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「生き物に感謝して食べる」って変だよね?

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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コラム
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 いま、YouTubeで配信されている『100日後に食われる豚』という動画が話題らしい。

 「らしい」と書くのは、ぼくがこの動画にたいした興味もなく、きちんと調べてもおらず、くわしいことを知らないからである。

 タイトル通り、100日後に殺して食べる予定の可愛い豚の姿を配信しつづける動画らしいのだが、ほんとうにまったく興味が湧かないので、詳細に検索するつもりにすらならない。

 ウケ狙いのアイディアとしてはよくできているし、それはたしかにバズるだろうとは思うけれども、他人の動画がいくらバズったところでぼくには1円も入って来ないからね。まあ、どうでもいいといえばどうでもいい。

 が、この動画を巡る言説には興味がある。ぼくが見るところ、否定的意見としては「悪趣味だ」というものが多く、逆に肯定的意見には「食育として意味がある」といったものが多いようだが、両者ともじつに面白い。

 なるほど、こういう動画に対してはそういうふうに考えるのが一般的なのだなあ、と感心させられる。みんな、意外と善良なのか、それとも動物に対しては人間に対してほど非情になり切れないだけなのか、どっちなんだろ。

 ちなみに、この企画に携わっている某企業の社長はインタビューでこのように語っている。

S社長 いま流行っているSDGs(持続可能な開発目標)の中に、食品ロスをなくそうという目標があります。教育の現場や企業など様々な取り組みがありますが、その取り組みの意義を十分にPRできていないと見ています。楽しんでもらいながら、食品ロスに関して自分たちの行動を見直すきっかけをつくってもらいたいと思い、企画しました。私たちが食べているものの中にある命の尊さを考えてもらいたいと思っています。

YouTube「100日後に食われるブタ」に賛否両論 飼い主を直撃「丸焼きがいい」〈dot.〉

 ふむ、「命の尊さ」と来たか。何だろ。べつに食べても食べなくてもどっちでもいいとは思うのだけれど、こういう露骨に白々しいことはなるべくいわないでほしいですね。

 さすがにここまで胡散臭いことを堂々と語られると、ぼくのなかの消えやらぬ中二病ゴコロが反発しだしてしまう。

 いや、だって、ほんとうに命が尊いというなら、その尊いものを殺して食べちゃダメでしょ。尊い、尊いといいつつ一方的に生き物を殺害して美味しく食べちゃう行為にはどう考えても矛盾があるのでは、と思うのだ。

 ただ、もちろん、ぼくはだからこの豚を食べるべきではないとか、もっというなら人間は肉食をやめるべきだとか、そういうことをいうつもりはさらさらない。また、自分自身も肉食をやめようとは考えない。だって、焼き肉も唐揚げも美味しいものね。

 単に「命の尊さ」を掲げながら一方でその尊い命を食べることにはどうにも無理があるのでは、と感じるだけなのである。

 もっとも、このように語るとすぐに反論が返って来そうではある。そうではない、ここでいう「命の尊さ」とは、命のことを尊いと感じる知性を持ちながらも、それを食べることなしでは生きていくことができない人間が感謝の気持ちを抱きつつ命をいただくことを指しているのだ、命を尊いと感じることと命を感謝しながらいただくことは、べつだん何も矛盾していない、とか。

 そう、「命の尊さ」が云々と語るとき、必ず出て来るのがこの「感謝」というフレーズである。上記のインタビューにもこの言葉が登場する。

――「かわいそう」というコメントもありますね。

A 想定の範囲内です。動画を投稿し始めたときは低評価が多かったのですが、4日昼時点での高評価は最大で92%、低いものでも66%です。視聴者の視点も変わってきているのかなという印象です。コメントでも「ブタはいつも食べているし、命に感謝しないといけない」、「いただきますを心を込めて言いたくなった」という感想が増えています。

 つまり、そこには何やら、人間は生き物のたったひとつしかない命をいただいているわけなのだから、その生き物に対するありがとうという気持ちを持って食さなければならない、という道徳があるらしいのだ。

 だが、あるいは申し訳ないことかもしれないが、ぼくはこの種のモラルもかなり怪しいシロモノだと考える。そもそも「いただきます」とはいうものの、ぼくたちが動物から命を「いただいて」いるというのは大いなるウソだろう。

