コラム

小山田圭吾、町山智浩、野間易通。反逆と正義は「鬼畜系」で衝突する。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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コラム

90年代サブカルは「告発」する。

 先日、四半世紀前の「いじめ自慢」の一件を追求され、オリンピックの音楽担当を辞任に追い込まれた小山田圭吾さんの一件を見ていて、「90年代サブカル」のなかの「悪趣味系」、ないし「鬼畜系」と呼ばれる文化に初めて興味を抱いた。

 いままでもわずかには知識があったのだが、深く足を踏み入れることはなかった領域だ。どうもぼくは生理的に「そちら側」の人間ではなく、あまり「そういうもの」を好きになれなかったのである。

 だが、小山田さんの「自慢」ないし「告白」の文化的背景として「90年代サブカル」があることはたしかなのだろう。それに対しては興味がある。

 そういうわけで、とりあえず基礎知識を身につけようと、ロマン優光『90年代サブカルの呪い』を読んでみた。タイトルに「90年代サブカル」とあるくらいだから、それについて書かれた本だろうと思ったのだ。

 結果としては、とても勉強になった。いままで断片的に持っていた知識が結び合わされ「なるほど、そういうことだったのか」と納得がいった感じ。

 と同時に、「90年代サブカルの呪い」はいまなお続いているのだということもわかった。それはこの社会に「偽善」と「欺瞞」がある限り、どこかのアンダーグラウンドでかならず咲き誇る花なのだ。

 この社会のうさん臭い「欺瞞」に対するグロテスクな「告発」。90年代サブカルの意味は、まず、そのようなものなのだろう。

アンダーグラウンドに咲く露悪趣味の花。

 ここら辺のことを、倉本圭造さんはTwitterで例によって的確にまとめている。

 つまり、90年代サブカルに見られる露悪趣味とは、その当時の偽善的かつ抑圧的な文化状況に対するカウンターカルチャーだったのであり、その文化的対立はいまに続いているということだ。

 それはこの一連のツイートのなかで引用されている町山智浩さんの独白を見てもわかる。

 ぼくはその当時、ただの陰キャのオタク少年だったからよくわからないが、じっさい、このような抑圧的な雰囲気はあったのであろう。

 何しろバブル花やかなりし自由と狂乱の頃、生きにくい人にはとことん生きにくい時代だったに違いない。もっとも、町山さんのこのいいぐさには批判もある。

「政府批判なんだからOK」「当時の文化への反逆だったんだから許せ」通じるわけないでしょ……何言ってんの

ネトフェミといい、反自民といい、反~~ってつく人たち。

なんでこの手の人たちは、「何かへの反逆」を言い訳に自分たちのクソ発言に対して無限に寛大になってしまうのか……

町山さんが自分たちがヤンチャしてたころの過去を「反逆」という言葉を使って美化しようとしてるのがすごい危険だなと思った|よしき
ええええええ。 反逆だったからなんだっていうのさ…… 「政府批判なんだからOK」「当時の文化への反逆だったんだから許せ」通じるわけないでしょ……何言ってんの ネトフェミといい、反自民といい、反~~ってつく人たち。 なんでこの手の人たちは、「何かへの反逆」を言い訳に自分たちのクソ発言に...

 ぼくもそう思う。「反権威」、「反権力」というお題目を掲げた人たちは、その一方で自分自身の倫理感覚はきわめて鈍感であるように見える。

 町山さんが垂れ流す膨大なデマもそうなのだが、権威に「反逆」しているつもりの「反逆おじさん」ほど見ていて辛いものはない。しかし、一方で町山さんのいい分もわからないではないのだ。

「正義は正義、悪は悪」。

 まさか町山さんも小山田さんの暴力を肯定するわけではないだろう。ただ、「90年代サブカル」、あるいは「鬼畜系」のすべてをいまの感覚で否定するわけにもいかないということもたしかなのだ。

 「90年代サブカル」の一部はいまの視点から見れば「ドン引き」ものだし、おそらくは当時もあくまでアンダーグラウンドのあだ花に過ぎなかったのだろうが、そのすべてを鎧袖一触に否定することはやはり思慮が足りないように思える。

