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斎藤環氏の『ルックバック』批判に精神障害当事者として思うこと。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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統合失調症当事者として考える。

 公開されるや否やソーシャルメディアで大評判となり、あっというまに数百万回のアクセスを記録し、そして瞬く間にその表現を問題視されたマンガ『ルックバック』が、やはり記録的な速さで内容を修正されたようである。

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+
学生新聞で4コマ漫画を連載している小学4年生の藤野。クラスメートからは絶賛を受けていたが、ある日、不登校の同級生・京本の4コマを載せたいと先生から告げられるが…!?

 「ジャンプ+」編集部からの説明は以上のツイートがすべてで、具体的にどこがどう修正されたのかさえわからない。

 もちろん、ネットではその点に関する検証が進んでいることだろうが、作家や編集部からの公的な説明なり謝罪はないまま、ひとつの表現が抹殺されたことになる。

 ぼく個人としては、この態度はあいまいで不誠実であり、もし『ルックバック』の内容が「偏見や差別の助長につながる」のだとしたら、具体的にどこがどう問題であったのか明確に説明するべきだと考える。

 そしてまた、ぼくはこのような形での表現の抹消には反対である。もし紛れもなく『ルックバック』の内容が差別的で、危険なものであり、抹消されて当然のものであるとするのなら、作家も編集部もその点を真摯に認めて言明する必要があるはずで、このような臭いものに蓋をして終えるような真似を選ぶべきではないだろう。

 ぼく個人も、ひとりの統合失調症当事者として『ルックバック』の表現に「ステレオタイプ」的な問題点を見いだしており、そのことは下記記事に記した。

 しかし、ぼくはだからといって『ルックバック』の表現が抹殺されることを望んではいなかったし、そのように書いてもいない。

 そこで、この機会に『ルックバック』を巡る問題について、もう一度考えたい。そう、この問題を「怒りを込めて振り返る」のだ。

臭いものにふたをするのはやめよう。

 今回、問題とされたのは『ルックバック』に登場するある殺人者の描写である。ネットでの情報によれば、修正がほどこされたのもそこに関連する箇所のようだ。

 その点について、ぼくは上記記事で、「ぼくはそれを「差別」だとは思わないが、あくまでエンターテインメントの技法的なクオリティの問題として、もっとほかの描写があったのではないか、とは思ってしまう」と書いている。

 ぼくとしては、『ルックバック』の表現には撤回を求められる筋合いはないけれど、作品の全体の水準からしてそこが安易な表現になっているように思えることは事実であり、それはエンターテインメントの技法として瑕疵にあたる可能性はある、といった意図だった。

 しかし、いま振り返ると、いささか及び腰な表現になっていることは間違いなく、もっとはっきりと書いておくべきだったと反省している。

 ぼくは『ルックバック』の「幻聴」表現が、この作品の全体的にハイレベルなクオリティのなかでいくらか安易なものになっていることを認める。

 それが、統合失調症を含む精神障害の当事者にとってマイナスに作用する「かもしれない」可能性も認める。

 しかし、だからといってこの部分の表現を封印し、抹消して良しとすることには断固反対である。そのようなやり方は精神障害に対する社会のバイアスを改善する役には立たないと考える。

斎藤環氏による「ステレオタイプ」批判。

 現在、ソーシャルメディアやブログでは『ルックバック』に対してさまざまな批判が繰りひろげられているが、最も精緻で合理的とも思える批判を展開したのは精神科医の斎藤環氏だろう。

 現在、そのnoteには3000近い「いいね」が付けられており、大きな共感を呼んだことがわかる。

「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?|斎藤環(精神科医)
 7月19日に公開された藤本タツキの漫画「ルックバック」は傑作だった。CSM以来の藤本ファンとしては、この作家の底知れない引き出しの多さに驚愕したし、予告されているCSM第二部への期待感がいやがうえにも高まった。とはいえ、私は自分がこの作品のほんとうの素晴らしさを理解できているとは思わない。本作は「漫画家についての漫画...

