例によって例のごとく、といって良いのかわからないが、『温泉むすめ』というコンテンツを巡って炎上事件が起こっている(ただし、『温泉むすめ』そのものが炎上しているわけではない)。
発端はフェミニストの仁藤夢乃さんのこのツイート。
まあ、なんというか、「ああ、いつものアレね」という感じのツイートである。
これが、「フェミの表現弾圧だ!」というこれまたいつもの反応を起こして炎上しているわけだ。
つまり、先述したように、今回は『温泉むすめ』というコンテンツそのものが問題視されて炎上しているとはいいがたく、むしろ『温泉むすめ』に対する批判者のほうがより燃えている状況にある。
『温泉むすめ』に対する批判がまったくないわけではないが、管見するところ、そこまで多くはない。
趨勢が変わった、というべきか。放火魔が放火に失敗してかえって自分が炎上していると見ることもできる。
また、このいかにもな感じの発言が、現在進行中のほかの騒動から話題を逸らす目的のものである可能性もすでに指摘されている。
ありえることだ。
しかし、今回はその点については触れずに、あくまでもこの発言から始まる一連のやり取りについて考えをまとめていこう。
というのも、この騒動は意外にもなかなか面白いものを秘めているからだ。
いったいどこが面白いのか。人によって表現に対する見方、考え方がいかに異なっているものであるかがあぶり出されているところ。
もう少し具体的にいうと、人により表現の「リアリティ」の感じ方が違っていることがよくわかる。
今回、問題視されているのは、温泉むすめのキャラクターたちの「飲酒」、「スカートめくり」、「夜這い」といった背景設定である。
これらが法律違反である、性暴力であるということで批判されている。
しかし、一方で「あくまでフィクションではないか」と擁護しようとする人もいる。
これらの対立軸は、一見するといつもの「フェミ対オタク」という構図であるように思える。
しかし、じっさいには今回は話がもっと広い層にまで届いている。
たとえば、このような意見がある。
これはまったくもっともな話で、ぼくも賛成する。
「スカートめくり」や「夜這い」といった行為を、あくまで現実的に捉えるなら、やはりそれは問題だろう。
もちろん、こういった描写が創作において許されないということではない。
ただ、広告が目的の表現である以上、このような賛否を呼ぶ表現が選択されることはリスキーである、とはいえるわけだ。
ただ、その一方で、マンガ研究家の伊藤剛さんが指摘しているように、おそらくこの「スカートめくり」や「夜這い」は、現実的にありえる行為というより非現実的な「フィクショナルな設定」として構想されたものではあるのだろう。
あくまで「スカートめくり」や「夜這い」といった行為が現実にはほとんど見られないものだからフィクションの上でコミカルに描くことが許容されると考えたという側面はある。
これが「スカートめくり」や「夜這い」が現実に社会問題になっていたりしたらこういう表現は選ばなかった可能性が高い。
しかし、同時に、それらは「完全に現実離れした設定」とまでもいえないのではないだろうか。
少なくとも、たとえば『ルパン三世』や『名探偵コナン』における犯罪描写ほど現実から乖離してはいないだろう。
だから、「それなら『ルパン』の犯罪描写は良いのか」といった擁護はあまり筋が良くないように思える。
そしてまた、「スカートめくり」や「夜這い」といった行為にどの程度のリアリティを感じるか、といったことも人によって違っているはずで、そこら辺が、今回、議論になっているポイントなのだろう。
あるいは、この点に関してはじっさいに被害を受ける可能性が高い女性のほうがより現実的な問題として受け止めやすいのかもしれない。
そこで認識のズレが発生している可能性はある。
くり返すが、この設定を糾弾する側は、「現実的にありえること」として批判しているのに対し、擁護しているほうは「あくまでフィクションのなかの設定」として守ろうとしているように見える。
ここに、決定的なズレがあるのかもしれない。
