ほんとうに評論家は必要なのか?
先日のラーメン評論家の不祥事に関連して、「評論家不要論」を巡る議論が湧きあがっているようだ。不祥事そのものについてのぼくの意見は以下の記事を参照しただきたい。この記事では、「ほんとうに評論家は必要なのか?」という話を展開しよう。
さて、いきなり結論から書いてしまうと、個人的には評論家、あるいは批評家といわれる人たちは当然必要だと考えている。
評論家がいなければその文化を体系的にまとめる人はいないだろうし、個々の作品に対する信頼のおける評価も見つけづらくなる。必然、文化の発展は遅れることになるだろう。したがって、評論家不要論はまちがえている。証明終了。
で、終わらせてしまいたいところなのだが、そうはいかないのは、ここでぼくがいっている評論家とは、あくまで「優秀な」評論家のことだからである。
医者や弁護士とは異なり、評論家を名のるためには特別な資格は必要ない。市井の一個人でも評論家になることは可能だし、じっさいそうしている人もそれなりにいるように思われる。
おそらく、いまさらながらに評論家不要論が持ちあがったのは、評論家の中身が玉石混交、しかも石のほうが多そうな状況があるからだろう。ぼくも無知で無能な評論家は不要だと考える。そういう存在は、へたをすると有害ですらある。
とはいえ、評論家の能力をどのようにして測れば良いのか。
ラーメン評論家必要論の六か条。
いろいろな論点があるだろうが、以下のブログ記事では、ラーメン評論家の必要性を六つの点に求めている。
①ラーメン評論家がいるおかげで、短期間で優れたラーメン店をたくさん知ることができる。
②ラーメン評論家は新たなラーメンのトレンドを示すことができる。
③ラーメンが好きなだけでなく、常に厳しい目でラーメンを見つめる。
④評論家はわれわれ(皆)にラーメンのことを深く教えてくれる。
⑤ラーメン業界の寡占化を防ぎ、新たなチャンスを皆に与える。
⑥ラーメン店主さんはお客さんのために、ラーメン評論家はラーメンそれ自体のために。

この六項目を見て思うことは、これらの要素のかなりのところがインターネットによって代替されてしまっているということだ。
ぼくはラーメン業界にはくわしくないので自分が好きな漫画や映画の話に置き換えて考えるが、いま、ぼくが新刊や新作をみつくろうとき、最もひんぱんに利用している「評論」は、Amazonやブックウォーカーなどのレビューである。
もちろん基本的にシロウトの意見に過ぎないので、個々のレビューのレベルは決して高くないだろうし、信頼性も低いと思うのだが、膨大な数が集まって集合知となることで一定の信頼を置くことができるように思う。
これは、ラーメン業界でいうなら「食べログ」あたりに相当するのだろう。この種の投稿型レビューサイトの登場によって、個人評論家の存在価値はたしかに下落したのではないだろうか。
大衆文化に評論家はいらないのか?
これらのサイトに寄せられる意見は、シロウトの偏見に過ぎないといえばそうなのだが、その意見を利用する側もシロウトなのだから、数が集まればひとりのプロの意見以上に信頼ができるというわけである。
むろん、無条件で多数派が正しいわけではないのだが、それでも、慎重に個々の意見を確認しながら利用すれば、かなりの精度を期待できるように思う。
とはいえ、評論家の仕事は良い作品を取り上げ評価することだけではない。その作品について深く掘り下げ、一般の人が理解し切れないところまで把握してそれを文章化するということは、やはり重要な仕事だろう。
たとえば以下のツイートでは、評論家の必要性についてこのように語られている。
しかり。やはり一般人にとって極度に難解だったり奥深かったりする作品を「解読」する人間は必要だろう。
とはいえ、この意見を受け入れた上で、なお、このようにもいうこともできそうである。つまり、ピカソの絵のような高度で複雑で一見して理解できない芸術には「評論家」は必要だけれど、ラーメンのような素朴で大衆的で、だれにでもうまい/まずいがわかる料理にはそれは必要ない、と。
ぼくはいま、ネットで議論になっている「評論家不要論」とは、じっさいにはこのような意見であると考えている。つまり、正確には「評論家不要論」なのではなく、「ポップカルチャーの評論家不要論」なのである。
評論家はどこかエラソーである。
今回、ラーメン評論家がやり玉に挙がったわけだが、そもそもそのバックグラウンドには、漠然とした「評論家」という職業への反感があったのだろう。
何といっても、評論家には、自分では何も生み出さず、生み出せもしないのに、他人の作品に対してエラソーに上から目線で裁定する、というネガティヴなイメージがある。
もちろん、そのような評論家ばかりではないのだろうが、評論なり批評という行為そのものが、傲慢さや上から目線を孕んでいることはまちがいない。
他人が作ったものを、やれこれは面白い、こちらはダメだとか、うまいの、まずいのと語り倒すことは、どんなに謙虚にしていても、やはりどこかエラソーである。
しかも、創作なり料理といったクリエイティヴな作品作りと比べて、評論はハードルが低い。すくなくともそういうふうに見られている。
だから、評論家には、「自分には何の能力もないくせに、他人の作品に対して主観で優劣をつけるエラソーなカンチガイ野郎」という反感が集まることになる。
おそらく、膨大な専門知識や高度な学識などが必要な分野の評論家に対しては、そこまでの反発はないのではないだろうか。