 斎藤氏もぼくと同じようなことを書いている。

 この通り魔の人物造形だけは、これまでさまざまなフィクションの中で繰り返されてきた、かなり凡庸な狂気のイメージだ。強いて言えば「統合失調症」が一番近いだろう。断っておくが、これは「診断」ではない。診断のいかんにかかわらず、私はこのような言動をする患者に会ったことはないし、ここに臨床的なリアリティは一切ないからだ。私の専門性は、ここではアンチスティグマに向かう態度として発動されている。私はむしろ一人の漫画ファンとして、これは漫画的に誇張された精神障害者のステレオタイプだ、と判断したのである。

 頼まれもしないのに診断を下す精神科医が差別を再生産している、という批判もあった。私自身は、これまで本作を直接に統合失調症と結びつけた発言は一度もしていないのだが、そう言いたくなる気持ちは分かる。しかしもう一度言うが、私は別に医師として「診断」をしたわけではない。ただ、このすばらしい傑作の中に、ここだけ妙に類型的な「狂気」の描写が出てきたので、強い違和感を感じたのだ。もちろんこれも主観ではある。ただ、読んだ直後にそうした感想を抱いた者が私だけではなく、当事者を含め少なくなかった事実は無視しないでもらいたいと思う。

 ここまでは、ぼくもほとんど同じ意見である。しかし、ここからぼくは斎藤氏と意見を異にすることになる。続きを見ていってみよう。

その「欠番」は当然か?

 全文を転載するわけにはいかないのでリンク先の原文を確認してほしいのだが、斎藤氏は欠番となったテレビドラマ『相棒』のある一話における、「覚せい剤依存患者」の描写を取り上げてこのように書いている。

 私は放映直後にこの演出を批判したものの一人だが、批判の声が上がるまでは、この女優の演技は「迫真」のものとして、雑誌記事などで絶賛されていた。しかし繰り返すが、迫真と言いつつそこに実体はない。彼女が演じようとしたのは「私たちの幻想の中の覚せい剤依存症患者」の表象、つまりステレオタイプだったのだから。

 漫画や映画を制作し消費する人々が漠然と信じている「意思疎通不可能な殺人鬼」なるものは、ほぼ実在しないと言って良い。にもかかわらず、あのような表象が「迫真」「鬼気迫る」などと評価され流通していく過程の中で、見てきたような私たちの幻想(ステレオタイプ)は強化され、偽の記憶が定着していくのである。

 ぼくはこのドラマを見ていない。なので、それに関する判断は控えるが、問題として取り上げたいのは、斎藤氏がこのドラマが欠番となったこと、つまり存在を抹消されたことをどのように考えているのかここに記されていないことである。

 斎藤氏がこのドラマを批判的に見るのは良い。それで、かれはこのドラマが欠番扱いされることについてどのように考えているのだろうか? 当然そうなるべきだと思っているのか? それとも過剰反応だと見なしているのか? どちらだろう?

斎藤さんの立場が気になる。

 ことさらにその点を問題視したいのは、斎藤氏はさらにこのようにも書いているからだ。

 そんなことまでうるさく言い出したら作品なんか作れない、という意見には賛同できない。映画に関して言えば、いまやほとんどの作品が精神障害者を含むマイノリティへの偏見描写抜きで魅力的な悪を描き、理不尽な暴力を描こうとしている。PC (Political Correctness 政治的正しさ)が過ぎればフィクションが貧しくなると言う説にもくみしない。例えば野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』には、実在した犯罪者などを下敷きにしつつ、現実にはありえないほど誇張されたキャラの変態的殺人鬼が何人も登場する。いわゆる伝奇的手法(ただし狭義の)というものだ。にもかかわらず、徹底した取材とゆきとどいた配慮によって、PCには1ミリも抵触することなしに、手に汗握る変態暴力宝探しを展開し続けている。

 なるほど。ここは正直にいおう。まったく納得いかない。

 この場合、問題は作家たちがポリティカル・コレクトネスに抵触することなく「魅力的な悪」や「理不尽な暴力」を描くことが可能かどうかではなく、ポリティカル・コレクトネスに抵触した(とみなされた)作品が抹消されるべきかどうかだからである。

