パウロの過ちとルーデウスの赦し。
アニメ版『無職転生 -異世界行ったら本気出す-』がひじょうに面白いです。
ストーリーそのものはほぼ原作をなぞっているのですが、やたら映像の出来が良く、一本のアニメーションとしてクオリティが高い。
いまのところ、第二シーズンを放送していて、とりあえずそこでひと区切りがつく模様ですが、おそらく第三シーズン、第四シーズンと続編が作られていくのではないでしょうか。
そのくらい素晴らしい出来だし、ぜひそうなってほしいと思います。
傑作。
さて、今回、話題として取り上げたいのは、この『無職転生』の主人公ルーデウスと父であるパウロの「親子げんか」のエピソードです。
これは「小説家になろう」で原作小説がこの部分までたどり着いたとき、大きな話題と反響を呼び、一気に人気を押し上げた伝説的な回です。
「俺だって! 一生懸命やってきたんだ!」
殴った。
殴った。
殴った。
パウロは歯を食いしばり、憎々しげな顔を俺に向けてくる。
くそっ。
なんだよその眼は。
なんでそんな顔されなきゃいけないんだよ。
「仕方ないだろ!
何もしらない場所で!
誰も知っている人がいなくて!
それでなんとかここまできたんだ!
なんで責められなきゃいけないんだよ!」
「……てめぇなら、もっとうまく出来ただろうが!」
「できねぇよ!」
それから、俺は無言で何度もパウロを殴った。
パウロは何もいわない、ただ口の端から血を流し、
俺を見ているだけだ。
苛立たしそうに。
話の通じない奴を見るように。
なんでだ。
こんな顔する奴じゃなかったはずだろ……。
くっそ……。
くそ。

なぞの事故により遠方へ飛ばされ、ようやく故郷へ帰還したルーデウスは父であるパウロと再会することになるのですが、その際、誤解が誤解を生み、かれと大げんかをしてしまいます。
「息子」でありながら精神年齢的には父より年上であるルーデウスと、優秀すぎるルーデウスに内心でコンプレックスを抱いているパウロという、きわめて複雑に入り組んだ関係が解きほぐされ、あたりまえの「親子」として再構築されるというおはなし。
しかし――ぼくは時々思うのですが、そもそもなぜ、ルーデウスはパウロの扱いを赦せたのでしょうか?
他人を赦すことはむずかしいものです。ふつう、自分に責任がないことでののしられたりしたら、二度と赦せない、少なくとも大きなしこりが残るものではないでしょうか。
それが、ルーデウスはわりと自然にパウロと仲直りできてしまう。ここが不思議なのですね。
ルーデウスは特別な人間ではない。
ぼくはそれはルーデウスの「器量」なり「度量」が大きかった、ということではないと思っているのです。
ルーデウスはいくらか才気はあるものの、良くも悪くもふつうの人間で、とくべつ器量が大きいわけではありません。
それなのにかれはじっさいにパウロの過ちを赦し、と和解できた。そこにはどのような背景があるのでしょうか。
おそらく、「前世」で一度、大失敗しているという経験の意味が大きいであろうと考えます。
かれは「前世」でこういうルートをたどると人間はダメになるということがわかっていて、その轍を踏まずに生きていこうとしているのだけれど、それでもどうしても失敗してしまうことはある。
でも、そのとき、どうにかリカバーする。
そう、人間、どんなに慎重に生きていても一切失敗しないようにすることはむずかしい。
どうしても、どこかでしくじる。だから、そこからどうリカバーするかが大切なのだけれど、そもそもリカバーの大切さを切実にわかっていないとそれもできない。
人と人がどんなに簡単に仲違いして二度と修復できなくなるか、心の底からわかっていないと、いったん破綻した人間関係を修復しようというモチベーションが湧いてこないと思うのです。
人を赦すまえに、その必要性をつよく実感していることがいかに重要か。
これくらいべつにたいしたことじゃないよとか、相手も悪いのだから放っておけばどうにかなるというふうに考えていると、関係修復に注力することを避けるようになる。
