「萌え絵」と「グローバルな倫理規範」。
作家・批評坂の東浩紀さんの「「温泉むすめ『萌え絵』騒動にグローバルな倫理規範との整合性を考える」」という記事が話題を呼んでいる。

先日、炎上騒動が起きた(というか、無理やり炎上させられた)「温泉むすめ」の騒動をまとめたもので、特に独創的な内容ではない。ただ、問題があるといわれているのは以下の箇所である。
解決は悩ましい。萌え絵は日本発の表現技法で、いまでは広く社会に溶け込んでいる。国外でも受容されている。けれども起源の一部はポルノメディアにあり、性的喚起力に長(た)けていることも確か。人間の想像力は豊かだから、性器を描かなければ大丈夫という単純な話にはならない。どこまでが「かわいい」でどこからが「エロい」かは、最終的には個人の感性で判断するほかない。
だからこそ逆に、表現者や企画者は自己チェックを繊細に行う必要がある。そのうえでさらに難しいのは、基準もまたすぐ移り変わること。温泉むすめが始まってからの5年で、日本社会のジェンダー規範は大きく変わった。「夜這い」も当時は問題視されなかったかもしれないが、だからこそ今回の騒動は起きた。温泉むすめの運営に、変化への配慮が欠けていたのは間違いない。
しばしば言われるように、日本社会は伝統文化を含め性に寛容である。それは弱点でもあり長所でもある。グローバルな倫理規範とどう整合性を取るか、今後も似た騒動は起こり続けるだろう。
東浩紀の主張に曰く。
ご覧の通り、「萌え絵」表現を問題視しているとも受け取れる内容であり、反表現規制派、いわゆる「表現の自由戦士」の側から大きな反発を招いているようだ。
はっきりいってしまえばたいして内容がある記事でもないのだが、反表現規制派が数々の事件を通して敏感になっていることも背景にあるのかもしれない。
まあ、その気持ちはわかる。「最終的には個人の感性で判断するほかない」、「基準もまたすぐ移り変わる」と書く一方で、「だからこそ逆に、表現者や企画者は自己チェックを繊細に行う必要がある」とする内容には、相当に好意的に読んでも、大きな無理があるように思える。
まったく明確な基準が存在せず、不明確な基準もどきすらもどんどん変わっていく、そのような規範に合わせていくことは「むずかしい」というレベルではなく、「不可能」なのではないか。
さらにいうなら「グローバルな倫理規範」とは何か。そのようなものがほんとうに存在するのか。
たとえばアメリカと中国とサウジアラビアでそれぞれ「倫理規範」が大きく異なることは自明ではないか。
また、仮にそういったものが実在するとして、日本がそれに盲従しなければならない理由はあるのか。
日本は日本で独自のモラルを持っていてもかまわない、否、むしろそうしていくべきではないか。
と、さまざまな疑問が浮かんでくる記事ではある。
が、今回はそのような点は省き、「萌え」と「エロ」という点に絞って話を進めよう。
「萌え」と「尊い」の違いとは?
「萌える」という言葉の語源には諸説あるが、そもそも最近はもう使われなくなっている単語である。
この頃はすっかり「尊い」といういい方にシフトしていて、「萌え絵」といったいい方も、ほとんど批判的な意味合いでしか使われなくなっている。
というのも、ここら辺の感覚は非常に微妙なものがあり、それこそ主観でしか語ることができないものの、「萌える」という言葉遣いにはやや自嘲的なニュアンスがあるのに対し、「尊い」にはそれがないという違いがあるのだ。
そしてまた「萌え」という言葉には、性的なニュアンスがわずかであれ含まれていたと思う。
エロティックなイラストを指して「萌える」ということはありえるが、「尊い」ということはありえない、といった差があるわけである。
「萌え」から「尊い」へ。それは何を意味しているのか。
「萌え」のなかに「かわいいものを愛でる」という意味がより純化され、エロティシズムと分離されて「尊い」になっているということである。
エロティックな側面をいっさい抜きにして現在のオタク文化を語ることはできないが(それは、オタク文化を擁護しようとするひとでも認めざるを得ないだろう)、しかし、ここに来て、「かわいい」と「エロい」は分けられつつある。
逆にいえば、もともとはもう少しその区分はあいまいで、それほど分けられていなかったのかもしれない。
結局、「萌え絵」は「エロい」のか?
何か「萌え絵」が炎上するたび、それが「エロいのかどうか」が問題になる。
批判側は細部のしわだの表情だのを取り上げて「どう見てもエロティックだ」と主張し、擁護側は「幻覚でも見えているのか?」とやり返す。
ぼくも表現を擁護する立場に立つのだが、こうまでくり返し指弾されると、「いったい批判する人たちには何が見えているのだろうか」ということが気になって来る。
キュートで愛らしい「萌え絵」のどこにそれほどの問題点があるというのか。東の語るように、「萌え絵の起源」が問題なのだろうか。
かれによる萌え絵の「起源の一部はポルノメディアにあり、性的喚起力に長(た)けていることも確か」というこの指摘にはいくつも非難が浴びせられている。
これらの批判はおおむね正しいとぼくも思う。
もっとも、じっさいには萌え絵のオリジンがどこにあるのか、と決定することはむずかしいものの、この絵柄がポルノメディアと密接に関連していることは客観的な事実だ。
だから規制されてしかるべきだというのではない。
ただ、「萌え絵」とポルノ性を完全に切り離して考えるのも無理があると思うのである。
このように、ポルノが萌え絵を取り入れたのか、それともそもそも萌え絵の起源はポルノにあるのか、という議論はありえるだろうが、あまり生産的な話になりそうにない。
そのいずれであろうと、萌え絵を倫理的に批判することはできないとは思うのだが。
それはあくまでひとつの「絵柄」に過ぎないのだから。
男の少女趣味は「気持ち悪い」?