 『ゴールデンカムイ』が「PCには1ミリも抵触することなしに、手に汗握る変態暴力宝探しを展開し続けている」のは良いだろう。

 しかし、だからといって『ルックバック』もまたそのような「PCには1ミリも抵触することな」い表現を採用するべきだ、ということにはならない。

 ごくあたりまえのことだが、「できる」ことと「やらなければならない」ことはまったく違う条件なのである。

 『ゴールデンカムイ』は「PCには1ミリも抵触することな」い表現だからありなのだ、良いのだ、というからには、斎藤氏は「PCに1ミリでも抵触したらその表現は抹消されてもしかたない」と考えているのだろうか。

 まさか、いくらなんでもそのようなことはないと信じたい。しかし、だからこそ、この点に関する斎藤氏の立場の曖昧さが気にかかるのである。

表現規制のリスクを避けた上で。

 斎藤氏はたしかに『ルックバック』を全否定してはいない。かれはこの作品を内容的には傑作だと評価しており、そのうえで「配慮」を求めているだけである。

 もういちど繰り返すが、私は『ルックバック』が傑作であることについて、少しも異論はない。ウェブ漫画という形態でこうした長編漫画が発表されることも含め画期的だと思う。私は本作の出版を、2021年の漫画史に刻まれるべき悦ばしい出来事として記憶にとどめたい。だからこそ、紙媒体での出版に際しては、アンチスティグマのための配慮を強く求めたいのである。

 そして、『ルックバック』は修正された。こうしてこの世から「ステレオタイプ」な表現がひとつ消え去り、世界はまたひとつ前に進んだのだろう、か? ぼくにはどうしてもそうは思えない。

 斎藤氏の「配慮を強く求めたい」という表現は、「ジャンプ+」編集部の表現と同じく、きわめて曖昧である。

 もし「このような表現は社会的に決して許されないものだから、変更するべきだ」と考えているのならそう書けば良いではないか。なぜ「配慮を求めたい」などという表現に留めるのか。

 また、斎藤氏は欧米におけるポリティカル・コレクトネスによる表現規制の例に触れているが、それに賛成しているのか? 反対しているのか?

 文脈を見る限り賛成だとは思うが、その一方で「さすがに「ジョーカー」については私ですら「言いがかり」と言いたくなるが」とも書いている。ポリティカル・コレクトネスが「言いがかり」となる可能性は認めているのである。

 もっとも、この文章は「真の意味でPCを実現するには、日本人には過敏とも映るほどの批評性が必要となるのかもしれない」と続く。

 しかし、「真の意味でのPC」とは何だろう? 結局、『ジョーカー』は消されるべきなのかどうなのか? 斎藤氏はどう考えているのだろう?

 この文章を読む限りでは、はっきりいってしまうなら、表現規制派とみなされるリスクを避けた上で問題がある(と、斎藤氏が考える)表現を抹殺しようとしているとも考えられる。

スティグマとは「ネガティブなステレオタイプ」。

 斎藤氏は書く。

 もちろん、本作を読んだだけで偏見が強化されるとまでは思わない。スティグマとは、常に集合的に形成される「ネガティブなステレオタイプ」のことなのだから。だからこそ、本作のような傑作がそれを強化するピースの一つになることは、なんとしても避けてほしいのだ。そのためには「そこに偏見がある」という強い主張がどうしても必要だった。

 もういちど繰り返すが、私は『ルックバック』が傑作であることについて、少しも異論はない。ウェブ漫画という形態でこうした長編漫画が発表されることも含め画期的だと思う。私は本作の出版を、2021年の漫画史に刻まれるべき悦ばしい出来事として記憶にとどめたい。だからこそ、紙媒体での出版に際しては、アンチスティグマのための配慮を強く求めたいのである。

 あえていこう。きわめて危険な論理である。なぜなら、斎藤氏は「もちろん、本作を読んだだけで偏見が強化されるとまでは思わない」にもかかわらず、それでも本作の表現を変更するべきだ、といっているのだから。

 いや、違う。間違えた。かれは「アンチスティグマのための配慮を強く求めたい」と書いただけで、消せ!とか、変えろ!とまではいっていないのだった。

 しかし、ぼくにはこれは実質的に『ルックバック』の表現を抹消ないし変更せよ、といっているようにしか読めない。他に読み方があるのなら教えてほしい。斎藤氏はたしかに上品な言葉遣いを選んではいるが、ようは「消せ!」、「変えろ!」ということではないか。

キズナアイも「ステレオタイプ」?

