままに、ただひたすらに「おまえら」への怒りと憎しみが高まっていく。
これはきわめて危険な事態である。
「ポイント・オブ・ノーリターン」。
この記事を書いている時点で、直近の「萌え絵」絡みの炎上事件は「温泉むすめ」の件である。
それまでほとんど批判されることがなかった「温泉むすめ」というコンテンツが、あるひとりのフェミニストの告発によって炎上させられたのだ。
じっさいには、表現に対する反発はそこまで大きくはなく、「炎上」とはいいがたい規模であり、むしろそのフェミニストに対する批判こそが巨大であったようにも思える。
だが、とにかく、この一件を観察していたぼくは、多くのオタクたちがある種の「ポイント・オブ・ノーリターン」を越えてしまったのではないかという危機感を抱いた。
それくらい、かれらの憎む「フェミ」に誹謗中傷を投げかける人が多かったのだ。
それも、じっさいにその人が「フェミ」であるのかどうかまったく確認することなく、一方的にあいてを「フェミ」であると決めつけ、「これだからおまえらは」と一様化した「悪」を叩く言説がきわめて多かったように思う。
あえて具体的なツイートを引用することはしないが、この文章を読まれている方もひとつふたつ思いあたるところがあるのではないか。
その種の言説は、自分たちは「正義」であり、あいては「悪」である、あるいは自分たちは「正しく」、あいては「愚か」であると微塵も疑うことがないもので、ぼくは非常に危うさを感じるのである。
その種の「正義」、あるいは独善がひとをどこへ連れていくのか、ぼくたちはすでに無数の先例を知っているはずではないか。
自分自身がこころ正しくあるために。
ぼくは表現の自由を認める。それを大切に思う。
だが、同時に、表現によって傷つけられたり苦しめられたりする人たちの気持ちもわかる。
そして、「一切の妥協なき正義」にもとづいてひとを攻撃することには非常な嫌悪感がある。
そのような「正義」はむしろ邪悪なものである。
そもそも表現の自由戦士が敵対するフェミニストにしてからが、最初からあのような傲慢で醜悪な集団だったわけではないはずなのだ。
最初は紛れもなく正当な主張があり、高潔な意思があった。そのはずだ。
しかし、「水は低きに流れる」。人間の精神は堕落する。


いつしか彼女たちは己の「正義」に酔い痴れ、おかしくなっていったのだろう。
そして、このままでは、表現の自由戦士もまた自らの「正義」と「力」に惑溺し、理性を喪っていくものと思われる。
インフルエンサーの青識亜論さんなどはそのことを懸念するようなツイートを行っているが、もう遅いかもしれない。
表現の自由戦士たちが一部の「ネトウヨ」や「しばき隊」や、それこそ「フェミニスト」のような暴言や中傷をためらわない暴力カルト集団と化す未来はすぐそこにまで近づいている気がしてならない。
したがって、いまこそ、過激な暴言を使う表現の自由戦士を批判しておく必要がある。
フェミニストたちの二の舞にならないために、まさにそのことが必要なのだ。
もう遅いかもしれない。手遅れかもしれない。それでも、ぼくはぼく自身の「正義」のために、一部の表現の自由戦士を批判するものである。
その指を、止めよう。