なぜ、ひとは「あやしげな宗教」に惹かれるのか?
時に考えることなのですが、ひとはなぜ怪しくうさん臭い「教え」や「宗教」に惹かれるのでしょうか?
もちろん、大半の人はそういうわけのわからない「カルト宗教」を無視してあたりまえの生活を送っているわけですが、一方でどれほど科学と文明が進歩してもその手の集団はなくならない。
そしてまた、どうしようもなくそういう集団に取り込まれていく人も一定数いるわけです。それはいったいなぜなのか。その心理にぼくはとても興味があります。
そういう「カルト」に入ってしまう人はそもそも愚かなのだ、聡明な人間は決してそういうものには惹かれない、とくくってしまうなら簡単なのですが、現実はそこまでシンプルではないでしょう。
かつて、オウム真理教が「地下鉄サリン事件」を起こし、世間の耳目を集めたとき、その団体に属している人物の多くが一流大学を出たエリート層だったことがあきらかになりました。
べつだん、学力と知性はイコールではないにせよ、決して単純に「カルト」にはまる人間は愚物だとはいえないわけです。むしろ、この不条理で理不尽な現世で、何らかの「救い」を求めることはごく普通の心理だといっても良いかもしれません。
問題は、その心理の受け皿がインチキ宗教や偏った思想の団体しかないという現状にあるのかも。そういうふうにも思います。
「聖なる天蓋」といわれるような既存宗教が力を失ったいま、多くの人が「迷い」のただなかに放り出されているのだと感じます。
カルトの魅力とは「正しさへの依存」。
「カルト宗教」について興味を抱き、いろいろと本を調べてみたのですが、そのなかでも最も面白かったものに、瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』があります。


これがじつに素晴らしい一冊で、のめり込んで読みました。タイトルからわかる通り、著者はいわゆる「カルト宗教」からの脱会を手掛ける専門家です。
と、このように書くと、いかにも「正しく」「強い」信念を持った人が思い浮かぶところですが、実際のかれの人物像はその正反対。そもそもかれじしんがかつて「カルト宗教」に近いある団体に所属していた身であり、その経験を活かしていまは「脱会」に助力しているのです。
それも、「脱会」こそが正しいことなのだと固く信じているわけではなく、本人もまた「迷い」のなかにいます。
かれによれば、何らかの「カルト」に入り、「絶対的な教え」に帰依することは「正しさへの依存」なのであって、そこから脱会することは決して「ほんとうの正しさを知る」ことなどではなく、むしろ「迷いのなかに戻る」ことに他ならないのです。
これはぼくとしてはきわめて斬新に感じられる発想でした。
カルト宗教は信者なり会員に何らかの「絶対的な正しさ」を提供します。それは、すべてが相対的になり、「正しさ」を見失っているようにも見える現代社会においてきわめて得がたい「救い」である、ようにも見えます。だからこそ、信者はその「正しさ」に依存するのです。
現代世俗社会が「正しい」わけではない。
とはいえ、その「救い」はほとんどの場合はニセモノであり、ただひたすらに搾取と盲信がくり返されるだけに終わってしまうことはいうまでもありません。
カルトが提供する「救い」とは、どこまでいっても社会的に「まっとう」なものではありえないのです。いや、信者にとってはそれは「絶対的にまっとう」なものなのでしょうが……。
もっとも、そのようなカルトが何らかの意味で「異常」で「奇妙」なものであるとしても、だからといってぼくたちの世俗社会のほうが「まとも」で「まっとう」かというと、必ずしもそうとはいえません。
もちろん、ぼくたちの社会は何千年にわたる歴史の末に作り上げられたそれなりに洗練されたかたちのものであるわけで、そこで展開している「倫理」や「法律」はそれなりに尊重するに値するでしょう。
しかし、見方を変えるなら、ぼくたちの社会はかぎりない「不正」や「偽善」の温床でしかありません。
たしかに物質的には大きく発展し、「快楽」と「享楽」を満たすことはできるようになったかもしれませんが、「そのようなものでは満足できない」と考える人にとっては、どうしても「救い」を見いだすことができない時代でもあるのです。
そして、そういう人たちがカルトに引き寄せられていく。「快楽」とも「享楽」とも違う「真理」、つまり「絶対的で普遍的な正しさ」を求めて。
快楽主義を「むなしい」と感じたら。
おそらく、世の中の大半の人はそういう「人生の意味」だの「絶対の真理」といった概念に興味を示さないでしょう。じっさい、そういうことについて考えなくても生きていくことはできる。
まして、現代社会は豊穣な快楽社会です。「生きる苦しみ」を忘れさせるための麻酔薬のような娯楽には事欠かない。だから、ほとんどの人たちはそういう「享楽的な娯楽」、あるいはアルコール、あるいはギャンブル、あるいはセックスといった刺激で満たされて生きていくことができます。
「いったい何のために生まれて来たのか?」という疑問が浮かぶことはあっても、多くの場合、すぐにかき消えて忘れ去ってしまうことでしょう。
この社会においてはそういう疑問は未熟で青くさい考えに過ぎないとされ、ただより物質的な満足を追求することが「成長」であるとみなされているわけです。
しかし、当然といえば当然ながら、そのような社会の形式に満たされない人もまたいる。いったんすべての「快楽」を「むなしく儚い、一時の夢」に過ぎないと感じてしまったら、もうそのような「麻酔社会」のなかで生きていくことはできません。
そういう人はこの社会でどうにも満たされない「真理への飢え」を満たそうと「カルト」へ入っていってしまうのです。
そして、そこで初めて「絶対的な正しさ」を発見し、それに「依存」することになる。それはある意味で、とてもラクな生き方には違いありません。そこにもう「迷い」はないのですから。
相対的な価値のなかでバランスを取る。
森岡正博に『宗教なき時代を生きるために』という本があります。そこではオウムによる地下鉄サリン事件の後に書かれたもので、「宗教的なるもの」を求めながら宗教を信仰することができない著者の悩みが赤裸々に綴られています。