 くり返す。ポリティカルコレクトネスに反する「ネガティヴなステレオタイプ」の表現は、「アンチスティグマ」のために抹消されるべきである、あえてそのような表現を使わなくても表現は可能なのだから、というロジックはきわめて危険である。

 「表現の自由戦士」といわれる人たちなら憶えているだろう。数年前、これとまったく同じ論理を用いて「キズナアイ」というVtuberが批判されたことを。

 「炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える」という記事では、以下のように「ステレオタイプ」という言葉が繰り返されている。

遡ること19世紀の後半、日本が海外との本格的な外交、国際交流を開始した際、日本に来訪した海外の人々の滞在記や日本から流出した浮世絵から、華やかな衣装に身を包んだ接客業(今でいえば「おもてなし」)のプロとしての芸者や遊女の姿が、海外における日本女性のイメージとして知られるようになり、「フジヤマ・ゲイシャ」と言われる日本イメージのステレオタイプの形成に至る。

ゴッホやモネなどの絵画にも芸者や花魁の姿が描かれ、美術史上の「日本趣味」(ジャポニスム)として生産的な文化交流につながったのはよく知られている。

しかし、一方で、アジアの女性を美化するあまりに性的なまなざしの対象とし、脆弱な存在として欧米人よりも低い立場とする発想は、強い欧米と弱いアジアという「オリエンタリズム」の構図を示し、手放しで喜ぶわけにはゆかない。

現実に芸者として働く現代の日本女性たちにとっても、ことさらに「ゲイシャ」が性的なまなざしの対象になるのは不本意であろう。

日本のポピュラー・カルチャーで描かれる、“かわいい”女性像の海外への輸出は、日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながりかねないという点で、いわば21世紀の「オリエンタリズム」に陥る危険性がある。

炎上した「キズナアイ」問題…日本文化が描いてきた女性像から考える(佐伯 順子) @gendai_biz
マンガ、アニメが描く女性の姿は、それ自体で自立している存在で、現実の女性の反映ではない、だから女性差別というのはおかしい――パリで漫画に関する国際学会が開催された際、総括討論で一部の参加者からこうした立場が表明された。

 ここで展開されている論理は、本質的に斎藤氏が『ルックバック』を批判した理屈と同質のものである。

 ここでも斎藤氏がそうしたのと同じくあいまいな表現が採用されている。

 「日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながり「かねない」」とか、「いわば21世紀の「オリエンタリズム」に陥る「危険性がある」」といった書き方である。

 そして、この文章はさらに続く。

「キズナアイ」への批判については、女性研究者が“萌えキャラクター”を撲滅しようとしている、との反発がみられるが、「キズナアイ」への疑問は決して、“かわいいアイドル”をめでる権利を侵害することを意味しない。

“かわいい女子”キャラクターを趣味として好むこと自体は、個人の自由であり、それで一定の経済効果があることも事実である。本稿ももちろん、“萌えキャラクター”を好むファンの権利を侵害することを意図するものではない。

しかし、キャラクターが個人の趣味を超えて公的に、かつ、必ずしも適切とは思われない場面で起用されることには、メディア上の女性表現を考える上では議論の必要がある。

 つまり、決して表現を規制せよなどとはいわない、ただこういう表現をこのような場で使うことはいかがなものですかね、というわけだ。

斎藤氏はどのように考えているのか?

 斎藤氏は、このような主張に賛成するだろうか。もし、あくまで「ネガティヴなステレオタイプ」による「アンチスティグマ」を求めるのなら、賛成してもおかしくないはずだ。

 この記事のなかで佐伯氏が書いていることもまた、そのような「ステレオタイプ」は好ましくないということなのだから。

 もちろん、佐伯氏も斎藤氏も社会的地位のあるまっとうな大人だから、そこらの「パヨク」や「ネトウヨ」のような下品な言葉遣いはしない。決して消せとはいわないのである。

 ただ、表現の抹消を匂わせるだけだ。そして、膨大なまっとうではない大人たち、あるいは子供たちがこのような暗黙の指示に従って下品な言葉をまき散らすというわけだ。

 ぼくたちはなんという高度で繊細な文明社会に住んでいることだろう!

