『プリキュア』は「性的視線」を遠ざけている?
「プリキュアは性的視線を意図的に遠ざけ、「女の子だから」という制約を打ち破った」と題する記事が話題になっています。

論旨としては、『ふたりはプリキュア』に始まる『プリキュア』シリーズは「「女の子だから」という制約を打ち破った画期的な作品」であり、キャラクターデザインも性的視線を遠ざけようとしている、いまの若い女子大生などはその影響を大きく受けている子も少なくない、といったものです。


これに対して、「いや、『プリキュア』のデザインも十分に性的である」といった意見もあるようです。
個人的にはあるイラストなりデザインが「性的であるかどうか」を明確に決定しようとすることには無理があると感じます。
よくいわれるように、結局のところ、ある絵画が性的であるかどうかはその絵そのものに内在する条件によって決まるわけではなく、それを見る視線の性質によって決まる。
性的に見る心があれば全身を布で覆っていても性的だと感じられるし、とくべつ性的と見なければたとえ全裸であっても性的ではない。そういうことでしょう。
「性的」なるものは内在しない。
「いや、そんなわけがない!」と思われるかもしれませんが、ぼくたちは美術館に飾られている裸婦の絵を見ても、特に性的とは感じないことも多いのではないでしょうか。
それはそういった絵画が高尚で芸術的だからではなく、ぼくたちがあえて性的なものを感じようとして見ていないからです。
その反対に、もともとは性的ではまったくないはずのセーラー服などにフェティッシュでエロティックなものを感じ取る人は数知れない。
したがって、『プリキュア』や『セーラームーン』のキャラクターデザインが性的であるか否かは決定することができないと考えます。
性的だといえば性的だし、性的でないといえば性的ではない、その程度のものでしょう。
さて、それとはべつに、上記の記事に『美少女戦士セーラームーン』に関連する記述がないことを指摘し批判する声もあるようです。

たしかに、『プリキュア』はそれ以前の作品に比べ、わりあい「政治的に正しい(保守的なお父さんやお母さんにも受け入れられやすい)」かもしれませんが、決して突然変異的にいきなり出て来たわけではないので、この指摘は正しいと思う。
ただ、『セーラームーン』に関する表現は、賛否を呼ぶところではあるでしょう。
この件に関しては、ぼくは特に意見を持っていないので、コメントを避けようと思います。
『プリキュア』とポリティカル・コレクトネス。
しかし、『セーラームーン』が性的な放縦さを抱えているかどうかはともかく、『プリキュア』がある種の「政治的正しさ」を志していることはどうやらたしからしい。
『プリキュア』シリーズに関しては、「プリキュアタブー」と呼ばれる禁忌の存在がまことしやかに囁かれています(スタッフのインタビューなどによって裏取りされているものもある)。

また、『プリキュア』はジェンダーの側面についても比較的リベラルであることで知られています。
『セーラームーン』が「美少女戦士」であり、ルッキズムを全面に出していることに比べると、やはり『プリキュア』には『セーラームーン』と差別化しようとする意図があったように思われてきます。
その結果、『プリキュア』はある種、「安全」な、「正しい」作品にしあがり、安定した人気を得て長期シリーズになっていったわけです。
これは原作付きの『セーラームーン』が莫大な人気を獲得しながら数年で完結したこととは対照的かもしれません。
シロウト目で見てみても、どこかに妖しい夜の気配を抱えた『セーラームーン』に比べ、『プリキュア』にはいかにも「健全」な印象があります。
そのいずれが正しくいずれが間違えているというものではありませんが、たしかに『プリキュア』の健康さを語って『セーラームーン』の妖しい魅力を語らないことは片手落ちであるかもしれませんね。
『セーラームーン』への「男性向け」の影響。
もうひとつ『セーラームーン』についていえるのは、男性向けの戦闘美少女ものの影響です。
これは明確に指摘することはできませんが、たとえば『幻夢戦記レダ』(1985年)などの隠然たる影響が1992年連載開始の『セーラームーン』にはあるのではないかと思うのです。
男性向け、女性向けとひと口にいっても、じっさいにはそれらは明確に分かれているわけではなく、互いに影響を与え合いながら連綿と歴史を紡いでいるわけであり、『セーラームーン』にそれに先行するオリジナル・ビデオ・アニメーションの影響があってもべつだんおかしくはありません。
そういう意味で、『セーラームーン』にはやはり「大人の男性の視線」を意識しているところがあるのではないか。
『セーラームーン』にどこかエロティシズムがただようとすれば、それは、そういうところにも理由があるのではないか。
そんなことを考えます。
もちろん、これはだから悪いということではありません。
ただ、『セーラームーン』をあくまで女性向け「だけ」の文脈で見ようとすると、かならずしも全体を捉え切れないのではないかと思うのです。
その前には『キューティーハニー』があり、『ダーティペア』があり、さらには『リボンの騎士』がある。


簡単に「見た目が性的か否か」というジャッジを行うのではなく、そういう歴史のなかで見ていくことが大切なのでしょうね。
女児アニメはどこまで「健全」であるべきか。
まあ、たとえ「女性向け」とされる作品でありデザインであろうと、じっさいにはそれが女性なり少女を描いているものである以上、男性の視線を完全に避けることはできません。
また、当然ながら女性にも性的な視線で捉える人はいます。
そして、子供であっても、いくらか早熟な女の子なら『セーラームーン』に性的なものを感じ取っていても不思議ではないでしょう。
また、『セーラームーン』はいわゆる「百合」同人誌の最初期のものを生み出した作品でもあります。
このとき、その種の作品を描いていたのは、女性が中心だったように思います。
つまりは女児アニメは何重もの意味で「キモくていやらしい大人の男性の目線を避けているものが正しい」とはいえないわけです(だれもそこまではいっていないかもしれませんが)。
大人が子供向けの作品に「正しい」ものであってほしいと願うことは当然といえば当然でしょう。
しかし、子供たちはかならずしもそういう「おとなしさ」を望まない。そこに大人と子供の対立がある。
『プリキュア』はその意味で、非常にバランスが取れたシリーズなのではないかと思います。
ぼくはそれほどくわしいわけでもないので(ごめんなさい)、これから視聴していきたいと思います。
すでに完結している『セーラームーン』はまだしも、『プリキュア』は膨大なので、とても端から見ていけるとは思いませんが、でも、なるべくがんばろう。
とにかく素晴らしい作品には、違いないのですから。

(看板娘)
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