 「いただく」とは「もらう」の謙譲語である。人間に食べられる動物たちはだれも「ぼくの命をあげるよ」などと許可を出してはいないのだから、人間が動物から「命をもらっている」という考え方はおかしい。「動物の命を一方的に奪って食べている」というほうが正確だ。

 どうも「動物を殺しているのだから感謝しなければならない」という道徳理念は、「自分が快適に生きるためだけに、ほかの動物を一方的に殺して食べている」という事実から目を背けるために利用されている気がしてならない。

 その意味で、ぼくは「食育」という概念に対してもかなり懐疑的である。子供たちに食の教育をほどこすなら、だれよりも大人たち自身が「生き物を食べるとはどういうことなのか」と真剣に考えなければならないと思うのだが「感謝の念さえ持っていれば殺して食べてもいい」というかなり倒錯的な観念で思考停止しているようにしか見えないからだ。

 いや、動物の殺害を「感謝」で正当化するのはやっぱり無理でしょ。一方的に殺して食べておいて「わたしの食欲を満たすために死んでくれてありがとう」などといいだすのはどうにもグロテスクではないだろうか。

 ただ、どうやらこの「感謝」という概念が「食育」の中核をなしていることはたしかで、農林水産省のウェブサイトを見ると、このように書かれている。

食育基本法においては「食に関する感謝の念と理解」(第3条)として「食育の推進に当たっては、国民の食生活が、自然の恩恵の上に成り立っており、また、食に関わる人々の様々な活動に支えられていることについて、感謝の念や理解が深まるよう配慮されなければならない。」としています。また、平成28(2016)年3月に作成された第3次基本計画においても、重点課題の一つとして、新しく「食の循環や環境を意識した食育の推進」を定め、「食に対する感謝の念を深めていくためには、自然や社会環境との関わりの中で、食料の生産から消費に至る食の循環を意識し、生産者を始めとして多くの関係者により食が支えられていることを理解することが大切である。」としています。

1 食の循環と食に関する感謝の念と理解

 いったい何に対する「感謝」なのか少しあいまいだが、どうも「自然の恩恵」に対するものでもあるような書き方である。

 しかし、あくまで意地悪く思考を進めるなら、「恩恵」とはいっても、自然動物はべつに対しどこまでも寛容に人間に自分を食べることを許して自分を恵んでくれているわけではない。

 「恩恵」とか「恵み」とはあくまで人間の視点から見てそういうふうに見えるというだけであって、一般に動物はみな、人間と同じように、もっと生きていたい、ほかの動物に食べられたくなどないという本能を抱いて生きていることだろう。

 それをあっさり殺して美味しく食べてしまうことを「恩恵」などと呼ぶことは、やはり少しくおかしい。

 とはいえ、だからといって「どうせ人間の身勝手で殺していることには違いないのだから、一切感謝したりする必要はない」というふうにシニカルな考えかたをすることも極端ではある。

 自分という人間が、生物が、ただ自分の欲望を満たすためだけに、ほかの生き物の命を奪いつづけて生きているという現実を淡々と直視した上で、その、素直に考えるなら恐ろしいともおぞましいとも罪深いとも受け取れるであろうことをどのように解釈していくべきなのか、何らかの哲学が必要になるところなのだろう。

 ぼくじしん、べつだん、何か簡にして要を得た究極の答えを持っているわけではない。ただ「感謝することが大切だ」という考えが安易に流れるなら、それは「とりあえず感謝さえしておけばいい」という思考停止と変わらないことになってしまうだろうとは思う。

 この世界は人間の目から見て残酷に思えるシステムでできているわけなのであり、人間にその残酷さを消し去ることはできない。また、はたして消し去るべきなのかどうかもわからない。

 そのことを明確に認識し、正確に洞察してなお、考えつづけることをやめない姿勢こそが大切だろうというのがぼくなりに思うところだ。それもまた、ひとつの欺瞞だといえばそうかもしれないが。

 さて、ここまでが、この記事の前半の無料部分。ここから先は『100日後に食われる豚』の「悪趣味さ」について、それははたして批判されるべきものなのかと考察していく。また、「ペット」と「家畜」の区分についても考えを進める。

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