『クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』は傑作青春映画。
映画批評家のヒナタカさんが今年のベスト候補に挙げていると聞いて、またまわりの評価もかなり高かったので、映画『クレヨンしんちゃん』シリーズ最新作『謎メキ!花の天カス学園』を観て来ました。
ぼくは『クレしん』には特に興味がなく、世評の高い『嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』ですらピンと来なかったほうなので、このシリーズの良き視聴者とはいえないのですが、それでもなるほど、これは傑作だと感じました。
ただ、大傑作まではもう一歩かな、というのが正直なところ。
もっとも、これはぼくの個人的な感覚がネガティヴに作用している可能性も十分にあるので、気になる方はぜひ映画館まで観に行ってご自分でご確認ください。
ひょっとしたらいままでの『クレしん』を続けて観てきた人でなければ理解できない感動があるのかもしれないし、そういったとくべつな要素はなくてもやはり優れた作品だと思います。
今年は、というかここ数年来、日本のアニメ映画は爆発的に傑作の連発が続いていて、ひとりのアニメファンとしては嬉しいことです。
そのなかで『クレしん』がどのような位置づけになるのか、しょうじき、ぼくにはよくわからないのですが、感想欲をそそる作品であることはまちがいないので、以下にぼくなりのネタバレレビューを書いておきたいと思います。
以下、ネタバレあり。
フーダニット・ミステリとしての『天カス学園』。
さて、このネタバレ部分を読まれている方にはいまさらな情報でしょうが、この映画のストーリーはしんのすけたち一行がエリート教育を謳う「天下統一カスカベ学園」に体験入学するところから始まります。
初めはみんな仲良く楽しくしていたのですが、やがて、この「天カス学園」への入学を目指す風間くんと、エリートをポイントで評価するシステムになじめないしんのすけは仲違いすることに。
そして、ある晩、風間くんは吸血鬼ならぬ吸ケツ鬼に噛まれおバカになってしまいます。はたして犯人の正体は何者なのか? かれが書き残したダイイングメッセージ「33」の意味とは?
と、今回は何と全体の筋立てが犯人あて(フーダニット)ミステリとなっているのですが、ぼくはこの作品のミステリ部分にはそれほど興味がありません。
さすがに『クレヨンしんちゃん』ですからね。そこまで複雑なプロットが組めるはずもないし、また、シリアスなパズラーをやれば良いというものでもないでしょう。
もっとも、この映画を一作のミステリとして高く評価する向きもあるようなので、その部分が気になる方は検索して確認してみると良いかと思います。
ぼくが気になるのは、テーマ的な部分です。この作品を見ながら、ぼくはこれはようするに資本主義競争原理社会における「見せかけの多様性」に対する批判だな、と感じました。
資本主義競争原理のカリカチュアライズ。
一見すると、「天カス学園」は芸術、運動、学業など、多様な価値観にのっとって教育する機関であるように見えます。しかし、その実、「天カス学園」で評価されるのはどこまでも競争原理にのっとってトップを目ざせる人材でしかないのです。
「天カス学園」においてはすべてが競争原理で差がつけられます。学業や運動などで実績を残せる人間は、たとえ素行不良のギャルであっても認められる一方で、しんのすけのような「おばか」の居場所はありません。
妙にリアルなことに、学園のトップ・オブ・トップに立っているのは、何ごとも「普通」にこなしているだけの青年です。
かれは特異な才能のもち主なのでしょう。おそらく死に物狂いでやっているかもしれないほかの生徒を上回る成績を簡単に叩きだしてしまえるのです。
一方でかれは「だれもが自分をトップの人材としてしか見ない」という、いわば才能と人格の乖離にもとづく問題を抱えていて、それがミステリ部分に関わっているのですが、今回はそのことには触れません。
重要なのは、「天カス学園」がぼくらの資本主義社会をカリカチュアライズした空間であるということです。
くり返しますが、この空間においては、競争主義に適応できないしんのすけのような存在は無用のものでしかありません。
かれの個性はまったく認められず、しんのすけはあっというまにこの学園に飽きてしまいます。
そして、その一方で風間くんはしんのすけたちに努力を続けるよう促すのです。このままでは、しんのすけたちと進路が変わって来ることがわかっているから。
「無常」のテーマ。
風間くんの本心は、かなりの部分まで想像がつくものではあるのですが、とにかくも映画のクライマックスで明かされます。
かれがスーパーエリートになることを望んでいたのは、しんのすけたちといつまでもいっしょにいたかったからだったのです。
いまは楽しくいっしょに遊んでいても、競争原理はいつかかれらをひき離してしまう。それが耐えられない風間くんは、あくまでしんのすけたちといっしょの道を進んでいくためにこそ、エリートになりたがっていたわけです。
じつに泣かせる話で、まさに傑作というしかないのですが、しかしぼくにはここで『クレしん』というフレームが作品の足をひっぱっているようにも思えてしまいました。
つまり、ここで提示されているのは「どんなに親しい少年時代の友人であってもいつまでもいっしょにいることはできない」、「時は過ぎゆき、いつか仲の良かった友達どうしもひき離されていく」という、いってしまうなら「無常」を体現したテーマです。
しかし、じっさいのところ、『クレしん』である以上、この映画のなかでは時間は五歳で停止していて、それ以上過ぎ去ることはないのですね。
ここが、あえていうなら、惜しい。ぼくには「時」と、資本主義の競争原理が親友たちの密接な関係性を細断していくその切なさが、極限のところまで追求されることを『クレしん』というフレームが止めているように思えてなりません。
「スタンド・バイ・ミー、しんのすけ」。
これは半分冗談でいうのですが、この映画というかシナリオのポテンシャルを究極的に引きだしたら、おそらくあの『スタンド・バイ・ミー』に近いかたちになると思うのですよ。


青春時代の友達は一生の友達である、しかし、かれらといつまでもいっしょにいることはできない、時は残酷に過ぎ去っていく、そういうテーマですよね。
だから、冒頭で犯罪者とかに落ちぶれたしんのすけが死亡した新聞記事を、エリートになった風間くんが見つけるところからスタートしていたら、この映画は大傑作になったのではないか、と思ったり思わなかったりします(笑)。
もちろん、『クレしん』でそのような描写は不可能なのだけれど、物語の可能性としてはそういう形であるべき話なのではないか、ということですね。
もっとも、たぶん「自己肯定感」とか、「シニシズムの超克」といった視点から読み込むこともできる作品でもあるはずで、ひとつ青春友情物語であるだけではなく、かなり多角的な解読が可能だろうとは思います。
いずれにしろ、優れた映画には違いないので、ぜひ、お時間を作って見に行ってほしいものですね。
まあ、全体像をネタバレしてしまったので、これから見に行こうという方はいらっしゃらないかもしれませんが、でも、面白いですよ。
少年時代がまったくなつかしくないぼくでもそう思うのだから、ハマる人はハマることと思います。
この夏、オススメの一作です。