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妻より稼いでいても家事は分け合わなければならないのか?

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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 最近、個人的に注目しているえいなかさん(@EiNaka_GADHA)の最新記事がひじょうに面白い。

妻の「私は家政婦じゃない」という訴えを理解できない夫たち | 日刊SPA!
家事の分担は稼いだ額で決まるのかDV・モラハラ加害者が、愛と配慮のある関係を作る力を身につけるための学びのコミュニティ「GADHA」を主宰しているえいなかと申します。僕自身もDV・モラハラ加害者です…

 かれが使っている表現をそのまま用いるなら、「稼ぎと家事分担問題」の話である。

 この問題についてここまで明瞭に書かれている文章を初めて読んだかもしれない。

 あらためて考えてみればごくあたりまえのことなのだが、読むまえにはうまく言語化できなかった内容だ。視界が少しクリアーになったことを感謝したい。

 さて、上記の記事では、まず、「もしお金がたくさんあって外注することで家事が完全に回る場合、パートナーを不要と考えますか?」というひとつの質問によって、人間をふたつに分類し、これに対し「ノー」と答える人のみを対象にして語っていく。

 この質問に「ノー」と答えるということは、つまり、結婚生活にはどんなにお金がたくさんあってもそれだけでは獲得できない価値があると考えているということになる。

 もし、その人がお金ですべてが解決すると考えるのなら、「お金さえあればパートナーはいらない」と答えるはずだからだ。

 つまり、そういう人は、意識はしていないかもしれないにせよ、結婚生活や家族生活にお金には換えられない何かを求めているのである。

 それでは、その「何か」とは何なのか。記事を読み進めていこう。

「僕たちは労働の交換のためだけに一緒に生きているわけではない」とすると、それ以外に家庭やパートナーシップにはどんな目的があるのでしょうか。

 それを考えるとき、僕がよく以下のようなことを例に出します。

 1.業者に自分の好みを事前に伝えておいたら、煮魚が届いていた
 2.パートナーが自分の好みを知っていて、煮魚を作ってくれた

 僕はこの2つに、決定的な違いがあると考えます。

 後者には「この自分」のために作ってもらえた、という確信があります。前者にそのように感じる人はいないでしょう。それは単に自動販売機で飲み物を買うのと同じことだからです。

 自分のことを知っていて、大切に思ってくれている人が、この自分のために生きてくれているということ。

 そこには金銭に換算不能な何か、私たちが普段の日常ではあまり言語化していない「金銭とは異なる価値」が生じているということです。

 そこには「この私」と「このあなた」という固有の関係があります。業者に頼んだとき、そこには「顧客ID」「注文情報」「送り先」「お届け日」といったデータだけがあります。

 ここではあまり具体的には表現されていないが、この「金銭とは異なる価値」とは、つまり、あいてに優しくされてほっと心が和むことや、あたたかな愛情に触れて孤独が癒やされることなどである。

 この世にはさまざまな価値があり、その価値を交換しあう媒介物として金銭がある。

 いい換えるなら、金銭はこの世の価値があるとされるものの多くを交換可能な存在に仕立て上げる。

 しかし、同時に決して金銭には換えられない価値も存在している。たとえば愛情や尊敬がそうだ。

 たとえどんなに金銭があっても、あるいは権力を持っていても、だれかの愛情や敬意を無理やりに得ることはできない。

 あいてをひざまずかせることはできるだろうし、殺害することすら可能であるかもしれないが、あいての心を直接に曲げることだけはできないのだ。

 そして、金銭を介在したビジネスの関係を除く友情、恋愛、夫婦、親子といった私的な人間関係はこの愛情や尊敬の存在を前提としている。

 もちろん、愛情も敬意もない「ビジネスライク」な関係も存在するし、それは必ずしも悪いものではない。

 ただ、多くの人はそういった「金銭的価値」を交換する関係だけの人生にはむなしさを感じ、耐えられない思いがするだろう。

 どんなに孤高を気取っても、人はなかなかだれかの愛情なしには生きていくことができない。だからこそ恋愛や結婚といった親密な関係を求めもするのである。

 もちろん、もしそれだけのやり取りで生きていけるのだとしたらそれはそれで良いのだが、そういう人はあまり「私的で親密な関係」を作るべきではない。

 先述したようにそのような関係は一般に「非金銭的な価値」を交換することによって成り立っており、あいてにその価値を与えないのでは搾取になってしまうからだ。

 上記記事にこのように書かれている通りである。

「金銭とは異なる価値」は、金銭では買えません。よって、もしも自分は「金銭とは異なる価値」を受け取っておきながら、自分は金銭を提供しているだけなのだとしたら、それはもらいすぎなのです。

「金銭とは異なる価値」は、交換することによってしか持続しません。よって、もらいすぎな状態はいつか必ず持続不可能になります。それは見えづらい搾取なのです。

 この場合、「金銭的価値」の代替物である金銭をいくら与えても対価を支払ったことにはならない。

 「金銭的価値」の象徴である金銭と、「非金銭的価値」の表現であるケアは、いわばまったく異なる種類の貨幣であり、交換不可能なのだ。

 というか、そもそも交換不可能だからこそ「非金銭的価値」はお金では買えないのである。

 いうまでもなく、単なる仕事、あるいは作業としてのケアは金銭であがなうことができる。

 だが、そこには「「この私」と「このあなた」という固有の関係」が欠落しており、「非金銭的価値」が生まれない。

 「このあなた」が「この私」に対して行ってくれたと感じさせる固有の関係性にもとづくケアだけが「非金銭的価値」を孕むのである。

 したがって、そのようなケアを受け取った負債は同様のケアで支払うしかない。お金では支払えない。

 だから、もしあくまでも金銭のみで回る関係を希望しているのなら、「私的で親密な関係」は放棄するべきなのだ。

 それは具体的には離婚といった形を取るだろう。もしそれが嫌なら、愛情に対しては愛情で、ケアに対してはケアで対価を支払う以外ない。

 ぼくはそういう話だと思った。

 非常に多くの加害者が、実際にパートナーが別居や離婚を申し出ると非常に苦しみます。孤独な朝にも、孤独な夜にも耐えられないのです。それは、単に労働の交換をしていたわけでは無いことの明確な証明です。誰かが自分のことを思ってくれていること、日常の生活を誰かと営めること、苦しいときにそれを話せたり、嬉しいことを共有できる人がいること自体が、人の幸せなのです(そう感じない人がいてももちろん良いですが、もしそうなら外注で全てを済ませるべきです)。

 もしもあなたが「相手は自分をATMだと思ってる」と考えるとしたら、あなたは「自分は相手を家政婦だと思っていないだろうか」と問い直してみてください。

 そして、いざ誰もいない家に一人で帰り、朝起きて、また仕事に向かい、また帰ってきて…という生活をするとして、そこに言葉にならないほどの悲しみ、虚しさ、働く意味の欠如を感じるなら、あなたはもうたくさんのことを受け取っていることに気づけるはずです。

 金銭はひじょうに便利なので、人はそれだけであらゆる価値を交換可能だと考えがちである。

 だが、じっさいには、金銭では媒介できない価値は厳然と存在していて、ほとんどの人はその価値なしでは生きていけない。

 そして、最もビジネスライクに思えるような関係ですら、しばしばその「非金銭的価値」なしには成り立たないのである。

 愛情や敬意によって成り立つ私的な関係を、金銭的な利益によって成立する公的な関係と混同することがそもそも間違いである。

 願わくは、より多くの人が、少しでも早くこの間違いに気づけば良いのだが。

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