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『スティール・ボール・ラン』は荒木飛呂彦の最高傑作になるか?

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荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズ第七部『スティール・ボール・ラン』が、来月、最終回を迎える。

累計100巻を超え、なおも続く超大河作品だが、このシリーズに限っては停滞はまるで感じ取れない。物語はいまも驚くべき展開を続け、未踏の結末へ向け驀進している。

恐ろしいことに、100巻以上読んできている読者にとっても、先の展開は全く見えない。いったい来月、どんな結末が待ちかまえているのか、読者はただ楽しみに待つのみである。

しかし、この作品はいったい何なのだろう。普通、どんな作家も、何十年も描きつづけるうちに、その個性はかたまり、資質はあきらかになり、マンネリとはいかないまでも、おおよそ予想の範疇の作品を描くようになる。それなのに、荒木飛呂彦に限ってはその法則はあてはまらないようだ。

荒木はいまなお『ジョジョ』を更新しつづけている。その絵柄も、内容も、展開も、いままでの『ジョジョ』とは全く違う。その意味で、『スティール・ボール・ラン』は『ジョジョ』とは名が付くものの、事実上、完全な新作であるといえるのだ。

たしかに、その変貌に不満を持つ読者もいるだろう。よく見られるものは、レースとはいうものの結局やっていることはあいかわらずスタンドバトルではないか、という意見だ。

これは一理ある。しかし、スタンドバトルとはいっても、その内実は、いままでの『ジョジョ』とは全く違うことを理解するべきだとも思う。

重要なのはスタンドが出てくるか出てこないかではなく、そこに新たなチャレンジがあるかどうかだ。そうして『スティール・ボール・ラン』に、それはある。だから、ぼくは荒木を支持する。

内容があまりにも複雑になりすぎているという意見も目にする。たしかにそれはその通り。単純なアイディアバトル漫画としては、『ジョジョ』は第三部、第四部あたりで頂点を迎えているといえるだろう。

が、『ジョジョ』の魅力は本来、単なる「知恵くらべ」のおもしろさにとどまるものではない。『スティール・ボール・ラン』では、各登場人物は、その魂をかけて闘争している。

そこには、もはや第一部や第三部のような勧善懲悪の構造は見て取れない。だれもが罪を抱え、おののきながら生きている。主人公のジョニィですら相当にエゴイスティックな理由でたたかっているに過ぎない。

その罪の連鎖の果てにいかなる答えが待ち受けているのか。『スティール・ボール・ラン』が荒木飛呂彦の新境地にして最高傑作となりえるかどうかは、それによって決まることだろう。

『スティール・ボール・ラン』では、いままで様々な問題が未解決のまま提示されている。そこに何かしらの答えを見せてくれたとしたら、本作は文句なしにいままでの『ジョジョ』を上回るものとなるはずだ。

そう、たしかに、ここには第一部や第三部のようなわかりやすい構造はない。すべてがあまりに複雑に入り組み、単純なカタルシスを見出すことは困難だ。しかし、だからいままでの『ジョジョ』のほうが良い、とはぼくは考えない。

天才は変化しつづける。否。変化しつづけるからこそ天才なのである。凡人は一度成功したのだから同じことを繰り返せば良い、と考えるが、天才は自分の成功を確保しようという意思をもたない。

天才はときにいままでの読者を振り捨てながら、絶え間なく革新しつづけ、更新しつづけ、新たな可能性への冒険をやめない。

それが成功するかどうかは、天才にとってすら定かではない。しかし、実は挑戦そのものが最も価値あるものなのだ。そう、物語の始まりを告げるスティール氏のセリフを思い出そう。

「真の『失敗』とはッ! 開拓の心を忘れ! 困難に挑戦する事に無縁のところにいる者たちの事を言うのだッ! このレースに失敗なんか存在しないッ! 存在するのは冒険者だけだッ!」

荒木飛呂彦はいまも自らこの言葉を実践しているのである。

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