『ソードアート・オンライン』がわからない。
『ソードアート・オンライン』について考えています。
この作品が、わからない。いったいどうしてこのような作品が成立するのか? まったくわからない。
ぼくは〈アズキアライアカデミア〉という物語批評サークルに所属しているのですが、『ソードアート・オンライン』のことは〈アズキアライアカデミア〉の「宿題」といって良いと思います。
ほんとうに「謎」のままなのです。
あるいはこのように書くと疑問を感じるかたもいらっしゃるかもしれません。
『ソードアート・オンライン』はごくわかりやすい作品ではないか、と。
その魅力はあきらかにストレートにしてオーソドックスな、「王道」の作劇にある。まったくもって正しいエンターテインメントであって、そこに疑いを挟む余地はない、とか。
それはそうなのです。じっさい、『ソードアート・オンライン』は間違いなく「王道」の傑作です。
とにかくかっこいい主人公、とにかく可愛いヒロイン、次々と襲いかかる危機、強大にして邪悪そのものな悪漢たち――まさに正統なものがたり。
そこに疑問の余地はない。ぼくもそう思います。
しかし、問題なのは、なぜこの時代にこのような王道にして正統のエンターテインメントが成り立つのか?ということなのです。
現代日本は、このような形の王道が成り立ちにくくなっている。
それにもかかわらず、『ソードアート・オンライン』はそれを成立させている。なぜなのか。
「王道」とは何か。
この話を説明するためには、もう少しくわしく「王道」について話をしていかなければならないかもしれません。
物語の王道とは、勧善懲悪です。正義のヒーローが邪悪な敵を斃し、お姫様を救出する。そのようなストーリーがまさに王道といえるでしょう。
わかりやすいのが、宮崎駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』です。
この作品では、ルパン(ヒーロー)がカリオストロ伯爵(ヴィラン)と対決し、クラリス(ヒロイン)を救出します。まさに王道。
このようなストーリーこそが、神話時代から延々と語られてきた「人間がもっとも愛する物語形式」なのですね。
これは時代によって左右されるものではなく、かなりのところ普遍的な性格を持っていると思われます。
遺伝子に刻み込まれているとでもいうべきか、人間はこういう作品が好きなのです。
しかし、この「王道」は現代においてはなかなか成り立ちづらくなっていることも事実です。
現代においてウケるのは、「邪道」というわけではありませんが、個々の内面をもっと深掘りしたストーリーです。
現代においては、神話的なヒーローやヒロイン、ヴィランはもはや受け入れられないのですね。
ひと口にヒーローとはいっても、シンプルな「正義の味方」ではありえないし、ヒロインといっても、ただ助け出されることを待っているような女の子では説得力がない。
また、ヴィランにもヴィランなりの事情があるということがわかりきっている。
複雑な現代日本社会において、「勧善懲悪」のような単純な物語はもはや成り立たない。
『ソードアート・オンライン』と『Fate』を比較してみる。
そのことがわかりやすいのが、たとえば『Fate/stay night』です。
『Fate』シリーズの嚆矢となる作品ですが、主人公は「正義の味方」を目ざす少年、そして、かれのまえにさまざまな敵が立ちふさがる、と基本的には「王道」の構造を持っているのですが、物語のなかでは延々とこの「正義の味方」という概念に疑義が突きつけられます。
ほんとうに「正義の味方」などというものがありえるのか、悪はほんとうに悪なのか、また、清らかに見えるヒロインはほんとうに清純なのか、とあたりまえのエンターテインメントの方法論が深掘りされていくわけです。
そのことによって『Fate』はまさに傑作としかいいようがない物語になっているのですが、しかし純粋な「王道」とはいいづらいものに仕上がっていることもたしかです。
ここにはあきらかにメタ的に「王道」の物語を相対化する視点があり、その意味で「邪道」とはいわないまでも近代的な物語になっている。
これが、現代における「普通」の作劇です。
もちろん、『Fate』が平凡な作品だという意味ではなく、現代における通常の方法論を突き詰めて名作になっている作品だということですが。
だから、『Fate』はわかる。そこにつぎ込まれた才能と労力は膨大ではあるにせよ、とにかく一般的な方法論が使われていることはまちがいない。
で、一方の『ソードアート・オンライン』。これがわからない。
あまりにも教科書的なキャラクターとドラマツルギー。
『Fate』と比べてみるとあきらかなのですが、『ソードアート・オンライン』の骨格はきわめてシンプルです。
まず、主人公にしてヒーローのキリトくん。かれはほぼ神話の英雄といいたいくらい「ザ・ヒーロー」的なキャラクターです。
線の細い美少年で、戦わせれば無双。幾人もの女性たちから好意を寄せられるも、朴念仁を通す。
あまりにも教科書的な、いっそ没個性といいたくなるような性格。
いってしまえば、かれにはこれといった特徴がないように思われます。
『Fate』の衛宮士郎のような自己存在に対する懐疑がほとんどない。
一応、殺人を犯してしまった過去を悔やむ描写はありますが、それでも悪と戦うことそのものに疑問を抱いているわけではありません。
どこまでいってもかれは「正義のヒーロー」であって、神話的造形といいたいような性格を持っているのです。
これはヒロインのアスナや、数々の敵役たちにもいえることです。
かれらにはどこか「書き割り」的に没個性な印象を受ける。
かれらは「近代的自我」を深掘りされておらず、やはり神話的にシンプルな性格です。
最近、「王道」という言葉で称賛された作品に『進撃の巨人』がありますが、『進撃の巨人』ははるかに複雑な構造を持っており、善悪はずっと相対化されています。
あるいは、『魔法科高校の劣等生』なども、単純な善悪対決の構造にはなっていない。
それがいまの時代は「普通」のはずなのです。それなのに、『ソードアート・オンライン』は違う。なぜか。
『ソードアート・オンライン』の後継作は出て来るか?
ざんねんながら、ぼくはこの問いに明確な答えを示すことができません。
ほんとうにわからないんですよ。現代においては、「ザ・ヒーロー」、「ザ・ヒロイン」、「ザ・ヴィラン」といった単純なキャラクターでは読者は満足しないはずなのに、じっさい、『ソードアート・オンライン』は掛け値なしに面白い。大傑作であることはまちがいない。これが不思議でしかたないのです。
何か独自の方法論があるのだろうけれど、それが何なのかうまく指摘できない。
そういうわけで、『ソードアート・オンライン』のことはぼくたち〈アズキアライアカデミア〉の「宿題」となっています。
ただ、何かしらこの時代に「わかりやすい王道」を成り立たせる方法論があることはたしかで、その方法論はのちに継承されていくのかもしれません。
これは〈アズキアライアカデミア〉のYouTube放送で名前が挙がったのですが、たとえば『スパイファミリー』などはそれにあたるかも。
これも、非常にわかりやすいシンプルな骨格の物語です。あるいは、今後、このようなストレートな「王道」の物語は増えてくる可能性もある。
何といっても「王道」は面白いわけです。それが書けるなら「王道」がいちばん面白いに決まっている。
だから、今後、『ソードアート・オンライン』の後継者たちとでもいいたいような作品が続々と出て来る、そういうことになるかもしれない。
それまでにこの「宿題」を解けていると良いのだけれど。いま、ぼくはそのように考えています。