ぼくは、もちろん「スカートめくりなんて設定があるのは性的搾取! このコンテンツを消滅させろ!」といった暴論には反対だ。
しかし、この「スカートめくり」や「夜這い」といった要素に対して一定の拒否感が出て来るのは理解できるのである。
あるいはオタクや「表現の自由戦士」にいわせれば、「そんなことを感じるのはフェミニストだけ」、「フェミニストは客ではないのだから無視すれば良い」ということになるかもしれない。
だが、これは必ずしもそうではないだろう。
じっさいに、温泉地で可愛い女の子のキャラクターがスカートめくりが趣味だったりするところを見つけたら、ギョッとする人はいてもおかしくないはずだ。
それだけ、未成年による性的な行為にはインパクトがある。
それを「性的搾取!」などと考えるのは極端で暴力的であるとしても、だからまったく問題ではないということにはならないのである。完全アウトと完全セーフ、その両極以外に答えがないわけではない。
また、これらの設定の背景には現地のフォークロアがある、という話もある。
だが、いくら現地に伝わる神話や民話をもとにした設定であろうが、現代がすでに神話時代ではない以上、それらの情報を現代の広告キャラクターの設定に盛り込むことには一定の慎重さが求められることは当然だ。
その意味で、「スカートめくり」や「夜這い」の設定には、非常に危ういものがあることはたしかである(現在はこの点はすでに修正されているようだ)。
あくまで「温泉むすめは神さま」という設定なのだからそれらの設定も許容されるべきだ、という意見もあるようだ。
そもそも「神さま」に対して人間的な倫理観を求めることそのものが誤っているというわけだ。
しかし、これはそもそも「著しく、私たちの倫理観から逸脱し、顕著な嫌悪感を催すようなもの」の範疇が個人によって異なっているのだから、あまり意味がある議論になりそうにない。
ある人にとってアウトである表現が、ある人にとってはセーフであり、ある人にとってセーフである設定が、ある人にとってはアウトである。そういうことは現実にある。
まさに多様性である。
たしかに、今回の表現も、広告表現としてまったく問題ないとはいえないまでも、「表現の自由」の範囲内ではあるだろう。
しかし、なぜあえて広告表現にそのようなリスキーな設定が選ばれたのか、という点は不思議ではある。
ふつうに考えたら、温泉地という性犯罪率が発生しえるような場所の宣伝に、わざわざ問題になってもおかしくないような設定を盛り込む必然性がない。
ここではやはりオタク的な美少女キャラクターが、「性的なるもの」を切り離せずにいることが露出してしまっているのではないか。
もちろん、一概に性的だから悪いという話ではない。
だが、未成年と見られるキャラクターに性的な設定を盛り込むことには抵抗感がある人が大勢いることも事実である。
仮に設定では何千歳、何万歳ということになっていても、そこは「リアリティライン」の問題であって、そのような荒唐無稽な設定にリアリティを感じる人ばかりではないのだ。
今回、たしかにフェミニストによる炎上狙いのツイートは失敗し、オタクは団結、コンテンツを盛り上げようとしている。その意味で「趨勢は変わった」ようにも見える。
しかし、その一方で、オタクによる「フェミ」に対する決めつけ、コンテンツへの無理筋の擁護が増えているようで気にかかる。
たしかに、過去の事例によってオタクたちにもフラストレーションが溜まっているところではあるのだろう。
だが、そうはいっても、今回の「炎上」は過去の事例とは異なるものであり、個別に考えてみる必要がある。過去の例が問題なかったから今回も問題ない、ということにはならないのだ。
オタク文化を「規制」し、表現を「抹殺」しようとする動きには反対だが、個々の表現に対する「批判」そのものは自由である。
そして、オタク文化には、批判されてもおかしくないような「隙」が見あたることもほんとうだと思う。
「全部フェミの難癖!」とかたくなになるのではなく、批判はきっちり検討し、受け入れるべきものは受け入れていく。そのような柔軟な姿勢が必要とされるのではないか。
ひとりのオタクとして、そんなことを思った。