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なぜ「正しい批判」はむずかしいのか。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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コラム

「ほんとうの意味での批判」とは。

 いま、ぼくは「批判」、それも正しく批判すること」について考えたいと思っている。まずは、「本当の意味で批判的なのはどういう態度なのか」を考えた東浩紀さんのツイートを引用するところから始めよう。

 「メロンダウト」というブログではこれを受けて「「本当の意味で批判的な態度」について考える」という記事が書かれ、さらにそれに応答する形で「狐の王国」で「本当の意味で批判的な態度」は、まず褒めるところから」が挙げられた。いずれも優れて思索的な内容である。

僕達はなんでも批判できる。自分のような素人でも政治評論できるほどにカオスな状況である。なにをも批判できてしまう。そして、それと同じかそれ以上に、なにを批判しても批判として成立しない。そういう虚無さのようなものがずっと政治には張り付いているのだ。こうしてブログを書いてても誰にたいしてなにを言っているのだろうと、思うことがある。本当の意味で批判的な態度というのを考えるに、態度だけならばいくらでも批判的になれてしまうが、「本当の意味の批判」というと甚だ難しい時代を生きている。そんな気がしている。

確かに記事の通り、いまは複雑な状況にある。特に日本においては、バラモン左翼とビジネスエリート右翼が結託して資本主義を利用した全体主義を推し進めてるようにしか見えない。こういう状況で「批判的な態度」はどうあるべきか。

それはね、「褒めること」だと思うんですよ。

「批判」というと昨今の若者言葉の文脈では悪いことであるかのように使われているそうだが、批判そのものが悪いわけじゃない。ダメ出しをすることが批判だと思ってる人もいるようだが、「批判」にそんな意味はない。

① 批評して判断すること。物事を判定・評価すること。 (中略) ③ 良し悪し、可否について論ずること。あげつらうこと。現在では、ふつう、否定的な意味で用いられる。 批判とは – コトバンク

ここでも今の時代では否定的な意味で用いられると買いてあるが、本来は良し悪しを見分けることが批判なのである。つまり悪いところを指摘するだけが批判じゃない、よいところをしっかり指摘することも批判なのである。

 ぼくはこれらの記事を読んで、「なるほど」と思った。

正しく批判することは「否定」ではない。

 「よいところをしっかり指摘することも批判」。これは非常に目から鱗の指摘であった。

 そうなのだ。批判とは、ただ悪いところをあげつらい対象を全否定することではありえないのだ。

 ネットではしばしばある人物や作品に対する単なる中傷や人格攻撃としか思えない意見を目にする。

 そしてそれらを取り上げて、「ここまでいわなくても良いのではないか」などと語ると、即座に「それでは作品を批判してはいけないのか」、「自由な言論を否定するのか」といった声が返って来る。

 いままではそれもそうだと思いつつも、何かが違うという気持ちを抑えることができなかった。しかし、そう、そもそも問題にするべきなのは、そのような「批判」意見が言葉の正しい意味で「批判」になっているかどうかということなのである。

 それらはただ相手を「否定」しているだけで、正しく「批判」できていないからこそ問題なのではないだろうか。

 「批判してはいけない」のではなく、「正しく批判できていない」からこそ問題視する意味がある。そう思う。

 もちろん、ある人物や作品に対しどのような評価を下すことも自由ではある。「一定額のお金を払ったのだ。自由に批評する権利があるはずではないか」。このような意見も正当性はある。

 だが、ここからあえてもう一歩、思考を進めてみよう。「批判」と「否定」はどう違っているのだろうか。

ネットにはたくさん「批判」があるように見えるが。

 「批判」とは、「良いところと悪いところをあきらかにし、評価すること」である。それに対し「否定」とは「そのすべてが悪いところであると指弾すること」でしかない。

 だが、現実にはたいていのものごとには「良いところ」と「悪いところ」の両方があるのであり、全面的に「悪いところ」しかない「絶対悪」のような存在は考えづらい。

 だから、ある対象を「批判」ではなく「否定する」ことは、「その対象にも良いところがある」という一面の真理を拒絶することである。

 そもそも「良いところ」と「悪いところ」といったところで、それは人間の主観にもとづく価値判断以上のものではないのだから、きわめてあいまいな話である。それを絶対視することは端的に偏っている。

