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タバコ、セックス、飲酒、薬物、ゲーム。依存症の本質とは。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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依存症にあらわれる人間のかたち。

 依存症という言葉は、最近になって殊によく目にすることになった。昔は「アル中」などと呼ばれていた人物も、いまではアルコール依存症だということになっている(ただし、医学的には「中毒」と「依存症」はべつの概念である)。

 この記事を読まれているあなたも、もちろんこの言葉をご存知だろう。あるいは、それに関連する言葉で検索してこのページにたどり着いたのかもしれない。

 だが、その実態についてくわしく知っている方はそれほど多くないと思われる。ぼくも決して専門家ではないから、はっきりわかっているとはとてもいえないのだが、とりあえず自分でかるく調べたことをここにまとめておきたい。

 それくらい、依存症という現象に興味がある。あるいは依存症を通して浮かび上がる人間のかたちに興味があるといっても良いかもしれない。

 まず、そもそも依存症とはどのような状態のことなのだろうか。ひとことでいうなら、それは「自分の意思で自分をコントロールできなくなる病」である。

 脳がある種の化学物質に「依存」してしまい、自分ではやめたくなってもやめることができなくなる、そういう症状をもたらす病気なのだ。

 いまでも、依存症を「意志のつよさ」の問題だと見る人は少なくないだろう。「二度とくり返しません」といっていた人が同じ過ちを繰り返すと「なんて意思の弱い奴だ」とあきれ果てるのは当然といえば当然の心理かもしれない。

 だが、医学的に見るとそれは完全に間違えている。

「意思の力」では我慢できない。

 依存症とはそもそも「意思のつよさ」の問題ではないのである。「つよい意思」でもって我慢できる範囲なら、それは依存症ではないといっても良いかもしれない。

 重篤な依存症ともなると、本人がどれほどその行為をやめたくなっても、やめることができないという状況に陥る。依存症の悲劇が絶えない由縁である。

 しかし、そうはいっても、たとえばアルコール依存症の人たちは好きで酒を飲んでいるのだろう。そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。

 だが、これもまた依存症に対する典型的な誤解である。一般に依存症の域に達しているひとは、もはや「飲みたくて飲んでいる」わけではない。「飲みたくなくても飲まざるを得ない」のである。

 そんなことがあるのか。あるのだ。「飲みたくないのに飲まずにはいられない」。その状態がどれほど苦しいものなのか、想像を絶するものがある。

 もっとも、「理性ではやめたほうが良いと思っているのにやってしまう」ことはぼくたちの日常にも転がっている。ダイエットしないといけないとわかっているのに食べてしまうとか。

 それもまた依存症の可能性が高い、といったら驚かれるだろうか。原田隆之『あなたもきっと依存症』によると、人類の多くはいまや「糖質」に対する依存症に陥っている可能性があるという。

 さまざまなやり方が発明されても、なかなかダイエットが成功しないのは、そこにこそ原因があるのだと。

ニコチンの依存性の強さはヘロインと同等。

 医学的には、糖分に対する依存症は立証されているわけではないらしい。だが、その「症状」が依存症と酷似していることは、シロウトにもわかるように思われる。

 じっさい、肉体が(つまり脳が)糖分を欲したときには、理性で我慢することはかぎりなくむずかしい。

 もちろん、もっと医学的にはっきりとしたエビデンスがある依存症もたくさんある。タバコやアルコールに関する依存症は最もメジャーなものだろう。

 特にタバコの依存性のつよさは、社会的に低く見積もられ過ぎている傾向がある。じっさいには、疫学的なメタアナリシス(複数の既存研究を参照して行われる分析)によってタバコの依存性の強烈さは完全に証明されている。

 その依存度の高さはじつにヘロインと同程度であり、ニコチン依存症の患者はアルコール依存症以上にやめることがむずかしいことがわかっているのだ。また、その毒性のつよさも相当のものである。

 そうなると、社会的に完全にタバコを禁止するべきではないか、という議論が出て来ることも自然だろう。

 その議論にはここでは深入りしないが、個人的には、たしかに一理ある意見だとは感じる。ただ、タバコに一定の文化的背景があることもたしかであり、また、単純に健康に悪いとされるものは片端から禁止すれば良い、という考えかたにも問題がある。

 まずは明瞭なデータを背景にした真剣で冷静な議論が必要だと感じるところである。

『クイーンズ・ギャンビット』と薬物依存の天才少女。

 これらの依存症もきわめて深刻だが、一般にひとが「依存症」と聞いて、まずいちばんに思い浮かべるのは薬物(ドラッグ)依存症ではないだろうか。

 Netflixで配信されて世界的にブームとなった(だが、なぜか日本ではいまひとつ人気とならなかった)連続ドラマ『クイーンズ・ギャンビット』の主人公は薬物中毒で天才チェスプレイヤーの少女である。

