Twitterのインフルエンサーとして有名な白饅頭さんがスタジオジブリの雑誌「熱風」で連載を持つことが決まったらしいです。
かれは単著もあるライターなので、雑誌で連載を抱えるくらいのことはあってもおかしくないのですが、何しろ「あの」ジブリ。
いやあ、凄い。偉い。快挙。そう思ったので、ぼくは前のツイートが流れてきたとき、即座にこう呟きました。
シンプルな表現ではありますが、十分に賞賛の意図を込めたつもりです。だってジブリですよ? いや、どう考えたって凄いでしょ。
ところが、白饅頭さんのこの「快挙」は、なぜか四方八方から批判されることになります。
うに? いやいやいやいや。べつにおかしくはないでしょう。
ジブリの雑誌とはいっても、べつに一企業が運営する小規模な本でしかないのだから、だれに仕事を頼もうと勝手であるはず。それに対し文句をつけるのは、それこそ「表現の自由」の観点からいっても、おかしなことというしかないのではないでしょうか。
もちろん、原則論としては「こんな奴に仕事を依頼する雑誌なんて最低だ」とかいう自由もあるわけですが、まだ一本の記事も発表していない時点で批判することが有意味だとはぼくには思えません。
さらには、ジブリに対してこの件で問い合わせをした人もいるようで、そこまで行くとじつにうんざりさせられます。
意見が違うからといって人から言論の発表の場を奪ってはいけないでしょう。あたりまえのことじゃないですか?
いやまあ、「問い合わせをしただけで発表の場を奪うつもりはない」とはいえるかもしれないけれど、それならいったい何の意図でそういう問い合わせをしたのかという話ですよ。
何だかなあ。どうにも告げ口じみていてイヤになる。
あたりまえだけれど、ひとは書いた記事にこそ責任を持つべきではあっても、まだ何も書いていない時点で非難されるいわれはない。
今回の件で白饅頭さんから言説の場を奪おうとしている人たちには猛省を求めたいところです。
もちろん、もし白饅頭さんがその雑誌で発表した記事に問題があったら批判されることは当然ですが、だからといって何も書いていない時点で「あいつを排除しろ」という意見が出て来ることはいかにも陰湿。
どこかのフェミニストとやっていることが同じとしか思えません。
――と、このように書いてきましたが、じつはぼくは白饅頭さんの「味方」ではありません。
かれの言説にはおおむね一貫して批判的な人間です。
もちろん、膨大な言説を発表している人だから、そのすべてが間違えているとは思わないけれど、少なくとも読ませてもらった記事には違和を感じたものが多いことは事実。
はっきりとこれはおかしいと感じた記事も少なくありません。
しかし、だからといって「敵」だと思っているわけでもないんですよね。
というか、そのような単純で粗雑で乱暴な「敵/味方思考」でものごとを捉えてはいない。
それがあたりまえの態度だと思うのですが、違うのかな。うーむ。
それをいうなら、ぼくにはいろいろなところで意見が合わない、価値観がまったく違う友人がたくさんいて、ときに議論もするのだけれど、そのことでケンカ別れしたりはしません。
かんでさん(@kandetakuma)なんていちばんの友達だと思っているけれど、価値観が真逆(笑)。
いろいろなことに対する好みがまったく違っている。
でも、だからって「敵」ではないし、議論がヒートアップすることはあるにしろ、普段は仲良くやっている。そういうものでは?
ぼくはそれが普通だと思うので、多くの人が白饅頭さんがジブリの雑誌に連載を持てたことに反発する理由がピンと来ない。
いや、凄いでしょ、どう考えたって。
くり返しますが、もしその内容に問題があるようなら、そのときこそ読んだうえで批判すれば良いのです。
ぼくもときどき人を批判するけれど、それは敵意があるからじゃない。そういうものでは?
と、思うのですが、正直、ここらへんの感覚がどの程度に普遍的なのかよくわからない。
ひょっとしたらぼくの感性のほうがおかしいのかもしれない。
でも、みんな、Twitterで批判したり議論したり反対したりしている相手は言論を封殺しなければならない「敵」だと思っているの? ほんとに? それヤバくね?
ぼくが人の意見を批判するときは、それが間違えていると思うからそうしているのであって、べつに嫌いだから批判しているわけではありません。
それが普通というか一般的で多数派だと思うんだけれど、どうなのでしょう?
いやまあ、ひとのツイートを見て腹が立つことはあるし、嫌いな人ももちろんいますよ。
でも、やはりあたりまえだと思いますが、嫌いな人だから批判しているというほどシンプルな話じゃない。
このようなことがあるとぼくが思い出すのが、田中芳樹『銀河英雄伝説外伝』です。


この作品には、トマス・ミュンツァーという人物が出て来ます。別名「弾劾者ミュンツァー」と呼ばれる人で、あるとき、「顔も見たくない」と公言している大嫌いな男の弁護人に選ばれて、かれの無実を証明するため命がけで弁護を展開するんですよ。
ぼくは幼い頃、このくだりを読んで感動し、こういうふうでありたいと思い、以来、それを実践しているつもりです。
まあ、もちろんなかなかそこまではできないけれど、まあ、単純な「敵/味方思考」は良くないですよね。
そもそも、こういう「敵/味方思考」は自分が無条件の「善」であり、あいてが「悪」であると考えるところから出て来るものだと思う。
しかし、世の中はそんなに単純にできているわけじゃない。
また、仮にこれまでの意見が「悪」であるとしても、次のひと言が同じであるとはかぎらない。
だから、人から表現を奪ってはならないのです。それはやはり暴力なのですね。
まあ、もちろんそうしたいという気持ちがまったく理解できないというわけでもないのだけれど、でも、やっぱりこの手の姿勢に共感はないですね。
大人になろうぜ、みんな。