あなたは「死にたい」と思ったことはありますか?
ふつうに生きていたら、一度や二度や、三度や四度はそういうことがあると思うのですが、この『金曜日はアトリエで』は、その「死にたい……」という気持ちから始まる物語です。
あるとき、塵のように細々とした問題がいくつも積み重なった結果、アラサーの会社員である主人公の環恵美子は、「死にたい」という気持ちを抱えていました。
そのとき、些細な偶然から運命的に(?)出逢ったのが、新進気鋭の有名画家・石原春水。
ひと目で彼女を気に入った春水は、恵美子を絵のモデルに望みます。
しかし、それは魚をからだじゅうに散りばめたヌードモデルだったのです、というのが、お話の始まり。
ここから、だいたいいつもぼうっとしている恵美子と、傲慢で自己中心的な天才肌の春水の、ちょっと何かがずれたラブコメディが始まります。
いや、これが、面白い。春水はあきらかに恵美子に好意を持っており、というかひと目惚れすらしていて、そのためにさまざまにアプローチをかけていくのだけれど、いわゆる「天然」系の恵美子はかれの想いにまったく気づかない。
いや、それはさすがに気づくだろ、そもそも何かしら恋愛感情がなければ、プロでもなく、道ばたで出逢っただけのふつうの女性をヌードモデルに起用しようとしたりしないだろうと思うのですが、そういった理屈は環には通用しません。
しかたなく、ふたりはすれ違いつづけるわけです。
いや、あなたたち、三十歳過ぎているんだよね? そんな、中学生みたいな恋愛をしていて良いの? ふつうに付き合いたいといえばそれで済む話なんじゃないの? と、そう思ってしまうところではあるのですが、何しろ春水にとって環はかなり運命的なファム・ファタールであるらしく、その影響は画風まで変えてしまうほどなので、なかなかそう簡単には告白したりできません。
この、いかにも傲岸な芸術家といった印象の春水が、案外と細かいところまで気を遣っていたりする繊細なところがある性格なのが興味深い。
かなりマンガ的に誇張されたキャラクターであるようにも思えるのですが、性格描写のひとつひとつが的確で、決して「嫌な奴」には見えないところが素晴らしい。
かなり偉そうで、何かカンチガイしている感じではあるものの、人にきちんと「ありがとう」と「ごめんなさい」をいえる人物で、意外と人徳もあって、まわりから好かれているという描写は、単なる「書き割り」ではない人格の深みを感じさせます。
一方の恵美子も、ただ誘われるままに男の部屋に上がり込んでヌードモデルになってしまうくらいで、一風変わった性格。
春水のことは決して嫌いではないようなのですが、彼女にとってかれはあくまで「先生」であって、とくべつ恋愛対象としては見ていないようなのですね。
そこら辺の鈍さが春水との間のボタンのかけ違いを生んでいくのは、これはもう、ラブコメの王道といえるでしょうか。
いや、この男、あきらかに恋ごころがダダ洩れになっているだろ、気づかないわけないだろとも思うのですが、気づかないんだよなあ。
ある意味、魔性の女ですね。こんな女性がほんとうにいたら、男はたまりません。
しかも恵美子はまったく無自覚にエロスを放ちまくっていて、そのため、春水は気が気ではないのです。
いや、やっぱり早く告れ。でも、告白してももしかしたら成功しないような気もしてしまうあたりが、何とももどかしい。
この、触れたくても触れられないもどかしさがラブコメマンガの良さですね。
もっとも、このマンガは十代の男の子、女の子が主役であるわけではなく、三十代の、それなりに地位も収入もある男女が中心になっている大人の恋物語であるはずなのですが、まあ、人はいくつになっても恋をするとこんな風になってしまうものなのかもしれません。歳を重ねることによって人が成長するというのは幻想だしなあ。
しかし、恵美子はあまりにも罪作り。春水は相合傘を試みたり、誕生日にはプレゼントを贈ったりと、切ないくらい甲斐甲斐しく世話を焼いているのに、彼女には「近所のおじさんみたい」といわれてしまう始末で、一向に恋が芽生えそうにありません。
いや、この人、平気で春水のまえで全裸になったりしているんですけれどね。
ヌードモデルが中心になるマンガというと、まず藤子不二雄の『エスパー魔美』や紺矢ユキオの『その姉妹はたぶん恋する葦なのだ』あたりが思い浮かぶところですが、このマンガの場合、あきらかにお互いに恋愛感情が芽生えそうであるにもかかわらず、性愛的な方向にまるで進まないあたりが何だか可笑しい。
しかし、初めは「死にたい」と思っていたはずの環は、春水との出逢いを通して、癒やされ、満たされ、少しずつ変わっていきます。
そのあたりのことを彼女の友人が気づくくだりも良いですね。非常に女性らしい化粧品やらポーチやらの描きも楽しいものがあります。
ラブコメ好きにはオススメの一作です。良ければお読みください。
