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なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うべきではないのか?

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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【この記事の簡単な要約】

 なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「問い」は繰り返されるのか? それが意味しているものは何なのか? そこに「答え」はあるのか? 人気漫画『ここは今から倫理です』をキッカケに考えてみました。

『ここは今から倫理です』と「禁断の問い」。

ここは今から倫理です。 1 (ヤングジャンプコミックス) [ 雨瀬 シオリ ]

 漫画『ここは今から倫理です。』の最新刊が発売されました。「倫理」の授業を担当する高校教師・高柳を主人公にした一種の「教育もの」ですが、毎回、さまざまな倫理的な「問い」が主眼となっており、非常に読ませる作品です。

 で、この巻に収録されたある回では「黒々とした殺意」を心に抱え、高柳に「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「問い」をぶつける少年が登場し、その「殺意」と「暴力」と「問い」を中心に展開していきます。

 その後、ストーリーはこの「問い」とは違うところへ逸れていくのですが、ぼくとしては高柳がこの「問い」に対してどのような「答え」を考えているのか知りたかったところです。

 それくらい「なぜ人を殺してはいけないのか?」という、このシンプルな「問い」には人を魅了してやまないところがある。

 もちろん、こう問いかける者のなかには、問われた相手が答えられずに困惑するところを楽しむために問うているだけという、ふらちな輩もいるでしょうが、心の底からほんとうにそう問うているのなら、それはやはり「答えられるべき問い」であるはずです。

 しかし、同時にこの「問い」が繰り返し問われるのは「だれも明確な答えを持っていない」からでもあります。いくつもいくつも「答えらしきもの」は出て来るのですが、いずれも決定的ではない。どこか不完全な、隔靴掻痒な「答え」でしかない。

 あなたもどこかでそのようなやり取りを見たことがあるのではないでしょうか?

「問い」のほうが間違えている。

 しかし、ぼくはこの「問い」が発せられているところを見ると、いつも不思議な気持ちになります。

 この「問い」に対する「答え」がどうあるべきかということとはべつに、そもそもなぜこう問うている人は「人を殺してはいけない」ことを自明の前提とするのだろう?ということが気になるからです。

 あえていうなら「ほんとうに人を殺してはいけないの?」、「そもそも「いけない」って何を意味しているの?」という「問い」の立て方だってあるはずなのに、「人を殺してはいけない」という認識は当然で疑えないものとされた上で、「それはなぜなのか?」と問われる。これは奇妙なことです。

 あるいはこのように書くと、「いや、だって当然のことじゃん」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、純社会的に考えても、じっさいには色々な「殺人」が許容されています。

 たとえば「死刑」がそうですし、「正当防衛」もそうですよね。あるいは、警官が危険な犯罪者を射殺したりした場合も許されることと考えられることが多いでしょう。「自殺」や「安楽死」についてもさまざまな議論がある。

 だから、そもそもぼくはべつに「何が何でも絶対に人を殺してはいけない」とは考えないのです。どう考えても「どうしても絶対に人を殺してはいけないのかどうか?」は「ケースバイケース」でしょう。

 「まあ、なるべく殺さないほうが良いけれど、どうしても殺したいならしかたないね」という考え方はできないものでしょうか? できない? そうですよね、何といっても「この世で最も重い」とされる「人の命」がかかった問題なのですから。

 もう少し考えてみましょう。

「いけない」ってどういう意味?

 べつの角度から問題を見てみましょう。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「問い」は、「なぜ「人を殺すこと」は「いけないこと」であるのか?」といい換えられます。

 ですが、「いけない」とは何でしょう? 何を意味しているのでしょうか? 辞書的なことはともかく、ぼくには、とりあえずふたつの意味が思いあたります。

①倫理的に「悪」である。

②社会的に「禁忌」とされている。

 つまり、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「問い」は、「なぜ人を殺すことは「悪」であり「禁忌」とされているのか?」と読み換えることができるように思える。