ある絵柄がポルノメディアに使用されているからといって、それを規制するべきだという論調はあまりにも愚かしい。
たしかに、それをいうなら映画だってポルノ映画があるし、文学史と性表現は切り離せないではないか、といいたくなる。
ただ、あくまで冷静に考えるなら、「萌え絵」が一部に際立って嫌悪される理由は、東のいう「かわいい」と「エロい」が密接に関わっているところにあるのではないだろうか。
「かわいい」絵柄で性欲を喚起することが、どうしようもなく小児性愛を連想させ、嫌悪と反発につながっているのだと思う。
これがくりかえしくりかえし「萌え絵」が批判される決定的な理由だ。
萌え絵文化と小児性愛は、まったく無関係とはとてもいえないにせよ、そこまで直接につながっているわけではない。
しかし、批判する側にしてみれば、オタクたちの少女趣味は、やはりなんといっても「気持ち悪い」ものなのだろう。
オタク側からすれば、「それはあなたの「お気持ち」に過ぎないだろう」といいたくなってしまう。
ただ、この「お気持ち」がかなり広い範囲で共有されていることもたしかだ。
東の「グローバルな倫理規範」といったものに対する疑義はすでに投げかけた。
しかし、ひとりのオタクとして、この絵柄の小児性愛的な「印象」が、そうとうに広範に訴えかける可能性は無視できない。
感情論は理屈以前の問題であるだけに始末に悪い。場合によってはどんなにロジカルに反駁しようと、有無をいわせず規制されてしまうかもしれない。
「萌え」と「エロ」は分離できるか?
ぼくとしてはそういった未来は何としても阻止したいのだが、さて、それではどのような対抗戦術が有効であろうか。
ひとつには、あくまで「萌え」と「エロ」はべつものだと主張しつづけることが考えられる。
すでに「萌え」と「エロ」が本質的に異なる文脈の言葉であることを解説した優れた記事がある。
誰もが経験したことはあるのではないか。猫の異様にかわいい仕草をみてしまったとき、犬のつぶらな瞳に見つめられたとき、子供の無邪気な姿を目の当たりにしたとき、壁に頭を打ち付けたくなるような激しい情動を覚えたことはあるのではないか。
そう、それが「萌え」である。
この言葉は男性オタクたちによって生み出されたようだが、すぐに女性オタクたちにも波及していく。今では「萌え」という言い方はだいぶ下火になり、「尊い」「まって」「無理」などの言い方がされることが多いように見受けられる。激しい情動に駆られて身も心もついていけない感覚が伝わってくる。まさに「ほとばしる熱いパトス」なのである。

わかる人にはわかることだろう。
「かわいい」ものがもつ魔性の魅力。繊細で、純粋で、痛々しいほど無垢なものだけが放つことができる、ある種の「オーラ」。
そのようなものを感知することこそが「萌え」なのである。
それは性欲とまったく無縁とはいえないにしろ、本質的には異なる感情なのだとぼくも思う(ただ、この点はさらなる精査が必要だろう)。
「男らしくない」男たちの姿を分析する。
ただ、この主張を認めるとしても、同じような絵柄で「萌え(現代では「尊い」とか「てえてえ」とか)」と「エロ」が追及されつづけていることはたしかなので、あるいは「萌え」と「エロ」を完全に分離して語ることは説得的ではないかもしれない。
もうひとつは「エロで何が悪い」と主張していくことだが、これも「萌え絵」のペドファイル的な印象が前提にある以上、対立者を十全に説得し切れないようにも思える。
いうまでもなく、あまりに激烈な論理を展開する人を説得する必要はないのだが、中立の立場にいる人に対しては「萌え絵」がどのようなものなのか明快に説明していく必要がある。
そのために必要なのは、上記の記事でいう、オタクたちの「少女趣味」と性のありかたを分析し、分解していくことでありそうだ。
これは、現代の男性論の課題になるように思う。
それは、男性たちに「男らしさから降りる」ことをすすめながら、オタクたちの少女趣味には眉をひそめるフェミニズムを批判することにつながっていくだろう。
あの上野千鶴子を初めとして、多くのフェミニストは、いい歳をしてちっとも「男らしくない」オタクに対する嫌悪感を隠そうともしない。
また、多くの男性論の論者も、そういったオタクを「大人になれない」とか「きちんと女性に向き合うことができない」として批判的に見ている。
しかし、ほんとうにそうなのか。いかにも小児性愛的に見えるオタクたちの真の欲望とは何なのか。この点を、ぼくは解析してみたいと思う。
何か思わぬものが、そこからあふれ出してくるようにも思うのである。