でも、ルーデウスはそういう態度がどのような結末に至るものなのかを実体験を通して知っているのですよね。
『無職転生』という作品には、とにかく現状の幸福だとか健全な関係といったものはときにあっさり崩れ去って二度とは戻らないのだというシビアな認識が通底している気がします。
いい換えるなら、「大切なものを大切にする」ためには、それなりの才能なり経験がいるということ。
大切なはずのものをまったく大切に扱わずあっさり壊してしまう人は少なくない。
かつてのルーデウスもそうだったことでしょう。
しかし、かれは一回大失敗することを通して経験を学んだ。
「大切なものは簡単に壊れてしまうし、いったん壊れたらもう直らない」というシビアな認識を身につけることができた。
これが決定的に大きいのではないかと。
そのルーデウスにしても、パウロに誤解されたことは辛い。それはもう身を切るように辛かったはずです。
でも、かれはここでパウロと和解しなかったらどうなるかということがわかっていて、辛くても、痛くてもそれでも仲直りしようとするモチベーションがあったということなのではないでしょうか。
「大切なものを大切にする」とは、つまり自分自身の人生を大切に扱うということでもありますよね。
これはぼくがこの頃よく考えている自分が好きではない人間がいかにして自己肯定を成立させるかというテーマに通じているかもしれません。
親に愛されて育った人は健全な自己愛を持つことができるけれど、そうでない人はむずかしいとはよくいわれます。
それでは、いま健全な自己愛を持てないでいる人間はどうやってそれを育めば良いのか。
これはじっさい、むずかしい問題です。
死ぬまでやり直すことができなかった「前世の男」と、今世のルーデウス、いったい何が違っているのか。おそらくはその差はほんの少しだけ自分を大切にできるようになったということだけのことなのかもしれません。
ちなみに、ぼくの友人のペトロニウスさんが「前世の男」とルーデウスは、「そもそも何も違わないんじゃないか」という記事を書いています。
ただ、些細な「ボタンのかけ違い」があっただけなのではないかと。
あっと、このあたりの話は語りたいこといっぱいあるけれども、ちょっと時間ないので、一番言いたかったというか、ほぅーって思ったのは、最近のパウロが死んだところです。
これを読んでいて「ボタンの掛け違え」ってどこまで行くものなんだろう?って思ったんです。
この作品の根底に、ニートで家庭を放棄させて人生を崩壊させてみじめに死んだ男の無念が、なろうテンプレートで幸せな人生をやり直す・・・・という構造をさらにもう一回ひっくり返して、もう一度同じような厳しい試練を、取り返しがつかない試練を主人公に与えるという構造になっていて、対比的に人生の価値、一度しかない一回性の価値を感じさせるところにあります。グッとくる構造というのはこの構造から来ている。
ただね、、、、この主人公のルーデウスくん、、、前世の名前は出てたかな?30台のニート君の性格って、全然変わらないはずなんだよね。たぶん本質は変わらない。そして、人生の厳しい出来事の厳しさは、へたしたら前世よりも今回の異世界のほうがはるかに厳しいかもしれない。
にもかかわらず、ちゃんと乗り越えていくのね。
これって不思議な気がするのね。だって、前世でできなかったわけだから。もちろんいろいろな自己肯定が積みあがっているのも事実なんだけれども、それってチートで得た部分も大きいし、前世での後悔が強く作用しているわけであって、自分自身の積み上げではないともいえる。けど乗り越えられる。
何が違うの?というと、、、、何も違わないのかも、、、、と思うんだ。
一つ違うとすれば、前世でニートとなるきっかけは書かれていないけれども、引きこもった最初の最初の小さな出来事の「ボタンの掛け違い」が正されなかっただけのような気がするのだ。これは、、、、厳しい話だ。ようは、一度でもボタンを掛け違って、運よくそれが修正されなければ、だれもがああやって落ちて行ってしまうのだ、、、ということ。