そういった真にプロフェッショナルな評論家が必要とされるジャンルは、やはりある。だから、いまほんとうに問題となっているのは、「集合知でおおよその評価を出すことが可能なポップカルチャーに、本質的に傲慢な存在である評論家は必要か」ということだと思うのだ。
創作と批評のあいだに壁はない。
もっとも、いままで書いて来たことは、まったく逆の意味で受け止めることもできる。たしかに、インターネット、特に投稿型レビューサイトの発達で、「マジョリティの平均的意見」は容易に可視化されるようになった。
それらをうまく利用していれば、それなりに効率よく良い作品を見つけられるようにもなった。だが、まさにそうだからこそ、ネットの意見は極端に一方向に流されやすくなったともいえる。
これは傑作、それは駄作、といった一面的な評価が共有され、反論が許されなくなるような空気が、ネットにはつよくある。そういった圧力に抵抗し、強烈なエゴと明晰なロジックをもって作品の価値を主張する、いま必要なのはそういった評論家なのではないだろうか。
もちろん、それは容易なことではない。ただでさえ評論家は反感を買いやすいのである。その種の評論は、さらに大きな反発を集めるかもしれない。
だが、現代において、毒にも薬にもならないような多数派に寄り添うばかりの意見はまったく価値がない。つまりは、それ自体がひとつの作品ともいえるような評論でなければ意味がないのである。
否、評論とはほんらい、ひとつの芸術作品であるべきなのだろう。ある意味では、創作と評論のあいだに壁はない。優れた創作とはどこか批評的であり、面白い評論はもはや創作の域に入っている。そういうものだ。
あらしのなかで頼りになるコンパスは自分自身の感性だけ。
たとえば、新海誠の映画を見るとき、ぼくは、「この監督には、世界がこういうふうに見えるのか!」という衝撃を味わう。自分の目にはまったく平凡としか見えない都市が、田園が、圧倒的に美しく輝いているところを見せられることのインパクト。
そして、良質の評論を読むときにも、「この人はこの作品をこういうふうに受け止めるのか!」というショッキングな驚き、センス・オブ・ワンダーがある。
それは、まったく同じものを見ているにもかかわらず、その人の目には自分には見えない深いところが見えているということである。
そもそも、世の中には客観的に優れた作品が存在しているわけではないのだ。どんな作品も、だれかの主観によって見いだされて初めて初めて価値を持つ。
そういう意味では、評論とは作品のなかに内在している価値を創造的に発見していく行為なのである。決して、素晴らしい作品とそうではない作品がだれの目にもあきらかなわけではない。
一見すると凡庸としか思えない作品ですら、具眼の評論家の目を通すと、驚くべき深みを示すことがありえる。ぼくたちが評論家を必要とするとすれば、それはかれらの「目」や「舌」がだれよりも深く作品を捉える場合だけである。
だから、評論家は大勢に迎合することなく、あくまでも自分の感覚を信頼していなければならない。評論家よ、あらしのように言葉が飛びかうなかでなお、北極星のような己の感覚のみをコンパスとせよ。ぼくは、そういうふうに考える。
映画評論家・淀川長治という指標。
たとえば淀川長治は、テレビでの好々爺的なイメージとはうらはらに、映画の評価に関しては、決して大衆におもねらなかった。
当時、記録的なヒットを遂げていた『タイタニック』を酷評したかと思えば、『ケロッグ博士』のようなマイナーなカルト映画をベストに選んだりした。
ルイ・マルがナチス占領下のフランスの寄宿学校を舞台にしてヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞した『さよなら子供たち』を貶して、同じ監督による幼女売春ものの『プリティ・ベビー』を絶賛したりしている。
かくて幾多のマルに酔い、アメリカに転じたときの第一作『プリティ・ベビー』(1976年)、この美しさにアメリカは唖然としたに違いない。けれど夜の女たちのやかた。小さな娘がついに客をとった、商売した、そのことを母がお祝いした。アメリカはこのマルを煙たがった。このマルが再びフランスに戻ったが、力衰え『さよなら子供たち』(87年)でトリュフォーのまねをした。馬鹿ったれと思った。
モラルなんて関係ないのだ。いかに美しいか、それだけ。そしてあくまで自分の感性と論理にしたがって映画を見ていて、世間での評価など知ったことではなかったのである。これがほんとうの評論家の覚悟である。
いま必要なのは、このような世界に逆らってでも己の意思を貫く評論家だけである。そうでない評論家は、まったくもって、必要ない。
プロフィール
海燕(@kaien)。
1978年7月30日生まれ。生まれながらの陰キャにして活字中毒。成長するとともに重いコミュニケーション障害をわずらい、暗黒の学生時代を過ごしたのち、ひきこもり生活に入るも、ブロガーとして覚醒。はてなダイアリーで〈Something Orange〉を開始する。
そののち、ニコニコチャンネルにて数百人の有料会員を集めるなど活動を続け、現在はWordpressで月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員でもある。
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