 しかし、この読み換え自体が、すでに「なぜ人を殺してはいけないのか?」というシンプルな「問い」が備えている「何か」を侵犯しているようにも思えます。

 つまり、こう読み換えた時点で、最初の「問い」に対して「それは「悪」であり「禁忌」であるからいけないのだ」と答えていることになってしまいかねない。

 ですが、いうまでもなくこれは「同語反復(トートロジー)」以上のものではない。そう答えるなら、すぐに「なぜ倫理的な「悪」や社会的な「禁忌」は許されないのか?」という次の「問い」が生まれてしまうでしょう。

 ようは「許されないから許されないのだ」といっているに過ぎないわけで、際限のない話です。仮に殺人が「悪」であり、「禁忌」であることは認めるとしても、それが絶対的に許されない理由が何かあるはずだ、それは何なのか?と考えたいところですよね。

そこに「絶対的な理由」はあるのか?

 でも、それはべつに「ない」のですよ。ぼくはシニカルに韜晦しているわけではなく、「人を殺してはいけない絶対的な理由」といったものは、じっさいのところ、存在していません。

 「倫理的に悪であるから」とか「社会的に禁忌であるから」といった「答え」は、それがじつは「倫理」とか「社会」といった、つまり、「人間の都合」の問題でしかないことを暴露しています。

 そう、「人を殺してはいけない」とは、べつに神が定めた絶対の法則でも何でもなく、「人間が自分の都合でそう決めたからそういうことになっている」以上のことではないのです。

 だから、「ほんとうに人を殺してはいけないのか?」という「問い」の「答え」は「ケースバイケース」としかいいようがない。

 たしかに殺人は一般的には「悪」であり、「禁忌」であり、「許されないこと」と見なされるけれど、じっさいにはそれが許されるとみなされることもいくらでもある。

 もっというなら、この世の中で「やってはいけない」とされていることで、ほんとうの意味で絶対的に「やってはいけない」ことなんて何もないといっても良いでしょう。

 「絶対にやってはいけないこと」とは「そもそもやろうとしてもできないこと」だけで、「やってはいけない」こととは、ただ「やってはいけないとされている」か「自分自身がやってはいけないと考えている」だけのことなのです。

なぜ「だれもその問いに答えられない」とされるのか?

 だから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「問い」に対しては「人間の都合にもとづく相対的な理由」はいくらでもあっても、「だれもが納得できる絶対的な理由」など存在しないのです。

 よくだれもこの「問い」に答えられないといわれるのは、そもそも「明確で絶対的な答え」などというものが実在ないからです。

 このように書くと、「それなら、時と場合と事情によっては人を殺してもかまわないのか?」とさらに問われることになるかもしれませんが、これは「かまわない」という表現が何を意味しているのかということは考えないといけないにしろ、基本的にはその通りです。

 「人を殺してはいけない」ということは「人間の都合にもとづく約束ごと」に過ぎないのであって、「神さまが定めた絶対の摂理」ではない。両者は厳密に区別されるべきでしょう。

 そもそも、「人を殺してはいけない」とはいっても、じっさいに殺している人たくさんいるいるわけじゃないですか。そのなかには、社会的に「悪」とされている人もいるけれど、むしろ喝采を浴びている人もいる。

 「人を殺してはいけない」という「倫理」や「禁忌」は、「単なる人間の都合」であると考えるにしても、相当にあいまいで不たしかなものなのです。

 これは「人を殺しても良い場合と悪い場合がある」という話ではありません。同じように殺人を犯しても、それがどう評価されるかに絶対的な法則はないということなのです。相当にファジィなのですね。

最もシンプルでパーフェクトなアンサー。

 ここまで考えた上で、ぼくなりに「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「問い」に答えるなら、ごく簡単に「警察に捕まるから」となります。「法律で決まっているから」でも良いでしょう。

 もちろん、これは一方ではあまりにも不完全で納得のいかない「答え」です。つまり、「だれかがそう決めたから」といっているに過ぎないのですから。

 でも、どう答えたところで「あいまいで相対的な答え」にしかならないのだから、こういうふうに答えても良いと思うのですよ。

 そもそも「問い」の立て方が間違えているのです。「人を殺してはいけない」なんてあいまいな条件を、たとえば「物理法則」のような「自明で絶対の条件」と同一視することが間違えている。

