小山田圭吾さんの「いじめ」発言を考える。
いま、東京オリンピックの開会式に楽曲を提供した小山田圭吾さんが、過去に「いじめ」の加害経験をインタビューで得意げに話していたことがネットで問題視されている。
あきらかな「炎上」事件だが、組織委員会はかれの「続投」を決断したという。
東京五輪・パラリンピック組織委員会は16日、東京五輪の開会式で楽曲を担当する「コーネリアス」の小山田圭吾(52)に関するいじめ問題について、不適切との見解を示した一方で、続投させる方針を明らかにした。
小山田は、1990年代に音楽雑誌でのインタビューで、障がい者への差別行為や人種差別、プロレス技での暴力など、同級生へのいじめ話を得意げに語っていた。

組織委員会はこのインタビューの存在を事前には把握していなかったという。
「小山田氏の過去発言について、事前に把握していたのか」などの質問に対する組織委の回答全文は以下の通り。
小山田氏の当該の過去の発言については、組織委員会として把握していなかったが、不適切な発言である。一方、小山田氏本人はこの取材時当時の発言については後悔し反省しており、現在は高い倫理観をもって創作活動に献身するクリエーターの一人であると考えている。開会式準備における小山田氏の貢献は大変大きなものであり、1週間後に開会する東京2020オリンピック開会式に向けて、引き続き最後まで準備に尽力していただきたいと考えている。

さて、この一件をどう考えるか。
あまりにもひどすぎる「いじめ」の数々。
まず、ぼくは小山田さんのファンではなく、かれの音楽にはまったく詳しくない。それを前提として、最初に確認しておくべきは、小山田さんの酷烈を究める「いじめ」の内容であると思う。
当編集部でも「ロッキング・オン・ジャパン」(1994年1月号)の原本を確認したところ小山田氏は以下のように語っていた。
「うん。もう人の道に反してること。だってもうほんとに全裸にしてグルグルに紐を巻いて(略)●●【編注:編集部にて伏字】食わした上にバックドロップしたりさ」
また『クイック・ジャパン』vol. 3の当該記事『村上清のいじめ紀行』で、小山田氏は当時いじめていた同級生に関し、次のよう語っていた。
「●●【編注:編集部にて伏字】って奴がいて。こいつはかなりエポック・メーキングな男で、転向してきたんですよ、小学校二年生ぐらいの時に。それはもう、学校中に衝撃が走って(笑)。だって、転校してきて自己紹介とかするじゃないですか、もういきなり(言語障害っぽい口調で)『●●です』とか言ってさ、『うわ、すごい!』ってなるじゃないですか」
そのうえで段ボール箱に閉じ込め、空気穴で黒板消しをはたき「毒ガス攻撃だ!」などといういじめを行ったのだという。いじめは高校時代にも続けていたようで、ジャージを脱がせるなどの嫌がらせをしていたようだ。

