コラム

「非モテ」と「何者問題」と「オンラインサロン」。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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コラム

「強者の論理」?

 この記事はタイトルの通り、「非モテ」や「何者問題」について扱っています。

 「何者問題」とは、精神科医の熊代亨さんの造語で、「何者でもない」自分に悩み、「何者かになりたい」と思うところから始まる問題です。

 で、その「何者問題」と「非モテ」とはじつは同根である、というかほとんど同じ問題のバリエーションであるに過ぎないということを書きたいのですね。

 ちなみに内容的には前の記事(https://somethingorange.biz/archives/6933)の続きです。

 さて、前の記事は「「何者か」になりたい、けれどなれない」という「何者問題」に対して、「あなたはあなた以外の何者にもなれないのだから、その事実をさっさと受け入れたほうが良いよ」と書いたところで終わっていました。

 それに対して、お友達のペトロニウスさんから「それは「強者の論理」だ!」という指摘が入りました(笑)。

海燕さんの結論も、同じだと僕は思います。「自分」は「自分」以外になれないという・・・・でもこれは、海燕さんらしいですが、強者の理論です。この「残酷な事実」を受け入れろ、というのは「理性ある教養人の思想」です。普通のパンピーにはできません。

物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
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 そうかなあ。まあ、そうか。人間、自分にできることはだれにでもできるように思ってしまうけれど、意外とできなかったりもするのですよね。ぼくは、できると思うんですけれどね。

「何者でもない」し、「何者か」でもある。

 まあ、たしかに「何者でもない自分」をそのままに受け入れるということは、案外と苦痛をともなったりするものなのかもしれません。

 でも、それは結局、「何者か」と呼べるような存在が実在するという幻想を抱いているから辛くなると思うのですよ。

 はっきりいってしまうなら、「何者か」なんていません。それは、ただのイリュージョンです。砂漠に浮かんだ蜃気楼なのです。そっちを目ざしたところで、どこにもたどり着けません。ぼくはそう思います。

 ここでいう「何者か」って、つまりは「特別な存在」のことですよね。その背景には、1%なのか、5%なのかわかりませんが、とにかく「少数の、特別な人々」が存在していて、その人たちは自分たちのような「ただのパンピー」とはまったく違っているのだという認識がある。

 それで、自分もまた「そちら側」へ行きたいというのが、つまりまあ、「何者問題」の本質でしょう。

 そこには、学校とか会社とかで、いつも「自分は何者でもない」と思い知らされつづけるという経験が絡んでいるのかもしれません。

 「おまえの代わりなんていくらでもいるんだ!」というアレですね。

 そういうことをいわれて、素直に「そうか、わたしの代わりなんていくらでもいるのか」と思い込んでしまうと、「何者でもない自分」という認識をしてしまう。

 そうなると、苦しくなってくるんですね。でも、これはようするに自意識の問題に過ぎないので、考えかたしだいなんですよ。

「代替可能性」の問題。

 たしかに、人間は、自分が「代替可能の存在」であることに耐えられません。

 だから、自分にとっては、自分は「たったひとつの、絶対的な存在」であるにもかかわらず、社会的には「いくらでも取り換えの効く、部品のひとつ」でしかないという、この乖離、ギャップ、それがすべての悩みの根底にあるのだと思います。

 また、じっさい、社会においては、「わたし」の代わりなんていくらでもいることもたしかなのですね。

 『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイではありませんが、「社会の役割」としては「わたし」の代わりはいくらでもいる。

 これはむしろ、まったく代わりがいないようだと困るのであって、代わりがいることはあたりまえなのです。

 だから、ぼくの答えは「社会に期待しすぎるのはやめましょう」というものになります。社会のなかで「特別な存在」になろうとすることは、かなりむずかしいうえに、不毛なルートです。

 たとえば、トップアイドルやスターシンガーになったとしても、「社会の役割」としては代わりはいくらでもいる。「取り換えの効かない個人」なんて存在するはずもないのです。

 たとえばオバマ元大統領だって、「決して取り換えの効かない個人」だったといったら、そんなことはないでしょう。

 「社会を構成するパーツ」には無限の代替品がある。それは当然のことなのであって、そこに期待するのは筋が悪いように思うのです。

「涼宮ハルヒ」問題。

 その昔、『涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベル原作のアニメがありました。

 この物語のヒロインにして主人公である涼宮ハルヒは、何万人もの人がいるスタジアムへ行って、「無数のなかのひとり」でしかない自分を発見し苦悩します。

 そこはアニメらしく、じつは彼女は「世界の中心」とも「ただ一柱の神」ともいうべき存在だったりするのですが、自分の意識のなかでは彼女は「ごく凡庸な存在」でしかないので、不満たらたらなのです。

 このエピソードは、非常に示唆に富んでいます。つまり、「何者問題」とは、「ほんとうに特別な存在であるかどうか」ではなく、あくまで「自分の存在をどう受け止めるか」という自意識の問題に過ぎないのだということ。

 ハルヒの場合は「ほんとうは特別なのに自分は凡庸だと認識している」から悩むのですが、その反対に「じっさいには凡庸な存在であっても自分は特別だと認識している」なら悩む必要はなくなります。

