『腐女子除霊師オサム』と『チートスレイヤー』。
「ジャンプ+」に掲載された『腐女子除霊師オサム』というギャグマンガが話題になっています。
この頃、「ジャンプ+」に掲載される読み切りは出来が良いものが多く、しばしばバズることになっているわけですが、これも非常によくできた作品です。
「腐女子」でしかも「除霊師」の主人公オサムが、荒ぶる腐女子の怨念(笑)を鎮めるというきわめてシンプルなストーリーながら、スタンダードな腐女子ネタをたくさん盛り込んで飽きさせない。とくべつ秀逸な傑作というわけではないけれど、十分に面白い一作でした。
それは良いのですが、こういう作品が世に出て来るということは、『ジャンプ』が腐女子とか「薄い本」の存在を公認したとも受け取れるわけで、それは良いのか?と思ってしまいます。
いやまあ、いままでだってもちろん存在は認識していて触れずにきたわけなのだけれど、それをここに来て明確にタッチしに来たということを、ぼくたちはいったいどのように受け止めれば良いのでしょうね。
べつだん腐女子でも腐男子でもないぼくにしてみればその手の話はいわば「対岸の火事」であって、どうなろうとあまり関係がないともいえます。
ですが、先日、『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』がネガティヴな意味で話題にのぼったこともあり、ここら辺の著作権的な問題は気になるところです。広い意味での著作権問題は一部画像を引用したりもしているブロガーのぼくにも「対岸の火事」とはいえないしね。
あらためて考えてみましょう。
そこに「愛」はあるのか?
まず、著作権的に見れば、『チートスレイヤー』にしろBL同人誌にしろ、「アウト」の気配が濃厚です。
ほんとうに「アウト」なのかどうかは裁判が行われて判例が積み重なってみなければ何ともいえないのですが、まあ、かなりブラック気味のグレイゾーンといえるでしょう。
しかし、『チートスレイヤー』のときいわれたのは、「これは愛とリスペクトがないからダメ」ということでした。それなら、たしかに「愛」や「リスペクト」が詰まっているのであろう腐女子たちの「薄い本」はどうなのでしょうか? 愛があるからオーケー?
もちろん、法的にはそういうことにはならないでしょうが、道義的にはどうなのか。これはむずかしいところです。
あくまで著作権を基準に考えるのなら、それに反するパロディを「愛」だとか「リスペクト」といったきれいな言葉で正当化することは論外である、という結論にしかならないでしょう。
しかし、そもそもこれだけその種のパロディというか二次創作が蔓延している時代に、その著作権絶対というシステムは正しいといえるのか? その「そもそも論」のところから考えなおす必要があるように思えます。
もちろん、いわゆる腐女子を含む多くの二次創作者は「触らぬ神に祟りなし」で、このまま「グレイゾーン」のなかで二次創作を続けていくことが最善だと考えているかもしれませんが、その状況がいつまでも続くという保証は何もないのです。
一度、根本から考えてみる必要はあるのでは。
「グレイゾーン」という地雷原。
ただ、この問題をつつくことはだれにとってもあまり利益のあることではないかもしれません。すべてをあいまいなままにしておいて、法的に「グレイゾーン」のところで処理していくのが現実的な答えなのかも。
でも、ネット媒体とはいえ、『腐女子除霊師オサム』みたいなマンガが掲載されるご時世にあって、「よく知らないのでかってにしてください」も何もあったものではないですよね。
また、「薄い本」を作っているほうにしても、「わたしたちはこっそりやっているのでお見逃しを」といった態度は通じなくなりつつあると見るべきでしょう。
ここら辺のことをどう考えるべきか、ぼくにしても「正しい答え」を持っているわけではありません。だれもそんなもの持ってはいないでしょう。
繰り返しますが、「法的に見たらほとんどすべての「薄い本」がアウト」になる可能性は高い。また、作家のなかにも、男性向けであれ女性向けであれ自作の「薄い本」に対して内心、反感を抱いている層もないわけではないでしょう。
ただ、いままでは「暗黙の了解」で、「そこは触わらないことにしておく」状態だったのです。
『腐女子除霊師オサム』みたいな作品が「ジャンプ」の名を冠したメディアに堂々と出て来るという事態は、それが少しずつ変わりつつあるということを意味しているのでしょうか? それともその見立ては勘繰りすぎで、べつだん何も変わりはしないのでしょうか?
アンダーグラウンドマーケットの花々。
ほんとうのところはわかりませんが、「薄い本」の問題は、「著作権違反だから論外」として終わらせるのではなく、「ほんとうに既存の著作権の考え方は時代に合っているのか?」と考えていく必要があるように思います。
何といっても、そこには「著作権に違反しても、二次創作を描きたい、読みたい」という膨大な需要がまちがいなくあるのですから。
創作の歴史上、これほど二次創作が花開いた時代はないわけで、それは既存の著作権の考えかたでは処理し切れない文化である、ともいえるのではないでしょうか。
とはいえ、過度にエロティックであったり暴力的であったりする二次創作同人誌の類が、いくら「愛」があるとはいっても、社会的に容認されるとは思えません。それらはどこまでいっても一定の「アンダーグラウンド具合」のなかでしか消化されないことでしょう。
ただ、純粋に文化的な視点で見れば、おそらく著作権はゆるく考えたほうが文化の発展のために役立つのではないかと思うのです。
著作権のしばりがあるからこそ、『チートスレイヤー』のような作品は打ち切りを余儀なくされるわけですが、それは純粋にアイディアとしては面白いかもしれない。
いや、じっさいには、『チートスレイヤー』という作品はあまり面白くなかったというのがぼくの個人的な感想ですが、たとえばキリトくんとカタリナが対決するといったクロスオーヴァーの可能性は魅力的ではあると思いませんか?
作品を著作権という限界から解き放つことは可能か?
じっさい、シャーロック・ホームズと切り裂きジャックが対決するみたいな二次創作(パスティーシュ)作品はいくらでもあって、それはそれでひとつの文化として認められているわけですよね。


そして創作とは本来、「何でもあり」のとき、最も大きな魅力を放つものです。著作権はそういった可能性を限定し阻害しているとも見ることができるわけです。
ほんとうに作品を著作権で縛ることは正しいことなのか? 一考の余地はあるのでは。
ぼくはそれぞれの創作を「オリジナリティ」という幻想から完全に解き放って、神話の時代のように互いに影響しあい侵食しあうようにしてみたらどうなるだろう?ということに興味があります。
もちろん、それは個々の作家のビジネス的にはあきらかに問題を抱えることになるので実現はしないだろうとは思いますが、逆にいえば問題になるのは「文化」ではなく「商売」でしかないわけなのです。
そういったビジネス的な問題をどうにか解決して、うまいこと処理する手はないものなのかな、と考えます。
近頃、べつの意味で話題になったファスト映画にしても、そこには大きな秘められた需要があるわけですよね。あれがアウトであることは認めるとしても、それではその潜在的な需要まですべて否定できるかというと、そんなことはないでしょう。
いったん、ゼロベースでベターな創作のあり方を考えてみる。その先に何か新たな可能性が見えて来るかもしれない。ふと、そんなことを思いました。