『輪るピングドラム』と「きっと何者にもなれない」問題。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを探すのだ」。
名作といわれるテレビアニメ『輪るピングドラム』の物語は、なぞの少女「プリンセス・オブ・ザ・クリスタル」のこのようなセリフで幕を開ける。


少なくともその時点ではまったく意味のわからないセリフであり、登場人物とともに視聴者も「ピングドラムっていったい何だ?」と首を傾げながら物語を見つづけることとなる。
この作品の監督を務めた幾原邦彦のここら辺の言葉選びのセンスは圧巻というしかない。
ところで、この「ピングドラム」というなぞめいた単語と並んで印象的なのが、「きっと何者にもなれないお前たち」という表現だ。
いや、かってに決めつけるなよ、とも思うのだが、それでいてドキリと胸に刺さる鋭さがある。
そう、ぼくたちの大半は「きっと何者にもなれない」。「何者かになりたい」という想いは胸を灼いていても、それを現実に変えることはあまりにもむずかしい。
だから、多くの人たちは「きっと何者にもなれない」現実をごまかし、いわば自分の人生となあなあに馴れ合っているのだ。それが大人になるということなのだと、だれにともなくイイワケしながら。
この「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを探すのだ」という宣言が胸をえぐるのは、「きっと何者にもなれない」と理解しながら、わずかに「それでも」とも願う心理に直撃するからではないだろうか。
ぼくはそういうふうに思う。
どうして「何者かになりたい」のか?
そもそも人はなぜ「何者かになりたい」と思うのだろうか。この「何者か」という表現は何を意味しているのだろう?
考えてみれば、あまりにあいまいな形容である。
たとえば「作家になりたい」とか、「アイドルになりたい」というのなら、その実現可能性はともかく、とりあえず具体的な目標であるとはいえる。
しかし、「何者か」とはどういうことなのだろう。まるで具体性を欠いているではないか。
とりあえず「何者か」といえるようなものなら、何でもいいということだろうか。
しかし、それではその「何者か」の条件とは何なのか。有名なこと? まわりにちやほやされること?
それなら、「有名人になりたい」とか「まわりからちやほやされたい」といえばいい。
そうにもかかわらず、あえて「何者かになりたい」といった言葉を使うのは、そこに、この表現でなければすくい取れない独特のニュアンスがあるということなのだろう。
ただ有名になりたいだけではない、ただちやほやされたいというだけでもない、「何者か」という言葉に込められた切ない想いがあるに違いない。
「何者か」という言葉には、「ひとかどの人物」といった印象がある。単に有名であるだけではなく、高度な技能や特別な才能で世に広く知られる人物になりたい、といったあたりが適当なニュアンスだろうか。
いずれにしろ、それは「いまのところ自分は何者でもない」という自意識とワンセットであるように思える。
「何者か」になる必要は特にない。
しかし、この問題を深く考えはじめると、ひとつわからなくなることがある。
そもそも人は「何者か」を目ざしたりする必要があるのだろうかという根本的な疑問だ。
ある意味では、人はだれもが生まれながらにして「何者か」である。たとえば山辺六郎とか、大森春子とかいった固有の名前と、ほかに変えの効かない無二の個性を持っている。
だれもがある意味では「かけがえのない」存在であり、二度とこの世にあらわれ出ることがないオリジナルなキャラクターなのだ。それでは不足なのだろうか。
もちろん、不足なのだろう。そうでなければ「何者かになりたい」などと考えることもないはずだ。
だが、そのことを踏まえた上でさらにいうなら、べつだん、オリンピックで金メダルを取っても、ノーベル賞を単独で受賞しても、「わたし」が「わたし以上の何者か」になることはない。
「わたし」は何があろうと一生、「わたし」のままなのであって、身分とか、名誉とか、地位とか、財産とか、受賞といったものは、いわば「わたし」を飾るアクセサリーであるに過ぎない。そのことはだれにとっても自明であるはずだ。
単にそういうアクセサリーが欲しいだけだということなら理解できるが、その種の飾りを獲得することによって、「わたし」が「わたし以上の何者か」に変貌し、あるいは成長することを期待するというのは、あまりにも愚かしくはないだろうか。