ぼくはこれを、「いじめ」という軽い言葉からの想像を超える鬼畜の所業であると考える。さらに悲惨なのは本人がそれを「笑い話」として気軽に語っていることで、まさに人間の暗黒面を覗き込む衝撃を感じる。
それは「大袈裟」なのだろうか。
ただ、この記事の内容に関してはいささか「大袈裟」なのではないか、という指摘もあるようだ。東浩紀さんのツイートを引用しておこう。
また、本人も記事には「誤った内容や誇張」があったと語っている。以下に謝罪文の全部を転載しておく。
この度は、東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への私の参加につきまして、多くの方々を大変不快なお気持ちにさせることとなり、誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます。
ご指摘頂いております通り、過去の雑誌インタビューにおきまして、学生時代のクラスメイトおよび近隣学校の障がいを持つ方々に対する心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実であり、非難されることは当然であると真摯に受け止めております。
私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳なく、本来は楽しい思い出を作るはずである学校生活において、良い友人にならず、それどころか傷付ける立場になってしまったことに、深い後悔と責任を感じております。
学生時代、そしてインタビュー当時の私は、被害者である方々の気持ちを想像することができない、非常に未熟な人間であったと思います。記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されておりますが、学生当時、私の発言や行為によってクラスメイトを傷付けたことは間違いなく、その自覚もあったため、自己責任であると感じ、誤った内容や誇張への指摘をせず、当時はそのまま静観するという判断に至っておりました。
また、そういった過去の言動に対して、自分自身でも長らく罪悪感を抱えていたにも関わらず、これまで自らの言葉で経緯の説明や謝罪をしてこなかったことにつきましても、とても愚かな自己保身であったと思います。
それにより、当時のクラスメイトだけでなく、学生時代に辛い体験をされた方々やそのご家族、応援してくださるファンの方々に対しても、不誠実な態度を取り続けることになってしまいました。本当に申し訳ありません。
学生当時、私が傷付けてしまったご本人に対しましては、大変今更ではありますが、連絡を取れる手段を探し、受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたいと思っております。
今回、私が東京2020オリンピック・パラリンピック大会に携わることにつきまして、否定的なご意見を頂くのは尤もであると思います。また、このコロナ禍において、国民の皆様が不安を抱えるなかでの大会開催に関与することへの疑問のご意見も頂戴しております。
本来であれば、様々な理由から、私の参加にご不快になられる方がいらっしゃることを考慮し、依頼を辞退すべきだったのかもしれません。しかし、課題も多く困難な状況のなか、開会式を少しでも良いものにしようと奮闘されていらっしゃるクリエイターの方々の覚悟と不安の両方をお伺いし、熟考した結果、自分の音楽が何か少しでもお力になれるのであればという思いから、ご依頼を受けるに至りました。
そのうえで、今回の音楽制作にあたりましては、自分なりに精一杯取り組んで参りました。それは、私だけではなく、他のクリエイターの方々も同様であると思います。故に、私の関与により、開会式へ不快な印象を与えてしまうことを心から申し訳なく思います。
この度、様々なご指摘を頂いたことで、あらためて、自分自身の在り方について振り返り、反省と再考をさせて頂く機会を得ました。それにつきましては、ご意見をくださった皆様に、感謝すべきことだと感じております。
私が傷付けてしまったクラスメイトご本人へはもちろんのこと、長年の私の不誠実な態度により、不信感や不快感を与えてきてしまったファンの皆様や友人たち、関係者の皆様に、心からお詫び申し上げます。
一人の人間として、また、音楽家としてどう在るべきか、自分は世の中や周囲の人々に対して、どういったかたちで貢献していくことができるのか、常に自問自答し、より最善の判断をしていけるよう、一層の努力をして参りたいと思います。