どうしても「真理」を求めることはやめられない。しかし、既存の宗教や思想に満たされることはできない。そんな葛藤。「最も悪質なカルト」であるオウム真理教的なるものを乗り越えるための方法論が語られます。
しかし、オウムが「絶対的な正しさへの帰依」を前提とした団体であった以上、「異なる正しさ」への依存は特効薬にはならない。どうしてもこの価値相対的な社会で「迷い、悩みながら生きていく」ことを肯定せざるを得ないことになります。
つまり、そもそも「何らかの絶対的な正しさへの帰依、依存」こそが問題なのですから、それに対抗するためには「絶対的な正しさ」を信じることなく、さまざまな相対的な価値のなかでバランスを取っていく生き方しかないわけです。
これは辛いことです。いっそ「すべては相対的なのだから、何もかも無意味なのだ」というニヒリズムに陥ってしまえばそれはそれでラクかもしれませんが、それもまたひとつの逃避に過ぎないでしょう。
「相対的な価値しかない」ということは「無意味である」ということとは微妙に、しかし決定的に違っているわけです。
ネガティブ・ケイパビリティという「迷う力」。
現代社会がすべての価値観が相対化され、「絶対的な指標」が失われた社会である以上、「絶対的な正しさ」を教えると標榜する「カルト」はいわば当然の副産物ともいえます。
そして、そこから抜け出すということは「ふたたび相対的な迷いのなかに戻る」ことを意味しています。そこでは、むしろ「迷う力」こそが必要とされることでしょう。
それを心理学では「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼びます。
もともとは夭折した天才詩人キーツ(ダン・シモンズのSF超大作『ハイペリオン四部作』の元ネタを書いた人)が手紙に残した言葉なのですが、「性急に答えを求めることなく、迷いや不思議のなかで考えつづける力」を意味しています。
すべてが相対化された現代社会といいましたが、むしろそうであるからこそ、「絶対的なるもの」を性急に求める心理は強くなる一方だと思います。
インターネットにも「自分の考えは絶対的に正しい」と捉え、その「正しさ」を振りかざす人は無数にいるでしょう。しかし、いま必要なものは、すぐに「正しい答え」に飛びつかず、迷い、悩みつづける苦しい状況に耐える力だと思うのです。
そのような「ネガティブ・ケイパビリティ」を保つことは決して容易なことではありません。「絶対的な正しさ」に帰依してしまったほうがよほどラクには違いない。それでも、いまこそ「迷う力」が必要なのだとぼくは考えます。
オープンチャットを作りました。
人は何らかの「正しさ」や「答え」を見いだして、そこに依存すればラクになれる。それは事実です。しかし、その先にあるものは結局はオウム真理教だったりするわけです。
それならば、いま必要なこととは「それとはべつの正しさ」などではなく、むしろ「力強く迷う」力なのではないか。ぼくはそういうふうに考えたわけです。
ここでいう「正しさ」とは単にカルト宗教だけに留まりません。左翼/右翼団体であったりすることもあるし、あるいはフェミニズムとかアンチ・フェミニズムであったりすることもありえるでしょう。
そういった「正しさ」を信じ込むことは簡単だし、一方ですべての正しさを否定するなら「冷笑系」の虚無主義に陥るでしょう。
そのいずれでもなく、この世に「絶対的正しい価値観」などありえないと知りながら、それでも「少しでも正しいほうへ」進もうと努力しつづけること。ネガティブ・ケイパビリティ。それがいま必要な「力」なのです。
そこで、ぼくは何らかの「宗教的なるもの」を求める人のひとつの受け皿として、「哲学宗教サークル〈Something Orange〉」というLINEオープンチャットを作りました。
これは決して新しいカルト的な団体を作りたいということではなく、むしろ「宗教的なるもの」を求めながら安易に「答え」に飛びつかないよう、「ともに迷い、悩む」場所を用意したということです。
あるいはこれ自体がいかにもうさん臭いかもしれませんが、入退会は自由であり、束縛はありません。特定団体への勧誘も禁止しています。何か「宗教的なるもの」、「哲学的なるもの」をお求めの方は良ければご参加ください。今後も参加者を求めつづけるつもりです。よろしくお願いします。
・オープンチャット「哲学宗教サークル〈Something Orange〉」

筆者のプロフィール
海燕(@kaien)。
1978年7月30日生まれ。生まれながらの陰キャにして活字中毒。成長するとともに重いコミュニケーション障害をわずらい、暗黒の学生時代を過ごしたのち、ひきこもり生活に入るも、ブロガーとして覚醒。はてなダイアリーで〈Something Orange〉を開始する。
そののち、ニコニコチャンネルにて数百人の有料会員を集めるなど活動を続け、現在はWordpressで月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員でもある。
Twitter、YouTubeなどのほか、複数のLINEオープンチャットの運営もしているので、ご自由にご参加ください。