非モテの問題はモテないことではない。
先日、東京の四季劇場でミュージカル『オペラ座の怪人』を観て来ました。

この作品、上映されるたびにいくらか内容が違っているのではないかと思うのですが、まあ、基本的な筋はあるオペラ座に巣くう「怪人(ファントム)」の不気味な片思いの物語です。
かれが想いをささげるのはオペラ座の新人歌姫クリスティーヌ。
マスクで顔を隠した怪人は平凡なわき役に過ぎなかった彼女を見いだし、歌を教え、主役の地位をあたえ、自分の恋人にしようとします。
しかし、クリスティーヌは最終的にかれを拒み、怪人はひとり孤独に消え去ることになります。
まあ、いってしまえばキモメン非モテのストーカーが一方的に恋愛をこじらせただけの話です。
ですが、ぼくはこの物語に強烈に感情移入してしまったのですね。
これは「愛されたい」という想いを切実に煮詰めたストーリーだと思います。
そして、「ひとに愛されるためにはどうすれば良いのか、また、どうしてはいけないのか」という話でもある。
そこら辺のことを非モテ問題に絡めてこれから話していきたいと思います。
というのも、ぼくはこの話を見て初めて非モテの問題の根幹がわかった、あるいは整理できたように思ったからです。
それは何か。「非モテの問題とはモテないことではない」ということです。


愛情を得るための「取り引き」という方法。
あるいはこのように書くと、激烈な反発を受けるかもしれません。
非モテの問題がモテないことの問題でなくて何だというのだ、と。
しかし、ぼくは真剣にそう考えているのです。非モテ、特にその症状をこじらせて攻撃的になっている非モテの最も本質的な問題は、モテないことなどではなく、だれかに愛されないことですらなく、「自分で自分自身を愛せないこと」なのだ、と。
換言するなら、非モテとはモテるとかモテないとかの問題ではないといえる。
つまり、どんなにモテていても自己愛や自己肯定を成立させることができず、自意識をこじらせて他者に攻撃的になっている人は非モテ的なのです。
たとえば、『エヴァンゲリオン』に出て来る碇ゲンドウなどは、典型的な「モテることができた非モテ」だと思う。
ようするに、ぼくは攻撃的非モテとは「自分で自分を好きになれない病」だと捉えているわけです。
そのことはじっさい、攻撃性をこじらせまくったキモメン非モテストーカーであるわれらがファントムを見ているとよくわかる。
怪人は、クリスティーヌに対し、さまざまなプレゼントを行います。
歌を教えてあげたこともそうですし、主役に抜擢したこともそう。かれはそのようにいろいろなものをあげることによって、彼女の心を得ようとするのですね。
しかし、これは、単なる関心はともかく本物の愛を得ようとする方法としてはまったく間違えている。
もちろん、愛を得るためのキッカケにはなるけれど、それだけで愛を獲得することはできない。
なぜなら、真実の愛とは自発的で無条件のものでなければならないからです。
贈り物をもらったから愛さなければならない、愛してあげようというのでは真実とはいえない。
適切に自分を愛せている人間だけが素直に愛を乞うことができる。
一般論としていうのですが、まともな恋愛をして「真実の愛」を得られるのは自分のことをも適切に愛し、自分の価値を信じることができる「まっとう」な人間だけです。
あるいはそういう人間だけがまともで健全な人間関係を築き上げることができる。
これもまたファントムを見ていればわかることですが、自己愛が欠損した「まっとう」じゃない人間は他者をコントロールしようとするのですね。
いい換えるなら、他者の他者性、コントロール不可能性をそのままに受け入れることができないわけです。
怪人がクリスティーヌにプレゼントをし、その代償として愛してもらおうとするのもコントロールのための方法です。
つまり、ファントムは「取り引き」によって愛を得ようとしている。こんなに良いものをいろいろあげるから自分を愛してくれ、と。
だけれど、くり返しますが、このやり方ではどうしたって「真実の愛」を手に入れることはできません。
たしかに、「取り引き」によって一時的に愛を手に入れたように思えることはあるでしょう。
しかし、それはあくまで「プレゼント(贈与)の代償」として手に入れた、条件付きの愛情です。
だから、そこにはほんとうの安心がない。つねにいつ裏切られるか、見捨てられるかと疑いつづけなければならない。
あるいはどこまでもプレゼントによる「取り引き」を続けなければならない。
いつまでも猜疑地獄が続く。
そういうものなのです。
真実の愛を得るための「たったひとつの冴えたやりかた」。
それでは、心から信じることができる「真実の愛」を手に入れるためにはどうすれば良いのか。
ぼくはそのための方法はひとつしかないと思っています。それは、あいてに対しきちんと自分をさらしてその愛のまえにひざまずくこと。
言葉や暴力によってあいてを支配するのではなく、贈り物によってコントロールするのでもなく、ただただ素顔のままで「この自分を愛してください」と願うこと。
こう書くと異論が続出しそうです。それではイケメンや金持ちはどうなのだ。そういう人間はべつだん乞うたりしなくてもいくらでも愛を手に入れれるではないか、と。
ですが、そうでしょうか。たしかに、そういった性的資産のもち主のまわりにはいくらでも異性(あるいは同性)が集まって来るかもしれません。