 一見すると、ネットには、大量の「批判」があふれているように見える。あるいは政治家に対して、あるいは映画作品に対して、どこを向いても「批判」ばかりであるようにすら思える。

 だが、その実、それらの正体は単なる「否定」でしかないことも少なくなく、正しい意味での「批判」意見は希少である。

 「正しく批判」することはじっさいには簡単なことではなく、それなりの能力を要求される。それに対し、ただ対象を否定し、揶揄し、嘲笑することはきわめて容易である。

 多くの人がそのような「否定」に偏ってしまうこともしかたないといえばそうなのかもしれない。

「くたばれ評論家」は利用される。

 だれにでも「言論の自由」はある。ある作品を表現すれば、それに対する「批判」意見があることをも受け入れなければならない。

 その原理原則を語ったのが、前回(https://somethingorange.biz/archives/5337)も取り上げた『エスパー魔美』の「神回」である「くたばれ評論家」だ。

 「あいつはけなした! ぼくはおこった! それでこの一件はおしまい!!」。その高潔な理念はいまなお正しい。たしかにどんな内容であれ批判は自由だ。

 だが、『エスパー魔実』の時代には、膨大な数の悪意ある「否定」が「批判」という名目で行われることは想定されていなかった。

 「くたばれ評論家」には「批判」といえばある一定のレベルを保っているものという前提が存在しているのだ。そのような否定者たちは、「くたばれ評論家」の理念を利用する。

 かれらは「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ」のだから、自分の意見も正当なのだ、その「批判」の神聖な権利をおまえは侮辱するのか、と反問する。

 しかし、かれらの「否定」はここでいう「正しい批判」とは異なっている。

 だから、その対象がなんであれ、ぼくたちは単に感情的に「否定」するのではなく、「正しい批判」を行うよう気をつけるべきなのだ。

 そして、「正しい批判」とは「褒める」、つまり「対象の良いところを見つけ出してそれを語る」ところからこそ始まる。これが、「批判」と「否定」を分かつ原則である。

それは「絶対悪」なのか?

 このように書くと、「いや、わたしが語ろうとする対象には良いところなどひとつもないのだから、必然的に悪いところを語らざるを得ないのだ」という意見が返って来ることが想定される。

 そうだろうか。たとえば芸能人であれ、政治家であれ、作家や映画監督であれ、どこかに「良いところ」はあるのではないか。

 そもそも「良いところ」と「悪いところ」とは見方、あるいは視点の問題に過ぎないのだから、それは「ある」とか「見つけ出す」というより「そう捉える」ものなのだと考えるべきであるように思える。

 そしてまた、「良いところ」と「悪いところ」は表裏一体であり、「悪いところ」は見方を変えれば「良いところ」をも胚胎している。

 だから、ひたすらに「悪いところ」だけを取り上げて「否定」するのではなく、「良いところ」と「悪いところ」の両者を見いだして比較しながら「正しく批判」する。そのような態度がいま、求められているのではないだろうか。

 すくなくとも、そのような水準に達していない意見は「批判」とはいえない、ということがいえそうだ。もちろん、それこそそれらの「否定」意見にも「良いところ」や「正しいところ」はあるにせよ。

 だが、そうはわかっていても、ネットでだれかは何かを「褒める」ことはむずかしい。したがって、「正しく批判」することも容易ではない。

 いや、万人が称賛する名作を「褒める」ことはたやすいが、賛否が分かれていたり、否定的な意見が大半であるようなものを「褒める」ことは大変なことなのだ。なぜだろうか。

「褒める」ことのリスク。

 これはじっさいにそのような「正しい批判」を試みた意見に対し、どのような反応が寄せられるかを見てみればわかる。

 まさに昨日、映画『100日間生きたワニ』を絶賛した記事を書いたヒナタカさんが、「映画『100日間生きたワニ』叩きやすいものを叩いて嘲笑うネットいじめへの激しい怒り」という記事で、かれの記事に対しどのような嘲り笑う反応が寄せられたかを語っている。