 だから、ぼくは「自分は特別だと認識すればいいんじゃない?」と思うのです。

 いや、どう考えても凡庸なのに自分のことを特別だなんて思えないよ、といった答えが返って来そうですね。

 しかし、「凡庸」だとか「特別」というのは、どこまでいっても比較の問題に過ぎません。

 オリンピックで金メダルを取ったアスリートや、直木賞や芥川賞やノーベル文学賞を取った作家が「ほんとうに特別」かといえば、べつだんそんなことはないでしょう。そういう人も、しょせんは「普通の人」です。

「特別な人」なんていない。

 結局のところ、どこかに「普通」を超越した「特別な人」がいると思うから苦しくなるのであって、その「特別な1%」の存在とは幻想なのだと気づくべきなのだと思います。

 そうしないと、熊代亨さんが『何者にもなれない』のなかで書いているように、悪い大人にその想いを見透かされて、搾取されることになる。たとえば、「オンラインサロン」で。

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そうしたオンラインサロンで何かを獲得し、当のインフルエンサーを凌ぐほどに成長した人材を私は寡聞にして知らない。

他方、オンラインサロンの活動の一環として宣伝に努める人やオンラインサロンを脱会した人の話はよく聞こえてくる。彼ら・彼女らの話を聞く限りでは、オンラインサロンが実際に参加者を「何者か」にする場所として、つまり実用的な技能習得やコネクション獲得の場として機能しているようには思えない。

しかし、オンラインサロンには「何者かになりたい」と願う人や「何者にもなれない」と悩んでいる人を惹きつけ、一時的にせよ願望を充たし、代償を支払わせる機能があるのは間違いない。オンラインサロンにいれば、「○○の身内である自分」「みんなと一緒に○○を担ぎ上げている自分」といったアイデンティティを(一時的にせよ)獲得できるからだ。

「何者かになりたい人々」が、ビジネスと政治の「食い物」にされまくっている悲しい現実(熊代 亨) @gendai_biz
「何者かになりたい」。多くの人々がこの欲望を抱え、日々を奔走し、消耗している。そして、モラトリアムの長期化に伴い、こうした問題は高齢化し、社会の様々な面に根を張るようになった。新刊『何者かになりたい』を上梓した精神科医・熊代亨が、現代人の揺れるアイデンティティに迫る危機を暴く。

「オンラインサロン」という搾取。

 この種のオンラインサロンって、あたかも「特別な1%」であるように見える人たちと同じ空気を吸えることにお金を払っているようなものですよね。

 そして、同じ空気を吸っていればそれだけで「そちら側」へ行けるような気がして来る。もちろん、ほんとうはそんなはずはないのだけれど、その錯覚があるからこそ集金が可能になるのでしょう。

 まあ、でも、月数千円を払う程度で済むのならそれも悪くはないとは思いますけれどね。そこで「ほんとうに大切な友達」を見つけ出せる可能性もなくはないでしょうから。

 ただ、その友達に深く依存してしまうと、それはそれでまずいことになってしまうことでしょう。そこはペトロニウスさんのいっている通りで「リスクを分散すること」が必要なのです。

 これを「ロマンティック・ラブ・イデオロギー一択!」とかで考えてしまうと、いわゆる「非モテ」になります。

 また、「家族一択!」とかだと、家庭内暴力とかにつながってしまうことになりかねません。

 とにかく「ある選択肢一択」はリスクが高すぎるのですね。あるいは涼宮ハルヒは恋愛によって救われたかもしれませんが、それはやっぱりフィクションなのです。

 むしろ、『エヴァンゲリオン』の碇シンジが渚カヲルとの共依存関係を破綻させてしまったところから学ぶべきでしょう。そのような「一点賭け」はどこかで破滅につながっています。

ただ生きて死ぬだけ。

 だから、ぼくは思うのです。そもそも「特別な何者か」ということ自体が幻想なのであり、人はただ生きて死ぬだけの存在なのだと認めることが必要なのだと。

 それは「無常」ということであり、つまりはぼくの発想は「小乗仏教」ということになるのかもしれません。「悟りを開くしかない」ということですね。

 「何者でもない自分」を認めることは辛いでしょうか。「だれかに愛されたら、特別になれるかもしれない」とか、「だれかのサロンに入会したら、特別になれるかもしれない」と思えてしまうでしょうか。

 しかし、「何者でもない」とは、かならずしもネガティヴなことではありません。

 それは「特別な何者か」でないからこそ、多くの人々と、あるいは存在と、共感しあえるということでもある。

 あるいは心理学者アドラーのいう「共同体感覚」とは、そういうことなのかもしれません。ぼくはそれでいいと思います。

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 もちろん、人間はなかなか「承認欲求」から自由にはなれません。しかし、ただその欲求を満たすためだけに生きることも愚かしい。

 「だれかに褒めてほしい」とか「認めてもらいたい」と思うことは無理がないことだとしても、だれかの称賛だけを求めて生きてはいけません。

 あくまで大切なのは「自分自身の意思」。凡庸であろうが、特別だろうが、自分は自分。

 どうも「強者の論理」であるとしても、どうしてもぼくの結論はそこら辺に行き着きそうです。

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