 彼女は、名だたるチェスプレイヤーを次々と打ち倒して世界一を目指すが、最後の最後までどうしても薬物との関係を切れない。世界戦をまえに、どうやって薬物を断つことができるかが物語のカギとなる。

 じっさい、このような天才的ともいえるプレイヤーやアーティスト、アスリートなどにも薬物に依存している人は少なくないようだ。

 わが日本は、世界的に見てもきわめて薬物に対してきびしく、逮捕者も少ない。そのことが世界に冠たる治安の良さに貢献しているところは大きいだろう。

 一方で、薬物使用者に対する社会感情はきわめて偏見に満ちている。いまだに依存症は「意思の弱さ」の問題として見られ、困難な病気であるという認識が進んでいないのである。

 元野球選手の清原和博や、芸能人の田代まさしの本などを読むと、薬物依存症患者に対する世間の偏見が生々しく伝わって来る。このような状況で「更生」することはたしかにむずかしいだろうと思える。

「ラットパーク実験」が示す事実。

 薬物依存に関しては、「ラットパークの実験」と呼ばれる有名な実験がある。

 ただ一匹だけで孤独な環境の実験用ケージのネズミと、「ネズミの天国」ともいうべき広大な「ラットパーク」に入れられたネズミの、麻薬摂取量を比較した内容である。

ラットを1匹だけ入れた普通の実験用ケージと、普通のケージの200倍の広さの中に十分な食料とホイールやボールなどの遊び場所とつがいのための場所などもある中に雌雄のラットを16-20匹入れた「ラットパーク」を用意した。それぞれ、普通の水とモルヒネ入りの水を用意し、モルヒネを混ぜた水は苦いので砂糖を混ぜて甘くした。

実験用ケージのラットは砂糖が少なくてもモルヒネ入りの水を好んで飲むようになった。ラットパークのラットはどんなに砂糖を入れてもモルヒネ入りの水を嫌がった。実験用ケージではモルヒネに依存性を示すようになったラットも、ラットパークに移すと普通の水を飲むようになった。実験用ケージで長期間も強制的にモルヒネ入りの水を飲まされ中毒の状態になったラットは、ラットパークに移されるとけいれんなどの軽い離脱症状を見せたが、普通の水を飲むようになった。

この実験は、麻薬依存症の原因は麻薬の依存性よりも環境であることを示唆するものであった。

ラットパーク - Wikipedia

ベトナム戦争とヘロイン依存症。

 この実験が示しているのは、孤独で劣悪な環境に置かれたネズミは、より薬物に依存しやすくなるということである。

 もちろん、あくまで動物実験であり、人間においても同様のことがいえるとは限らない。

 だが、人間もまた、環境によって依存症になるかどうかが左右されることを示唆する事実も存在する。ベトナム戦争における薬物(それも、最も依存性がつよい麻薬であるヘロイン)の中毒者が、帰国すると治ってしまったという話である。

 Wikipediaの同じページから引用しよう。

このうち出征前の薬物検査で陽性反応を示した約1400名をリストアップした上で495名を抽出し、それ以外の約12000名からも無作為に470名を抽出して、出征前後の行動調査を行ったところ、調査対象者の35%がベトナムにて何らかの形でヘロインを摂取した経験を持ち、うち20%が深刻な依存症に陥っていたが、ヘロイン使用経験者の90%以上は復員後は速やかにヘロインの使用を止めたという結果が得られた。

 つまりは、戦場という、最悪の環境においてはヘロインに手を出さざるを得ず、依存症に陥いるところまで行った人びとであっても、家族や友人に囲まれた平和な環境においては、もはや薬物を必要としなくなることがありえるということである。

 ありえるというか、九割以上はヘロインを必要としなくなってしまったのだ。このことは、薬物中毒患者の治療において、周囲の環境がいかに大切であるかをつよく示して余りある。

「モラルモデル」と「医療モデル」。

 ひるがえって、わが国を見ると、薬物依存症患者のほとんどは離婚や家庭崩壊を強いられ、また友人も去っていき、孤独な身の上となる。

 上記の事実を見ても、このことが依存症からの回復にプラスに働くとはとても思えない。日本は世界的に見てもきわめて違法薬物使用者が少ない稀有な国ではあるが、違法薬物使用者に対してあまりにも冷徹な国でもあるのだ。

 国法を犯した犯罪者なのだからしかたないではないか、という声もあるかもしれない。だが、依存症患者を倫理的に問題のある人間とみなして非難するばかりの「モラルモデル」では、依存症の治療は進まない。

