細田守監督『竜とそばかすの姫』。
『サマーウォーズ』、『未来のミライ』などの作品で知られる細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』を映画館で鑑賞して来ました。
初日の初回で観たのですが、レビューはいまになってしまった。反省。
50億人がアクセスする未来的な仮想現実インターネット世界〈U〉を舞台にした物語ということで、事前にはやはり仮想現実を扱った『サマーウォーズ』に近い内容なのかもしれないとも思ったのですが、じっさいに観てみるとまったくの別もの。
作劇の方法論としては近いものもあるようにも思えるのですが、そのやり方そのものが高度にアップデートされていることを感じました。素晴らしい傑作です。
圧倒的な作画もあって、細田守最高傑作といっても良いのではないでしょうか。緊急事態宣言などとの兼ね合いもあるにしろ、これはヒットするだろうな。いま、映画館で観るべき一作といって良いと思います。
作画的にはチープさを感じさせつつも、アイディアの秀逸さと疾走感で魅せた『時をかける少女』から細田守はここまで来たのか、と感慨もひとしお。ずっと細田作品を追いかけてきて良かったと感じる作品です。
ここから下はネタバレ全開で話をしますので、未鑑賞の方は読まないでください。おじさんとの約束だよ?
『竜とそばかすの姫』のストーリー。
これは優れた予告編に共通する問題なのですが、ぼくはこの映画、予告編を観た段階でおおよそ話の筋が予想できてしまったように思えました。
いや、もう映画そのものを観てしまったように錯覚したくらいだったのですね。そのくらい、よくできた予告編だったと思います。
しかし、映画は予告で想像できたところから、はるかに遠いところまで飛躍しています。インターネットを荒らすものとして迫害を受ける〈竜〉とはいったい何者なのか? その謎を巡って展開される物語はスリリング。
途中までいったいどこに着地させるつもりなのだろうかと思っていたのですが、なるほど、こう来ましたか。〈竜〉の正体は親からの虐待を受けている子供で、その〈傷〉こそがつよさとなって表れているという筋書きは読めなかった。
今回は細田守監督じしんが脚本を担当しているようなのですが、かなりユニークなシナリオだと感じました。
物語の終盤、主人公すずは仮想現実世界のアバター〈ベル〉を捨て、インターネット全域に素顔を晒します。その展開は楽曲の魅力も絡んできわめて感動的なのですが、逆にいうとそこにクライマックスが来てしまっていて、以降の展開がいくらか弱く感じられることは否めません。
これは脚本上の欠点といっても良いのではないかと思います。とはいえ、すずが素顔のまま歌を歌うシーンはほんとうに素晴らしかった。演出の方向性としては『サマーウォーズ』と同じなのですが、監督の力量が進歩しているのを感じます。
『美女と野獣』へのオマージュ。
不見識ながらじっさいに映画を観てみるまで気づかなかったのですが、この作品はあきらかにディズニーの『美女と野獣』へのオマージュになっていますね(『美女と野獣』のストーリー自体はディズニーのオリジナルではない。念のため)。


映像的にもディズニーを連想させるところがたくさんありますし、何よりヒロインの名前が「ベル」というのはまさにそのままです。
となると、「美女(ベル)」と「野獣(竜)」のラブストーリーになるのかと思わせるし、じっさいぼくは途中までそういう展開を予想していたのだけれど、そういう方向へは進まないあたりが面白い。
ベル(すず)と竜は、同じく心に傷を抱えたものとして共感し合う存在なのですね。
すずは見知らぬ子供を助けて死んだ母に置き去りにされたというトラウマを抱えているのだけれど、自分自身もすべてを捨てて、まったく見知らぬ子供を助けようとする。そこにあるものは、「正義」を超えた利他の精神。
ここで初めてすずは母がなぜまるで関係のない子供の命を救うためにわが身を投げ出したのかを知ることになる。この展開はとても感動的です。
トラウマそのものに焦点があたるのではなく、どのようにトラウマを乗り越えていくかを描いているあたりが、非常に現代的だと思います。そういう意味では、『シン・エヴァンゲリヲン劇場版』にも一脈通じるところがあるかもしれませんね。
圧倒的な作画と音楽。
もっとも、この映画の見どころは、物語そのものというよりは、やはり圧倒的にリッチな映像であり、音楽でしょう。ある種のミュージカル映画といっても良いくらい、音楽に力点が置かれていたと感じます。
こういう映画を見せられると、『100日間生きたワニ』が酷評を集めるのもまあ無理はないのかもしれないと思いますね。
おそらく現代のアニメファンにとって、アニメ映画といえばこのレベルの圧巻の作画のカタルシスがあってなんぼのものというイメージなのでしょう。
じっさいにはそういう映画ばかりがアニメーションではないのですが、新海誠、庵野秀明、細田守といった面々の作る映画は、良くも悪くもそういうイメージを作り出してしまった。
そのくらい、いま、日本のアニメ映画の水準は高くなってしまっているということかと思います。それはまあ「良いこと」なのですが、すべての映画作品がそのレベルを求められるようだと少し窮屈ですよね。
ただ、『竜とそばかすの姫』のグラフィックの素晴らしさはいくら褒め称えられても良いとは思います。『サマーウォーズ』のときとは比較にならないほど進歩している印象。
ベルが空翔ぶクジラに乗っているあたりは、飛浩隆の短編「魔述師」を連想させるところもありましたね。
一方でネットの正義と秩序を司ると標榜する集団の名前が「ジャスティス」というのは、少々単純すぎる印象でもあります。あまりにもわかりやすい悪役というか。
また、この映画では「ネットの悪意」の存在は、「あたりまえにある前提」として描かれていて、そこはもはやテーマにはなっていない。その点は新しいものと感じました。
ネットに集まる「善意」と「悪意」。
ネットには膨大な量と「善意」と「悪意」が集まる。そして、ときとしてより厄介なのは「悪意」よりも「善意」であって、「正義」が最悪の地獄を生み出すこともある。そのような、いまではあたりまえのようにすら思える事実を、映画は端的に示してきます。
この映画を観てあらためて感じたのは、SFではないぼくたちの現実が、何というところまで来てしまっているのだろうということでした。
50億人がアクセスする仮想現実世界はもちろん空想的なアイディアですが、じっさいにぼくたちはそれに近いところまで来ている。『竜とそばかすの姫』で描かれた問題の数々はじっさいにぼくたちが直面しているものなのです。
その意味で、この映画は、フィクションではあるものの、部分的に真実を孕んでいる。そのことが映画全体に説得力を付与しているように感じました。
細田守さんは、絶賛とともに批判も多い監督です。『時をかける少女』にせよ、『おおかみこどもの雨と雪』にせよ、そのリアリティラインの高さゆえに、ある種のエシックライン(倫理の水準)を求められ、そこを問題視されることが多かったのだと思う。
また、現実的な描写と感動的なフィクションが矛盾しているところも多々あったのかもしれません。
しかし、『竜とそばかすの姫』で、細田守はその欠点もそのままに、新たな地平に飛躍しているように見えます。この夏オススメのエンターテインメント・ムーヴィーです。まあ、このネタバレ感想を読んでいる人はもう観ているとは思いますが、あらためて推薦しておきます。ほんとうに傑作でした。素晴らしい。