人生って厳しいなって。
パウロとのケンカや、この異世界でもルーデウスは、いくつものギリギリの選択というか、ボタンの掛け違えのポイントを体験している。それが吉と出ているかどうかは、物語として、わからない。けど、人生として、彼は正しい成長の方向へ進んでいる。だから肯定されるべきだし、とても見ていてぐっとくる。
僕は、わかる気がする。人生って、小さなボタンの掛け違いは、いつも起きている。それを丁寧に意識して変えて、、、しかもそれは、直後でないと治せないし、1日過ぎるとも終わっていたりして2度と治せないことも多い。運命の女神さまに後ろ髪はないのだ。それに、大きな流れに乗った場合は、その流れ自体を変えるか乗れるような乗り物を自分で作るとかを何年もかけて準備しないと、結局自分を滅ぼしてしまう。
ひとはどのようにして「ターニングポイント」を乗り越えるのか。
これは非常にきびしい話だけれど、納得がいきます。
じっさい、ルーデウスは五回に及ぶ「ターニングポイント」で、ふたたび人生の奈落に落ちてもおかしくないような目に遭っています。
かれはどうにかその試練を乗り越えてはいくのだけれど、それはほんとうに紙一重、ギリギリのところなのですね。
乗り越えることに失敗していてもまったくおかしくない、そういうふうに見える。
だから、ルーデウスがたび重なる試練を乗り越えられたのはほんの偶然に過ぎないといえば、そうかもしれないとも思うのです。
ただ、それでもあえていうなら、ルーデウスは前世と比べて、「自分はボタンをかけ違ったのだ」と気づくだけの経験を備えていたということだと思うのですよ。
くり返しますが、そもそも自分が失敗したことを認められないと、リカバーできないのです。
人生はちょっとした「ボタンのかけ違い」であっけなく破綻する。そして、いちど破れたらまず元には戻らない。
それはそうなのだけれど、「自分はボタンをかけ違えた」と気づいて、そしてそれを心から認めることができたなら、もう一度くらいリカバーのチャンスがある、こともある。
ルーデウスはおそらくそれほどつよくもないし、器も大きくないと思うけれど、でも、切実に人生をやり直したいという思いだけはあって、それが折々のターニングポイントにおける失敗のリカバーにつながっているのではないかと思うのです。
だからこそ、本来とてもむずかしい「赦し」という行為ができる。
そのさらに裏にあるものは、ちょっとでも努力を怠ればまた前世と同じようなところまで堕ちていくかもしれないという恐怖でしょう。
たぶん、その怖れがかれの人生をギリギリのところで救っている。
しかし、それもやっぱり紙一重で、何かひとつ違ったら破綻してしまうかもしれない。
そういうところ、ほんとうにリアルです。
ほんとうにすばらしいお話だと思います。未読、未見のままこの記事を読んでしまった方がもしいらっしゃいましたら、ぜひ触れてみてください。損はさせません。
俺はあの頃とは違う。
そう誓ったはずだ。
最近は忘れていたが、同じ過ちを繰り返さないと。
この世界では本気で生きると、誓ったはずだ。
今回は、規模こそ大きくなったが、同じ事をしている。
6年前と、同じ事をしている。
俺たちは同じ失敗を繰り返している。
成長したつもりになって、前に進んだつもりになって、
ずっと同じ場所で足踏みしていたのだ。
それに関しては、素直に反省しよう。
そして、反省した上で、
「昨日の事はなかった事にしましょう」
俺は、そう提案した。
今回、俺は、傷ついた。
心がポッキリと折れそうになった。
きっと、当時、俺を心配してくれた友人も、そんな気持ちだったのだろう。
そして、そんな気持ちのまま、二度と会わなかったのだ。
今回はそうはならない。
俺はパウロとのつながりを、決して断ちはしない。

『無職転生』は過ちと赦しのものがたり。人の弱さを、愚かしさを、それでもなお赦し、認める、そういう姿勢の作品です。