 国際的には、依存症は犯罪ではあっても明確に医療の対象とされ、治療を受けることとなる流れがある。これは「医療モデル」ないし「疾病モデル」といわれる考えかたである。

 もちろん、何が何でも世界にならえというつもりはない。もし、あくまで「医療モデル」を採用しない正当性があるなら「モラルモデル」を貫くことも良いだろう。

 また、「医療モデル」にも患者の責任踏力を低く見積もりすぎてしまうというパターナリズム的な問題がある。

 だが、とくべつ理由もないのに「とにかく犯罪だから」といって「モラルモデル」的な見方を続けることにはあきらかに問題がある。社会のそのようなバイアスが、依存症患者を再犯へと導いてしまっている一面があることを知るべきである。

性的依存症(「セックス依存症」)の闇。

 かなりセンセーショナルな話題ではあるが、性行為に依存してしまう性的依存症という概念も存在する。俗にいう「セックス依存症」だ。

 ただし、医学的には「セックス依存症」とは呼ばれもしないし、まだデータが少なく、それが明確に依存症と呼べるかどうか研究のさなかだという。

 とはいえ、性行為への耽溺を止めることができなくなる「症状」が存在することはどうやら客観的な事実ではある。

 津島隆太『セックス依存症になりました』は、そのような「性的依存症」の若者を描いた衝撃の作品だ。この作品のなかでは、性的依存症の実態が克明に描かれる。

 あるいは、あなたも「若い男ならつよい性欲があることは当然ではないか」、「性欲を止められなくても自然な状態なのではないか」などと思われるかもしれない。

 しかし、本書を一読して見ると、もはやそういうレベルの問題ではないのだということがはっきりとわかる。

 この作品の主人公である著者は、あらゆる生活を破綻させ、人生を狂わせてすらも、セックスに溺れることがやめられない。

 それは「浮気癖」といったものではなく、まるで性欲を感じていないにもかかわらず性行為に溺れることがやめられないという「病気」なのである。

 その深刻さはほかの依存症にもまったく劣らない。マスコミが興味本位で芸能人を「セックス依存症だ」などと煽り立てることがあるが、そういった俗情におもねった報道はすぐにやめるべきであると考えられる(やめないだろうけれど)。

「ゲーム障害」という病。

 「セックス依存症」は正式な病名としては認められていない、マスコミなどがセンセーショナルさを求めて使用する言葉であるが、じつは「ゲーム障害」という状態は存在する。

 WHOによってこの「障害」が認められたのはじつにこの記事を書くよりわずか2年前の2019年のことで、その過程には日本の貢献が大であるという。

 いい換えるなら、日本においてはかなりメジャーでデータが取りやすい病気だということである。

 「ゲーム障害」では、主にオンラインゲーム、それもソーシャルゲームが問題となる。そして、わが国のオンラインゲームの市場規模は、じつに一兆円をかるく超えるという。

 もちろん、そのすべてが「ゲーム障害」に原因があるとは限らないが、深刻な依存症患者が多数いるであろうことは想像できるだろう。

 依存症である以上、「ゲーム障害」の患者は自分の意思ではゲームをやめることができない。もはや好きでやっているのではなく、自分の意思ではやめたいと思っていてすらも、やめることができないのである。

 それを「いまどきの若い者は、まったく」などといって放置することは最悪の対応である。そういう依存症が存在するのだということをしっかりと認識し、治療へと対応を進めるべきだ。

 ただ、もちろんゲームそのものが悪だということではない。コンピューターゲームは魅力あふれる文化ではあるが、一面で大きな危険性を孕んでいるということなのである。

「快」と「不安」の病理。

 前述の『あなたもきっと依存症』によれば、依存症とは「快」と「不安」の病である。

 人間はだれしも「もっと快楽をむさぼりたい」という欲望を持っており、一方で「このままで大丈夫なのだろうか」という不安を抱えてもいる。この「快」と「不安」が螺旋を描くようにして依存症を深刻にしていくのだ。

 それでは、いったい依存症から回復するためにはどうすれば良いのだろうか。

 『あなたもきっと大丈夫』では、依存症からの回復は自転車の練習に似ていると記されている。

 自転車を練習するとき、一度で乗れるようになる人は少ないだろう。まず大半の人たちは、何度となく失敗をくり返しながら、少しずつ慣れ、やがては乗れなかったときのことが思い出せないくらい自在に乗りこなすようになる。そういうものだと思われる。

 依存症もそれと同じで、何度も失敗しながら、つまり「スリップ」と呼ばれるタバコや薬物やアルコールの接種をくり返しながら、少しずつ回復へ向かっていくものだというのだ。

 「一度失敗すれば、すべてが元の木阿弥」というのは依存症の数ある神話のなかのひとつに過ぎない。何度となく失敗しても、その失敗の原因を把握した上で再度挑戦することが大切なのだ。

 もしあなたが依存症に悩んでいたり、あるいはその関係者だったりするなら、このことを心に刻んでほしい。失敗は決して「おしまい」ではなく、そこからスタートするものが、確実にあるのだということを。

 依存症は人類の長年の隣人である。この隣人と別れ切ることはできそうにない。うまくつき合っていくことが必要なのだ。

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