つまりは「わたし」は「わたし」であるという、そのあたりまえの事実を受け入れられていないということなのだろう。
「戦士症候群」の子供たち。
このような話を仲間内でしていたとき、指摘されたのは、そのむかし流行したという「戦士症候群」という概念との共通項である。
1980年代、オカルト雑誌『ムー』(学研)の文通コーナー「コンタクト・プラザ」や『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス)、『マヤ』(学研)の文通コーナーに、以下に述べるパターンの投稿が多発し、やがて投稿コーナーのほとんどがそれらで埋め尽くされてしまう現象が起こった。
投稿の内容は、「自分は目覚めた戦士」で「仲間の戦士を探しています」という戦士パターンと、「自分は前世の記憶を取り戻した転生者」で「前世で繋がっていた仲間を探しています」という転生者パターンの2パターンおよびそのミックスに大きく分類される。
つまりは、いまの「わたし」に満たされないものを感じている少年少女たちが、架空の、しかし本人としてはそれなりにリアリティがある「ほんとうのわたし」を求めて「仲間」をつのった現象なのだろう。
すでに「いまの自分」を受け入れるなり妥協するなりした大人から見ればいかにも未熟さのあらわれとしか思えない現象だが、当事者にとっては切実なものがあったのだと思われる。
「いまのわたし」が「何者でもない」ように感じられ、「最終聖戦の戦士」だの「月世界のプリンセス」だのになりたいという気持ちはぼくにも理解できる。その切迫感もわかる。
だが、そのような立派な過去世を持っていれば「わたし」が「わたし以上の何者か」になるというのはやはり幻想なのであって、「わたし」はどこまでいっても「わたし」のままなのである。
「わたし」以上のだれかになりたい。
「何者かになりたい」というのは、つまりは「わたし」をやめて「わたし以外、わたし以上のだれかになりたい」ということなのだろう。
そして、それが不可能であることを受け入れることが「成熟」というものなのだと思う。
つまらない結論だろうか。だが、「わたし」は「わたし」のままでもいろいろなことを成し遂げられるはずである。
「わたし」には決して無限の可能性があるわけではなく、あくまで有限のことしか成し遂げられないが、それでもまったく何もできないというわけではない。
それなら、さっさと「わたし」を受け入れて、その上でできることを淡々とやっていくほうが結果は出るだろう。
「何者かになりたい」という望みが破綻するのは、その試みが失敗した時というよりは、むしろ限定的に成功してしまったときなのではないだろうか。
たとえば希望通り夢が叶うなり、人から評価されるなりしたときに、人は「それでも何者にもなっていない」、「あいかわらず「わたし」のままの」自分を発見するはずだ。
それくらいなら、最初から「わたし」という限界を引き受け、その範疇で行けるところまで行くという戦術を選ぶほうが有効性は高そうだ。
もっとも、このような面白みのないことを真顔でいってしまうあたりが、ぼくもつまらない大人になってしまったということなのかもしれない。
「わたし」は「わたし」。
それでも、ぼくの「何者問題」の答えはシンプルである。「あなたはあなたであり、あなた以上になることも、あなた以下になることもない。だから、安心してあなたをやっていて良いのだ」と。
くだらないアンサーに思えるだろうか。そうかもしれないが、これ以上の答えはないだろう。
「わたし」は生まれながらに「わたし」であり、その能力の向上や人格の成長によってすら、「わたし」以上の何者かになることはない。
「わたし」が人生で獲得していく地位や名声といったものはどこまでも「わたし」にとってアクセサリーであるに過ぎず、「わたし」の本質に影響を与えるものではない。
それはたしかにキラキラとしたアクセサリーではあるが、べつだん、それを手に入れたことによって「わたし」の本質が変わるわけではない。ぼくはそう思うのだ。
「わたし」が「わたし」でしかありえないことを素直に受け入れられる。それを、ひとは「アイデンティティの確立」というのだろう。
そうだとしたら、そのために必要なものは、とくべつな才能や技芸といったものではなく、「わたし」との和解でしかないはずである。
ある意味では「わたし」は決して「わたしではない何者か」になどなれないし、なる必要もないのだから、「わたし」のままで堂々と生きていけば良いと思うのである。
「わたし」は「わたし」。それで良い。何の問題もない。そう感じられることが、あるいは、幸せというものなのかもしれない。そうも、思う。