「炎上商法」ですらなかった『チートスレイヤー』。
「小説家になろう」発の人気作品たちを嘲っているとも受け取れる描写が話題になった『異世界転生者殺し-チートスレイヤー』。すわ「炎上商法」かとも見えたこの作品ですが、あっというまに連載中止に。いったい何がどうなっているのか? 見直してみましょう。
「パロディ」か「オマージュ」か「パクり」かは措いておいて。
そういうわけで、以前の記事で取り上げたマンガ『異世界転生者殺し-チートスレイヤー-』が第一話の時点で早々に打ち切りになったそうです。残念! 単行本が出たら買おうかと思っていたのに。
まあ、しかし、それも当然だよね、とも思ってしまいます。
それが「パロディ」というべきか「オマージュ」と呼ぶべきかはともかくとして、一応は著作権法が発達した現代でこの手の作品を展開するためには、それなりに「うまくやる」必要がある。この作品はそこが致命的に拙劣だったというしかありません。
まあ、この手のやり方は全部問答無用でダメなのだという人もいるかもしれないし、それにも一理あるのだけれど、じっさいには「うまくやっている」作品ががあることも事実。
「どこまでがオーケーで、どこからがアウトなのか?」の線引きはむずかしく、うかつなことはいえませんが、「この種のパロディは全部ダメ」となったらそれはそれで息苦しいでしょう。
また、いくら「パクりはダメに決まっている」とはいっても、この世のほとんどすべての作品が過去の何らかの作品から影響を受けているわけで、あまりに厳密なことをいい出したら一切作品が作れなくなってしまいます。
たとえばタイトルからしてパロディ要素満載の庵野秀明監督の『トップをねらえ!』は名作として高く評価されています。『エヴァ』にもパロディはたくさんありましたね。
それでは、「とりあえずはうまくやっている(ように見える)」作品とそうではなかった『チートスレイヤー』とで何がどう違っているのでしょうか?
『チートスレイヤー』のどこが致命的にヤバかったか?
『チートスレイヤー』の問題点として挙げられることは、じつは「きわめて有名なキャラクターたちをそのままの形で出している」こと、これに尽きます。
つまり、元ネタの消化が甘い。「なろうの有名キャラクターたちを集めてバトルロイヤル(かな?)をやろう」というアイディアそのものは、ぼくはじつはそこまで悪くなかったと思う。
そこで、既存のキャラクターたちを連想させる人物を悪役として出そうという発想も、ギリギリの線ではあるものの、まだアウトとはいえないのではないか。
というのも、あきらかにスーパーマンやバットマンから構成される「ジャスティスリーグ」を連想させるヒーローたちが悪役として登場する『ザ・ボーイズ』という作品があるからで、すでに指摘されているように、おそらく『チートスレイヤー』は日本でこのスタイルをやってみよう、というところからスタートしているのではないかとも思えるのですね。


しかし、やはり致命的に問題だったのは、元ネタの要素を自分なりに消化した上で自分のキャラクターとして出すのではなく、「元ネタそのまま」の姿で登場させてしまったことでしょう。
特に悪役集団「ベストナイン」のリーダーである『ソードアート・オンライン』のキリト(によく似たキャラクター)に関しては、これはイイワケが効かないレベルでそのままだと感じます。
「微妙な線」とか「グレイゾーン」ではなく、ほんとうにそのままなのですね。これはダメでしょう。
パロディ的な企画そのものは「アウト」ではない。
たとえば、「二刀流の剣士」、「スライム」、「悪役令嬢」、「ループ能力者」といった個性だけなら、たとえ特定の作品をつよく連想させるとしても、だれも文句はいえなかったはずなのです。
だって、そういうキャラクターが出て来る作品は、無数に、特に「なろう」の場合、ほんとうに無数にあるわけですから。
もし一切のフィクションに今後、「二刀流の剣士」や「ループ能力者」を出せないなどということになったらどうなるでしょう? 困りますよね。
そもそもそういったキャラクターは『SAO』や『Re:ゼロ』で初めて登場したわけでもないのですから、作家が著作権を主張できる筋合いのものでもありません。
だから、『チートスレイヤー』がその線で「あくまでオリジナルのキャラクター」であると主張できるだけのキャラをそろえていたなら、少なくともすぐに打ち切りということにはならなかったものと思われます。
ただ、この作品の場合、キャラクターの外見や名前まで元ネタに似せて来ていますから、それはダメでしょうということになるわけです。
今回、『チートスレイヤー』の連載打ち切りに関連して、「元ネタ作品の主人公たちを悪役に設定したのがまずかった」という声が聞かれますが、ぼくは「そういう問題ではない」と考えます。
「他人のキャラクターを自分の作品に取り込むにあたって、自分なりに消化するところまでもっていけていない」、そこがすべての問題の根幹なのです。
パロディの一大黄金時代。しかし――
ぼくたちはいま、「パロディの黄金時代」ともいうべき時代を生きています。それが有名作品であれば、ほぼ説明もなく(いちいち説明を入れるとつまらなくなるのですが)、パロディを行っても、まあ、ほとんど咎められることはありません。
もちろん、それらも著作権法的には灰色だったりするのかもしれませんが、よほど下品だったり敵対的だったりするもの以外は、作家も目くじらを立てはしないでしょう。
たとえば「ジョジョネタ」とよくいわれるような『ジョジョの奇妙な冒険』の名場面、名台詞を真似したパロディは無数にあり、それだけで一ジャンルを形成しているのではないかとも思えるほどです。
しかし、それと「元ネタをそのままの形で残した設定だけでひとつ作品を作ってしまう」ことはやはり決定的に違っている。いくらパロディとはいっても、そういうふうに元ネタの作品を消化し切れなければ当然ながら批判を受けるのです。
この件は、そのことを作家も編集者もよくわかっていなかったというしかありません。ちょっと呆れ返るしかない話ですね。
とはいえ、パロディはギリギリのラインであるほど面白いことも事実ではあるでしょう。また、「なろう」という場は『指輪物語』や『ドラゴンクエスト』が元ネタの「基本的な設定」を流用して初めて成立するところでもあります。あまりに口うるさいことをいい始めたら際限がない。
そのことを踏まえた上で、何とか「他山の石」としたい「事件」でした。ため息。