2021年秋アニメの期待作『無職転生』。
今季のアニメがひと通り始まったようだ。
ぼくが楽しみにしていた『無職転生 -異世界行ったら本気だす-』第二期もすでに放送開始している。
そのクオリティはいままでにもまして素晴らしく、「異世界転生アニメ」の総決算といった印象すらある。
じっさいには『無職』は異世界転生ものとしてはわりあい初期の作品なのだが、よくいわれるように、アニメ化が遅れたことによって、いままでの作品での成功と失敗のノウハウを吸収することができ、品質が上がっているのかもしれない。
とにかく原作の一ファンとしては「小説家になろう」発のアニメとしては空前といっていいレベルでアニメを見れることはありがたいとしかいいようがない。
こうなってくると長大な原作のどこまで映像化されるかが気になるところだが、予告編を見る限りいわゆる「ターニングポイント2」までは行くようだ。
楽しみ、楽しみ。
もちろん、ここまで高度に原作の内容を理解し取捨選択して映像化した作品となると、視聴者の感想も上々のようである。
しかし、そういった絶賛の声に混じって、「気持ち悪い」、「生々しすぎる」といった意見も出て来てはいるようでもある。
当然といえば、当然のことではあるだろう。何しろ主人公の前世は、ひきこもりにして盗撮魔のヘンタイ野郎である。
好意的な感想ばかりだったらそのほうがおかしい。
そういったネガティヴな感想が出てくるのは、おそらく制作スタッフも覚悟の上であるはずだ。
「気持ち悪い」ところは『無職転生』の本質。
しかし、『無職』にとって、その「気持ち悪い」ところは最も本質的なポイントであり、決して避けて通ってはならない重要な箇所なのだ。
もし、前世の「気持ち悪さ」をどこかでごまかしてしまったなら、この物語のテーマもまた必然的にぼやけてしまうことだろう。
なぜなら『無職』の面白さは、これほど絶望的に「ダメ」な人間でも変わることができる、生き直すことができるというその主題の深さにこそあるからだ。
「なろう」では、しばしば絶望の底から復活する主人公が描写されることがあるが、『無職』はまさにその代表格といえる。
アニメでは、その「前世の男」と今生の「ルーデウス」の心理が交錯するように描写されているところが、まさに秀逸な演出である。
「異世界行ったら本気だす」というサブタイトルも一見すると冗談のようだが、しだいにその意味は重くひびくようになっていく。
「本気」という言葉は、この物語のひとつのキーワードなのだ。
原作小説はかなり冗長だが、アニメは適切にエピソードを切り取りつつテンポ良く進んでいく。
しかし、原作のある種の「生々しさ」はわりにそのままに残されていて、その部分で逃げないというスタッフの意図を感じ取ることができる。
そこをもっとソフトな描写にしたらより広範な視聴者を獲得することができるかもしれないが、それはもう『無職』ではなくなっているに違いない。
よくも悪くも『無職』とはそういう作品だ。
中国での炎上案件。
ご存知のかたも多いかもしれないが、『無職』のこの「気持ち悪さ」を巡って、中国では炎上騒動が起こっている。
問題となったのは2月1日放送の第4話。父親の不倫シーンなどがあったことから既に波紋を呼んでいたが、アニメレビュアーとして活躍する中国の有力インフルエンサー・LexBurner氏が猛批判を加え、「そもそも(ニートの主人公に)共感できない」などと発言したことで一気に炎上。約900万人のフォロワーを持つ同氏の影響力は大きく、bilibili動画に抗議が殺到したばかりか、スポンサー企業に対するクレームも広がった。
また、主人公が女性の使用済み下着を盗むなどの劇中の描写に対し、「女性を軽蔑している」と視聴者の批判が殺到し、生理用品ブランド「ソフィ」を扱うユニ・チャームなど、複数の企業が「女性に対する侮辱的な行為や発言は見逃せない」として、bilibili動画の旧正月キャンペーンの広告出稿の取り止めを発表した。一連の騒動を受けてbilibili動画は、「技術的な理由」があったとして『無職転生』の配信を中止し、コミュニティのルールに違反したとしてLexBurner氏のアカウントも閉鎖する処分に踏み切っている。

ぼくとしては、このような理不尽な意見がまかり通ることが(すくなくともいまはまだ)ない日本の状況を喜ぶばかりだ。
はしから「気持ち悪い」要素を排除していったなら、日本のアニメは実質的に壊滅してしまうはずである。
『無職転生』と「気持ち悪い」という問題。
ただ、「気持ち悪さ」とは「なろう」を含むオタク文化にとって本質的な問題だ。
この言葉から、『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版でヒロインのアスカがもらすひと言を思いだす人もいるだろう。
あるいは、いまとなってはオタク的な文化にいちいち「気持ち悪さ」を見いださずにいられないのはすでに古い感覚であるのかもしれない。
だが、今日なお、アニメやマンガから「気持ち悪さ」を取り除くことはできない。
決して「カッコ良く」、「可愛い」だけのカルチャーにはなり切らないところがオタク文化の中心的な部分なのである。
当然、この「気持ち悪さ」を嫌忌する人は少なくない。
最近のフェミニストと表現規制の問題にしても、どううまく論理武装を試みていようと、結局はその「気持ち悪さ」を受け入れられないことに尽きるのではないか。
もちろん、『無職』の「気持ち悪い」ところは「前世の男」の描写だけではない。
ルーデウスの父親であるパウロの不倫なども、「女性軽視」とみなされるところではあるだろう。
このことにかぎらず、『無職』には性的な要素があふれている。それも、相当にヘンタイ的、倒錯的な形で。
こういった要素がポリティカル・コレクトネスに反すると見る人もこといるだろう。
だが、これは見方を変えればあたりまえのことでもある。
そもそも、いまの目で見て異常、倒錯、変質、そういった性的要素は歴史的に見てありふれていた。
人類は、あるいは男性は、いつの時代も変わらず好色だったのだから。
オタク的欲望は人類史的展望のなかで相対化される。
『無職』を見ていて面白いのは、「オタク的」とされるようなヘンタイ欲求の数々が、じっさいには歴史的に見ればじつに無害な欲望に過ぎないことがわかることである。
オタクたちがどれほど異常な性的欲求を持っているとしても、それは実践されないかぎり完全に安全である。
それにくらべて、『無職』の世界でじっさいに性的乱行に耽っている人々の行為は遥かに生々しい。
ルーデウスの下着泥棒くらいはこの世界では大したことではないのである。
つまり、ここでは「オタク的」な欲求が相対化されているわけだ。
もちろん、そういった描写そのものを問題であると見ることは可能だろう。
だが、人間の性的欲求とは、男性であれ女性であれ、どうしてもそういうポリティカル・コレクトネスに収まり切らない「お行儀の悪さ」を持つものなのだと思う。
それを制御し切れずに犯罪に至ることは論外だが、だからといって欲望そのものを消し去れるわけでもない。
つまりは人間という存在そのものが、だれかが後知恵で考えた「正しさ」に綺麗に嵌まるようなものではないということである。
『無職』という作品の面白さは、そういったある種リアルで生々しい野心と欲望の世界に、現代社会的な感覚を大いに残した主人公を放り込んでいるところにもある。
このアニメの主人公の「気持ち悪さ」は、人類の性の歴史そのものの「気持ち悪さ」のなかで、どこまでもどこまでも、相対化されていくのである。
・参考記事





(看板娘)
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