 「人を殺してはいけない理由」とは、どこまでいっても「人間ないし社会の都合」であり、「だれかがそう決めたから」でしかないわけです。

 いい換えるなら、そこには「(特定の場合を除く条件下では)人を殺したりしないでね」という「約束」、あるいは「社会契約」があり、それを侵した場合は「法」にふれたとして「処罰」されるということ。

 繰り返しますが、それは「社会の多数派がそうであったほうが良いと考えているから」というファジィな理由でそうなっているだけのことであって、そこに「絶対」は存在しない。そういうことなのです。

 だから、「なぜ人を殺してはいけないのか?」に対しては「べつに殺したって良いですよ。社会は社会の都合であなたを捕まえようとしますが」と答えても良いことになります。

「相対的な答え」は決して軽くない。

 もちろん、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士や『ジョジョの奇妙な冒険』の吉良吉影のような猟奇連続殺人鬼は、「とてつもなくどす黒い悪」だとぼくも考えます。

 しかし、それもまた、「ぼくという個人がそう考える」だけのことであって、「世界の摂理としてそう決まっている」わけではないのです。この両者を同一視して考える人は大勢いますが、基本的にそれは間違えています。

 まあ、人間は自分の正しさは単なる人間的な都合に過ぎないわけではなく、絶対的なものなのだと思いたいものなのでしょうが、そのようなはずはないのです。

 しかし、だからといって、「絶対的な世界の摂理」ならぬ「相対的な人間の都合」も、そう簡単に無視できるほど軽いものではありません。

 「なぜ人を殺してはいけないのか?」という「間違えた問い」に対しては、「じっさいに人を殺すとどうなるのか?」、「そもそも人を殺すという行為はどのような結果を生むのか?」という事実を見ていくことがひとつの「答え」になるでしょうし、それは、たくさんの物語を通して学ぶことができるでしょう。

 「殺人」という、それじたいは物理的に不可能なわけではなく、むしろ容易ですらあることが、「世界にとって」ではなく、「人間にとって」どれほど重い意味を持っているのか、それを「実感」したなら、理屈がどうであれ、じっさいにはそう簡単に人を殺すことはできなくなるはずです。

 それこそが「物語」という「体感の芸術」の素晴らしさですね。とりあえず『アイ・イン・ザ・スカイ』でもいかでしょうが。

人間には「倫理」や「正義」より大切なものがある。

 とはいえ、「それでもどうしても自分には人を殺したい理由がある」、あるいは「人を殺してでも成し遂げたい理由がある」といったこともありえないわけではないかもしれません。

 そのとき、その人は「社会の敵」になります。ですが、ぼくはそういった社会的に「悪」とされ、「敵」とみなされる人間が、この世にいないほうが良いとは思いません。

 これは非常にむずかしい話なので、またべつに語らなければならないことでしょうが、ぼくは「悪はこの社会に許容されるべきではないが、だからといって「悪が存在する可能性」を完全に刈り取ってしまうべきでもない」と考えています。

 殺人者のような「悪」は倫理的には許されない存在であるかもしれないけれど、そういった「倫理」よりも「人間の自由と尊厳」のほうが価値がある、と信じるからです。

 ここをはき違えると、「人間は悪を為す存在なのだから亡びたほうが良い」といった、「反出生主義(アンチ・ナタリズム)」的な発想につながる。

 SF作家にはたまに見られる発想で、山本弘さんの『アイの物語』あたりはそういう「倫理至上主義」で書かれていると考えています。この作品、ぼくは大嫌いなんですけれどね。

 人間を人間自身の倫理で見ると、底知れず邪悪な存在であるということになる。しかし、その「悪」の一面もまた、人間から決して奪ってはならない大切な資質のひとつであるとぼくは捉えるのです。しかし、これはまたべつの話。いつかまた、どこかで話しましょう。

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 それから、この記事を最後まで読まれて少しでも面白いとか、あるいは自分には違う意見があるぞと思われた方は、ブックマークやツイートでそのご見解を拡散していただけると助かります。

 それでは、またべつの記事でお逢いしましょう。

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