「90年代サブカル」の文化的背景。
もちろん、この謝罪文を全面的に信用することはできないが、おそらく実際、いくらかの「誇張」はあったのかもしれない。また、すでに何人かの人が指摘しているが、この記事の背景に「90年代サブカル」の空気があることはたしかなのであろう。
ぼくも少しだけ記憶があるのだが、その当時はいわゆる「鬼畜系」と呼ばれる「人間性のひどさ自慢」の文化が猖獗を究めており、今日のモラルでは考えられない発言が肯定的に語られる土壌があったのである。
ある種の価値相対主義の行き着くところというべきか。これが現代ではある「正義」を掲げて暴力を振るう価値絶対主義に逆転して継承されることになるのだが、その話はここでは措いておこう。
小山田さんのこの発言もそのような空気のなかで行われたものであり、いまの常識からするとあまりにもゲスで邪悪としか受け取れないものではあるが、当時は「面白い見もの」として受け取られた一面もあるのであろう。それは認めなければならない。
ただ、もちろんだからいま、この発言を許容できるかというと、それはまったく違う話である。いまの我々はこのあまりにも卑劣で醜悪な「いじめ自慢」発言を許すことはできないし、そのことで小山田さんが責められることはあまりにも当然であるとは思う。
障害者競技の祭典であるパラリンピックにふさわしくない人物だという指摘もまた当然のものだろう。
最低のクズが最高の音楽を歌うとき。
ただ、ここで冷静になって考えなければならないのは、かれの音楽とかれの人格は切り離して評価しなければならないということである。
より正確にいうなら、小山田圭吾の人格と、かれの作品と、かれがオリンピック・パラリンピックに参加にふさわしいかどうかということはそれぞれべつの問題だ。
「音楽に罪はない」というとあまりにも情緒的な言い草になってしまうし、リスナーの心理としてはその所業と作品を完全に切り離して聴くことができるはずもないのだが、少なくとも小山田さんがどれほど卑劣な人間であろうと、その作品がすべて無価値になることはない。
そして、逆にいうなら、かれの音楽がどれほど素晴らしいとしても、それがオリンピック・パラリンピックで取り上げられることがふさわしいかということはまたべつの話だ。
これは小山田さんのことを擁護するかどうかといったこととはまったくべつのことである。
じっさいに最も醜悪な人間が最も美しい芸術を成し遂げることはあり、それが人間の神秘な複雑性であるということは、受け入れなければならないのだ。
「善い人だけが良い音楽を作れる」のだったら話は単純だが、それは現実的ではない。かぎりなくクズのような人間であっても、最高の音楽を作れることはありえる。
このことをわきまえていないと、「良い音楽を作っているのだから、この人は善い人に違いない」といった倒錯したロジックに陥る可能性がある。それは端的に間違えている。
ジョン・レノンも聖人ではなかった。
たとえば、ジョン・レノンの平和を訴える音楽を聴くとき、この人はほんとうに平和を祈る心がつよいのだな、と感じるのはふつうだろう。だが、じっさいにはジョンは息子に暴力を振るったりしていたといわれている。

良くも悪くもこの矛盾こそが人間であり、逆にいえば悪魔的な作品を生み出す人がみな邪悪な性格をしているわけではないのだ。
「作家と作品は別もの」、あたりまえといえばあたりまえのことだが、ぼくなどはなかなかこの事実を受け止めきれない。どうしても傑作を生み出した人は深い人間性を持っているのだろうと思ってしまうところがある。
そして、だからこそ気をつけていなければならないと思うのだ。特にポップミュージックにおいては、そのアーティストの人間性に関する幻想と、その作品への評価がストレートに結び付けられる傾向がある。
だからこそ、ファンはその音楽に熱狂するとともに、アーティストをリスペクトし、ときには神格化すらするのだろう。
しかし、現実には最低のクズが素晴らしい音楽を生み出すことはありえる。その逆もまたある。音楽と人格は切り分けて考えなければならないのである。
ぼくは小山田圭吾さんがオリンピック・パラリンピックの楽曲担当にふさわしいとはまったく思わない。その所業を少しでも肯定的に見るつもりもない。
だが、それでもなお、かれの作品が輝きを失うことはないだろう。人間とはそういうものであり、芸術とはそういうものなのだ。とても残酷なことに。
結局のところ、いじめは面白い。
ここから先は7月19日現在の追記である。小山田圭吾「いじめ」問題が炎上し始めてから数日が経って、騒動はさらに広まっているようだ。
ぼくは、小山田さん本人がこの件で糾弾されることはある種当然だと思うのだが、その炎上のほむらが関係者にも広まっている様子であることは気になる。たとえば、息子の小山田米呂さんのところまで責任追及の声は届いているという。