 もっとも、やはり全否定してかかる人もいることはいる。

 野間易通『実録・レイシストをしばき隊』を読むと、そこでかれが「80年代から90年代にかけて流行した価値相対主義」を批判しているところを見つけることができる。

 かれにいわせれば、この価値相対主義こそが諸悪の根源であり、「鬼畜系」、「悪趣味系」はいまのレイシズムをすでに胚胎している。

 ポストモダン大流行のなかでは、本など何も読まずとも、こうした『すべては等価』という考えが浸透していくのだ。それは、時代の雰囲気であった。そしてこのことは、おおむねリベラルな考えとして受け入れられた。つまり、たとえば多文化共生であるとか、多様性であるとか、あるいはアイデンティティ・ポリティクスであるとか、そうしたものを称揚する根本原理として受容されたのだ。

 野間さんはこの価値相対主義を徹底して批判している。正義はようするに正義であり、それを疑うことは悪に協力することであるという思想がそこから読み取れる。

価値相対主義と価値絶対主義の衝突。

 一理ある、とぼくは思う。それをポストモダンと呼ぶべきかどうかはともかく、たしかに「行き過ぎた価値相対主義」は人間の倫理や正義の感覚を崩壊させ、結果として「悪」を利するだろう。「鬼畜系」にもそういうところがたしかにあるように見える。

 こうしたアングラ掲示板やアングラ・サイトの特徴は、それが極めてノンポリティカルであるということである。極左、極右、カルト等を扱いながら、それらのどの思想にも特に入れ込んでいるわけではなく、すべてを等価にネタとして消費する。

 なるほど、「行き過ぎた価値相対主義」は問題だ。ぼくもそう思う。ぼくたちの社会は一定の「正義」なしには成立しない。

 しかし、ぼくが困惑せずにいられないのは、だからといって野間さんが掲げる「行き過ぎた価値絶対主義」にもまったく共感できないからである。

 「価値相対主義」を批判し、「普遍の正義」を掲げるしばき隊が、その実、どれほど暴力的な集団であったのかはすでにいくつかの告発が存在する。ぼくは決して野間さんの欺瞞を許容することができない。

 そう、〈コーネリアス〉小山田圭吾と〈しばき隊〉野間易通。いずれが正しく、いずれが誤っているのか。もちろん、そんなもの、どちらも最悪に決まっているのだ。

 「正義と理想を掲げたただの暴力」も「露悪趣味的なただの暴力」も、ようするに暴力であることに変わりはない。「くらえ、正義のパンチ!」と叫びながら殴りかかってくる奴も、「ほら、抵抗してみろよ(笑)」と笑いながら殴りかかってくる奴も、両方とも論外である。

 ごくあたりまえのことだが、心からそう思う。

欺瞞と偽善を告発するとしても。

 つまりは倉本さんがいうようにすべてはバランスの調整の問題なのだ。「リベラルで左翼的な正しさ」は、どこかでかならず欺瞞を孕み、偽善に通じる。

 人間はその種の「きれいごと」を完全に実践し切れるほど美しくはないのだ。だから、その欺瞞を「告発」する人間や文化が出て来る。

 これも倉本さんがいっているように、いまでは白饅頭さんなどがそれにあたるのだろう。しかし、だからといってダークで露悪的な「正しさ」に対する批判だけを鵜吞みにすることもできない。

 どれほど欺瞞的なきれいごとであるとしても、社会は「正しさ」なしには動いていかないからである。ときにはうさん臭いきれいごとも大切なのだ。そのことは、小山田圭吾さんの一件を見ていればよくわかることだろう。

 その「欺瞞的な絶対主義」と「露悪的な相対主義」のあいだのどこかで均衡を取っていかなければならない。

 面白いのは、香山リカや雨宮処凛といった左派のアイコン的な人物も「かつてのサブカル」に対する郷愁を感じさせるような文章を書いていることだ。

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90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝
女の痛みに意図的に「麻痺」した代償は大きいのだと、今、痛感している。

 町山さんも含めて、きわめて素朴で単純で暴力的な「正しさ」を振りかざして恥じないように見える人々が、一方でサブカル的な露悪趣味に耽溺していたことはきわめて興味深い。今後の「正しさ」のあり方について考えるとき、大きな意味を持っていると感じる。

 ぼくたちはどのくらい「正しさ」を信じるべきなのか。二元論を離れ灰色の決断を下せる成熟具合を持っていたいものである。

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