 筆者個人の話になって恐縮だが、試写で映画『100日間生きたワニ』を拝見し、掛け値なしにとても良い映画であると思ったため、別の媒体でタイトルから「傑作」であると評した記事を2本書いた。何しろ原作のプロモーションが前述したように大炎上した作品であるので、「激烈な反応も多少は来るだろうな」という懸念もあったが、それでも「まあそれも含めて注目されるならいいだろう」「反応を恐れて手を緩めるのもおかしいよな」と思ったので、素直に絶賛することはためらわなかった。

 その認識は完全に甘かった。「家族でも人質にされてます?」「提灯きたー」「#PR」などのコメントが続出した。言うまでもないが、筆者は(媒体も)媒体からの原稿料以外のお金はいっさいもらっていないし、誰1人からも「絶賛してください」と強要されてもいない。それでも一言二言だったら笑って済ませられたのだが、(少なくとも書き込みでは)そのような意見が大多数であり、それに賛同する方がほとんどという事実はさすがにショックだったのだ。

 さらに、「こんなゴミを褒めてる節穴評論家という扱いにされちゃうリスクがあるから大変だな」「自分なら100万円もらったって、こんな顔から火の出るようなステマ記事を自分の名前で書くことは出来ない。人生の汚点の対価として安すぎる」というコメントも寄せられていた。どうやら、彼らにとって(おそらく)観てもいない『100日間生きたワニ』を褒めることは「恥ずかしい」ことのようだ。その意見にも、賛同する方が残念ながら多かった。筆者だけでなく、他の方の映画を褒めた、または観たというつぶやきにも「いくらもらったんだろう」や「睡眠時間ですか?」という反応が届いていたようだ。

映画『100日間生きたワニ』叩きやすいものを叩いて嘲笑うネットいじめへの激しい怒り | bizSPA!フレッシュ
 映画『100日間生きたワニ』において、公開前から「レビューサイトでの荒らし」がはびこり、「予約システムで遊ぶ迷惑行為」までもが横行した。前者は(後述もするが)作品への誠実な批評をも貶めるものでもあるし、後者は限りなく犯罪に近い。言語道断な

 そう、これが「褒める」ことから始めて「正しく批判する」ことのリスクなのだ。

「褒める」ことは自分の「底」を開示すること。

 「褒める」、つまりある対象を肯定することは、一面で自分の「底」を見せることである。

 何であれ対象を揶揄したり否定したりしているかぎり、「自分がほんとうはどのような人間なのか」、その本質を見せる必要はない。

 だが、何かを「褒める」ことは「自分はこのようなことを良いと考える人間である」という、その「人格の底」を開示する行為なのだ。

 それが、世間一般で高く評価されている「わかりやすい名作」、「だれもが認める天才」ならそれでも問題ないかもしれない。たとえば、いま、メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手を「褒める」ことにそれほどのリスクはないだろう。

 だが、そうではないものを「褒める」ことにはそれなりの勇気がいるし、危険性がともなう。それは「自分の底」を隠したまま一方的に他人を攻撃するという愉楽に酔った集団のまえで、あえて「自分の人格の底」を公開することに他ならないからである。

 今回、意図してそれを行ったヒナタカさんの勇気にはつよい称賛を感じるしだいである。かれの意見もまた極端ではあるかもしれないが、その点をめぐる議論から「正しい批判」は始まるのだと思う。

 すくなくとも、じっさいに見もせずに、あるいは見ても見ることができずに、「こんなものはくだらないに決まっている」と決めつけるような層に比べ、その姿勢は圧倒的に真摯である。ぼくもこういうふうでありたい。

「あえて褒める」。

 だれかや何かに対し「偏った批判(=否定)」をすることの容易さに対し、「正しい批判(=批評)」を行うことは非常にむずかしい。

 そこには「自分をさらけだす」勇気が必要であり、さらに「さらけだした自分の本心に対し一方的に攻撃を加えられる」リスクがともなうからだ。

 だから、「賢い」人たちは「無条件に、全面的に褒める」ことをしない。もちろん、ただあらゆるものを否定しているだけでは評価は成り立たないから(そういう人もいるが)、「賢い」人は「あえて褒める」という態度を取る。