 もし、この表現が斎藤氏に対する不当な誹謗なのだとしたら、斎藤氏にはそのような意図はないことを明確に語ってほしいものだ。

 もしそうなったら、ぼくは素直に謝ろうと思う。が、とにかくぼくは頭が良くないので、斎藤氏のレトリックがよく理解できない。

 斎藤氏は『ルックバック』が「常に集合的に形成される「ネガティブなステレオタイプ」」であるスティグマの一ピースとなることは問題である、だから修正しろ、と暗にいっている(ようにぼくには見える)。

 それは佐伯氏が「日本のポピュラー・カルチャーで描かれる、“かわいい”女性像の海外への輸出は、日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながりかねない」ことは問題である、だから修正しろ、と暗に述べているのとまったく同じではないだろうか。

あいまいな言葉を使うのをやめてほしい。

 ここで展開されているのは、「その表現自体が偏見を生むとは思わないが、こういう表現を野放しにしていると、それが人々の頭のなかで何となく広がる偏見の一部を成すかもしれない」といった、きわめてあいまいな批判である。

 キズナアイの例を見てもわかるように、この種の批判はどこまででも拡大することができる。それはまた、それこそ、斎藤氏が映画『ジョーカー』に対する「言いがかり」に言及していることからもはっきりしているだろう。

 だから、どこかで線を引く必要がある。斎藤氏にはぜひ線を引いてもらいたい。『ルックバック』はセーフなのか? アウトなのか? キズナアイはオーケーなのか? それともキズナアイもまた集合的に形成される「ネガティブなステレオタイプ」だからダメなのか?

 ぼくはキズナアイがそうだとはさらさら思わないが、純粋に論理的には「彼女」は女性たちにスティグマを育むような悪しきステレオタイプであるというロジックも十分に成り立つはずだ。じっさい、そう主張している人もたくさんいる。

 ぼくはひとりの精神障害者ではあるが、そのような理由による表現の抹殺を望まない。まったく望まない。

 斎藤氏はどうなのだろう? スティグマを形づくる「ネガティヴなステレオタイプ」は「悪い表現」だから消されてもしかたないと思っているのか、違うのか。

 この記事がかれのところまで届くことはないだろうけれど、『ルックバック』が修正されたことをどう捉えているのか、可能ならはっきりさせてほしいものである。

『ちびくろサンボ』という先例。

 ぼくが「ステレオタイプ」という言葉で思い出す「差別問題」がもうひとつある。『ちびくろサンボ』問題である。

 この問題において、「ちびくろサンボ」とその家族は、黒人をカリカチュアした悪しきステレオタイプとして攻撃されたのだった。

 そして、今回の『ルックバック』の件よりさらに速く、わずか数日で絶版となった。出版社は(かの岩波書店である)、「臭いものにふた」をして事態をごまかすことを選んだのだ。

 「ちびくろサンボ」が「悪しき、ネガティヴなステレオタイプ」にあたるかどうかは当時から議論がある。ここでそのすべてを語ることはできないから深くは触れないが、個人的には少なくともそのような対応はなんら問題を進展させないものだと感じる。

 このようなことが続いていけば、たしかに「PCに1ミリも抵触しない」作品が増えていくことだろう。佐伯氏や斎藤氏から見れば、それは表現の成熟なのかもしれない。

 しかし、それでは問題は「精神障害者とみなされるかもしれない表現は、たとえはっきりとそう描写しなかったとしても難癖をつけられる可能性があるから、とにかくそういう表現は徹底して避けることにしよう」という方向にしか進まないことだろう。

 ぼくは斎藤氏から見れば「書いてもいないことについて文句をつけている」ように映るかもしれない。しかし、それは『ルックバック』の作家もそうではないだろうか。

 書いた/描いたことにはたしかに責任が発生する。しかし、それは単にその表現を消したり直したりすればそれで済むということではないはずだ。せめて、この問題が表現の是非を考える際の一助となるよう祈念するばかりである。

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