でも、それが「ほんとうの愛」だとは限りません。
むしろ、美貌や財産を誇っている人ほど、「この人は自分のことをほんとうに愛しているのだろうか? 自分の容姿や財産に惹かれているだけではないか?」と疑う羽目になる可能性も高いでしょう。
あいての関心や肉体を手に入れることと愛されることは違います。
ひとの心はどれほどの権力者でも自由にはならない。
結局は、ほんとうに愛してもらいたいなら、素直に愛を求めるよりほか方法はないのです。ファントムがそうしたように、あいてを贈与によってコントロールしようとするのではなく。
ただ、それはかぎりなく恐ろしいことでもあるでしょう。
「絶対他者」という恐怖そのもの。
ごくごくあたりまえのことですが、自分を受け入れてくれるかどうかわからないまったくアンコントローラブルな「絶対他者」のまえに裸の自分をさらけ出すことは尋常な恐怖ではありません。
あるいは究極の不安、絶大の恐怖といえるかもしれない。
そもそもあいてに愛されないことが怖いからあいてをコントロールするのです。コントロールできていれば、安心だから。
いわゆる「モラルハラスメント」などもその結果のひとつです。
あいてを論難し、攻撃し、支配しているあいだだけ、ほんの少し安心できる。「モラハラ」の背景にはそのような心理があります。
しかし、これも当然ですが、そういうやり方はどうしようもなくあいてを傷つける。
そして、結局はこの背景にも自分で自分を愛せないという問題がひそんでいるのです。
そもそも、どうしても自然な状態の他者のまえにはだかの自分をさらせないのは、その勇気を持てないのは、心の奥底で自分には他者に愛されるだけの価値があると信じることができずにいるからなのですから。
くり返します。不幸せな非モテの根本的問題とは、「自分自身を愛せないこと」、「自分自身にひとに愛されるだけの値打ちがあると思えないこと」です。
『オペラ座の怪人』という作品を例に出すと、これはキモメンやストーカーだけの問題であると解釈されてしまうかもしれません。
しかし、そうではない。どんなにイケメンであっても、あいてをコントロールしていないと不安で、アンコントローラブルな関係に踏み出すことはできない人はいる。
その証拠に、妻に対しモラハラやドメスティック・バイオレンスを振るう人は容姿や財産や知能に恵まれていないとは限らないでしょう。
「あえて嫌われる態度を取る」という自己防衛手段。
また、これはちょっとした余談ですが、「自分を愛せないという病」の症状としては、あいての反応を「先取り」してあえて嫌われるように振る舞うというパターンもあります。
これは一見するとわけがわからない態度なのですが、つまりは「あいてに愛されるかどうかわからない」という不安定な状況から逃避してダメージをコントロールしようとしているわけですね。
「自分が嫌われることなんてわかっていた。でも、自分は「あえて」それをやっているにすぎないのだから問題ない」というひねくれた解釈でダメージを軽減しようとしているといえばわかっていただけるでしょうか。
竹熊健太郎さんが『私とハルマゲドン』という本で書いていた「オタク密教」はこれにあたります。
オタク密教については、以下の伊藤剛さんのツイートツリーがわかりやすいでしょう。
自分の趣味を、「世間に嫌われるものだからあえて」選んだのだ、と解釈してダメージコントロールしようとするというオタクの屈折した態度のことです。
これを見てもわかるように、ひとをコントロールしようとする態度の背景にはコントロールできない人間の「他者性」を恐怖する人格の未熟さがあり、そのさらに奥には「自分を愛せないという病」があります。
自分は正当に愛され、適切に遇されるだけの価値のある人間だと受け止めていないと、人間はどんどんひねくれて、あげく自ら不幸になろうとしたりするわけです。
アンコントローラブルな他者との対峙に比べれば、孤独や自虐や絶望はある種、安定しているともいえるからです。
自分を愛するためにはどうすれば良いか?
だから、大切なのは完全にアンコンローラブルで操ることのできない、操ろうともしていない「絶対他者」が、それでもなお自分に好意を抱いてくれる可能性はあるのだと信じることです。
つまり、「他者への信頼」。
それはつまり自分にはそうやって愛されるだけの価値があると信じることでもある。「自己への信頼」。
もちろん、だれからでも愛されるということはありえないし、じっさいにその他者が好意を示してくれるかどうかはわかりません。
しかし、「それでもなお」、その不確定な賭けに乗り出すだけの勇気を持てることが大切であるわけです。
だれかにほんとうの意味で愛されたいと望むのなら、おいてはこの二重の信頼にもとづく勇気を絞り出せるかどうかが重要になる。
というか、この種の勇気を振り絞れるかどうかが人間の人生、ひいてはほんとうに成熟した大人になれるかどうかを決定してしまうのですね。
そのようなことを、『オペラ座の怪人』を見て考えました。
ひとに好きになってもらうよりまえに、まず、ほんとうに自分自身を好きになることが必要だという話です。
それでは、「健全な自己愛」を持たない人が、どうすればそれを手に入れることができるのか?
じつはそれについてはまだ考えがまとまっていません。じっさい、それはとてもむずかしいことだとは思います。
それでも、何か方法はあるはず。今度はそのことについて考えてみましょう。
おしまい。