 それは何かを「誉める」ときにも「自分はちゃんとこの対象の欠点もわかっているし、そこを批判することもできるよ。決して「信者」なんかじゃないよ」というアピールをしながら「褒める」ということだ。

 そういう「褒め方」はわりあいリスクが低いといえるだろう。仮に「こんな作品を褒めるのか」と嘲笑われたとしても、「自分はちゃんと欠点もわかっていて「あえて」褒めているのだ。おまえのほうこそそんなこともわからないのか」と返すこともできる。

 だから、「賢い」人ほど「手放しで褒める」ことをしない。それは一種のリスクコントロールとして「正しい」。

 だが、それで良いのだろうか? そのような「賢い」姿勢に留まっている限り、そして「ほんとうの自分」をさらけ出さずにいる限り、「正しい批判」には届かない。

 なぜなら、「正しく批判する」とは、対象に対し裸で、一対一で向き合うことそのものだからだ。

「賢い」態度の限界。

 あるいは「あえて褒める」ことと「正しい批判」は一見して区別がつきづらいかもしれない。それらは両者とも対象の「良いところ」と「悪いところ」を併記するやり方だからだ。

 ただ、「あえて褒める」人は「褒める」ときにも条件を付ける。「自分は欠点もわかった上で褒めているよ」というアピールを欠かさない。

 それに対し、「正しい批判」を行う人は欠点は欠点としても、「褒めるときは無条件に褒める」。それが両者の落差だ。

 「無条件に褒める」ことのあまりのリスクの高さを考えるなら、「正しい批判」を行っているとみせかけて「あえて褒める」だけに留めることが「賢い」態度ではあるだろう。

 しかし、そのような「賢明な」姿勢にウンザリしている人も少なくないのではないだろうか? もっと真摯な、自分自身をさらけ出した「批判」をこそ求めている層もあるのでは?

 何といっても、クリエイターの側はそうやってリスクを犯し、自分をさらけ出すことなしには作品を作ることができないのだから。クリエイターが「血を流している」のと同じように、批判、批評を試みる側も「血を流す」覚悟を持つべきなのだ。

 それは決して「賢い」姿勢ではない。むしろ、相対的に「愚かな」姿勢である。だが、そういう「愚かさ」なしに何かを成し遂げることはできないのではないか。

 すくなくともぼくはこそこそと自分を隠し、何かを称賛するときにも「あえて褒める」に留まるような論者に失望している。

「高貴なる抵抗」の物語を始めよう。

 何かがネガティヴな意味で話題になったときにネットで繰り広げられる「否定」意見の数々を見ていると、神山健司監督のアニメシリーズ『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GiG』に出て来る「水は低きに流れる」というセリフが思い浮かぶ。

 それは水が低いところに流れていくように、人の心もまた安易な方向に流されるという意味の言葉だ。

 とくに現在のインターネットでは、人はあたりまえのように悪意に流され、それは拡大し、巨大な濁流となってささやかな善意や「正しい批判」をも呑み込んでゆく。

 それは止めようのないことなのだろうか。ぼくはそうは思わない。どのような場合にも、そのような「正義」、「正論」の貌をした悪意に対抗し、自ら「賢い態度」を捨て、裸の自分をさらけ出し、「信者乙www」と嘲笑われながらも、「正しい批判」を行おうと試みる人々がきちんといるからだ。

 それをぼくは「高貴なる抵抗」と呼びたい。ネットでそのような「高貴なる抵抗」を行うことは、一見すると何の意味もない弱弱しい行動に思えるかもしれない。

 だが、そうではない。そのような行為の積み重ねこそが「水は低きに流れる」現実を変えてゆくためのその端緒なのだ。

 その抵抗の物語をいま、ここから始めよう。賢さを捨て、危険を選ぶのだ。「安易な否定」をやめ、「正しい批判」をすることが報いられる、そんな「新しいインターネット」を作っていこうではないか。そこにこそ人間の高貴さは、高潔さは宿るのである。

 ぼくは、そう信じる。

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