あたりまえのことだが、親がどれほど極悪人であろうと、子供には一切の責任がない。ぼくはこの件に関して小山田圭吾さんの関係者や家族が責任を取る必要があるとは一切思わない。
当然といえば、当然に過ぎる話だ。このだれにでもわかる話があるにもかかわらず、一切無関係の息子にまで誹謗中傷が寄せられるのはなぜか?
簡単な話である。面白いからだ。反論できない相手に対し徒党を組んで「正義」の追及を行うのは楽しくてならないからだ。
これは、小山田さんが障害のある同級生に対する残虐な「いじめ」を楽しんだこととまったく同じ心理だろう。
結局、人間はいじめが大好きで、それを正当化する理由さえあれば、いくらでもいじめを行う生きものなのである。それはおそらく永遠に変わらないだろうし、ネットができて広まることはあっても鎮まることはないのだ。
むかつく奴はどんどんネットでいじめ殺そう! それがこの社会の「正義」なのだから。
それならそれで良い。だが、だったら「いじめ反対」などという欺瞞は捨てるべきだろう。正直になって「いじめ楽しすぎ(笑)」といえばいい。なぜそうしない?
それは「いじめ」か、それとも「正義」か。
だが、もちろん、今回の「炎上」に関わっている人の大半は、自分が「いじめ」に参加しているなどとは思ってもいないに違いない。
それはむしろアンチ「いじめ」の行動であって、「正義の糾弾」なのであると本心から信じていることだろう。それは、一面では正しいかもしれない。
それでは、ぼくたちはこのような「正義」と「いじめ」にどうやって線を引くべきだろうか。
今回の小山田さんの「いじめ」行為は、完全な悪意と嗜虐心から出たものであるといえ、ある意味ではわかりやすい。見るからに純度の高い「悪」である。
ただ、問題なのは、ぼくたちは「正義」の旗のもとにも「いじめ」を行うという事実なのだ。人は何かしらその行為を正当化できる理由があれば、どれほど酷烈な暴力もためらわない。
その事実は歴史が証明しているし、ネットでも何度となくくり返し示されてきた。プロレスラー木村花さんの悲劇的な事件はつい最近のことである。しかし、人間はすぐに忘れるものだ。また、自分は関係ないと考えるものなのである。

「正義」は「正義」。「悪」は「悪」。そんなふうに綺麗に分けることができればシンプルだが、現実はそうなっていない。ほんとうに「いじめ」をなくしたいという気持ちがあるのであれば、いまこそ冷静さと正気を取り戻すときだろう。
まあ、おそらく大半の人はいじめに反対するとは口先だけで、じっさいにはそんなつもりはさらさらないのだろうが。人間とはそんなものだ。
鏡のなかの悪魔。
あるいは、悪しき「いじめ」加害者を裁いてやっつければ、それで「いじめ」の問題は解決すると思っている人も多いのかもしれない。
だが、そんなはずはないのである。クラスでいじめが起こるときのことを考えてもらえばわかるが、じっさいには「いじめ」の加害者と被害者は容易に逆転しうる。あるとき、加害者であった人間が被害者にまわるということは十分にありえることなのだ。
これは、だから加害者も免責されるべきだとか、被害者のほうにも責任はあるといった話ではない。加害者はあくまで加害者であり、被害者はまちがいなく被害者以外のものではないが、その関係はいつどうなるかわからないといっているのだ。
じっさい、いま際限なく盛り上がっているこの小山田圭吾糾弾の話も、これからさらに二転三転することはありえる。たとえば、この件で関係者に自殺者が出たりしたら、多くの人は自分の発言を消して知らぬ存ぜぬを決め込むことだろう。ネットの「正義」とはその程度のものだ。
ぼくはだから小山田圭吾さんに対する批判や責任追及をやめろといっているのではない。むしろ批判は続けるべきだと思っている。ただ、より冷静な、高次元の「批判」が必要だと感じる。
自分の処罰感情を満たすためだけに他者を攻撃するのはもうやめよう。やっているときはそれで気持ち良くなれるかもしれないが、鏡を覗いてみるがいい、そこにはかつての小山田圭吾とまったく同じ邪悪な表情が映っているのではないか。
悪魔はぼくやあなたのなかにもいる。そのことを心して、それでもなおいうべきことはいおう。だれか人を批判するとは、そういうことだと思うのである。