これからの物語はどういう方向へ向かうのか?
ども。〈Something Orange〉管理人の海燕です。
今回は「物語はこれからどういう方向に進んでいくのか」について話をしたいと思います。
もう少しかっこつけていえば次世代(ネクストステージ)の物語はどこへ行くのか、ということですね。
さて、どこからお話ししましょうか。
そう、ぼくたちはYouTubeで〈アズキアライアカデミアラジオ〉という配信を行っているのですが、前回の放送で、ちょっと「最近の物語の傾向」について話をしたのですね。
ひと口に傾向とはいっても、当然、昨今の物語作品を総覧して全体を語ることはむずかしいので、ぼくたちの視界に入っている作品について語ることになってしまうのですが、それでもひとつの現状の感想として、「これといったマクロ的な作品が出ていない」という話題が出ました。
ここでいう「マクロ」とは、経済学から持って来た概念で、人類とか世界といった巨大なスケールを扱っているというほどの意味です。
つまり、このところ、人類や世界というスケールでストーリーを展開させている作品のなかでとくべつ傑作といいたいものが出て来ていないな、と。
まあ、ひょっとしたらどこかにあるのかもしれませんし、ぼくたちが忘れているだけという可能性もありますが、少なくともヒット作といえるものの傾向を見るかぎり、わりとミクロなスケールに収まっている印象があるのではないか、と。
最近、『少年マガジン』の連載作品が気づいたら半分はラブコメになっていた、という話がありますが、まさにそういうミクロなスケールの作品がこの頃はむしろ主流で、マクロな作品はパッとしない感じがあるのですね。
偶然かもしれませんが、「小説家になろう」でも恋愛ものが人気になっているとか。
未来に希望がないからマクロなストーリーが描かれない?
くり返しますが、これはあくまでぼくの視界から見てそう見えるだけの話なので、ほんとうにそうなのかはわかりません。
ただ、ぼくの観測範囲で印象的なビッグスケールの人気作品というと、テレビドラマ版の『日本沈没』がこれからどうなるのかな?と感じる程度で、あまり目立つ作例が思いあたらない。
映画もミクロな恋愛ものが多いように思えますね。
これは、時代背景によるものがあるのかもしれません。
人類や世界を俯瞰するマクロなストーリーとはいってはみても、日本の現状を見るかぎり、まったくそこに希望を持ちようがないということなのかもしれない。
お隣の中国ではいまSF小説が人気を集めているそうですが(中国のAmazonへ行くと『ハイペリオン』や『ファウンデーション』といった名作SFの中国語版らしいタイトルがランキング入りしている!)、それは日本とは逆に未来に期待を持てる状況にあるからなんじゃないかな、と思います。
希望や期待だけではなく不安も未来SFの素材になりえることは、それこそ『日本沈没』の例を見ればわかるものの、いまはそういうショッキングな不安すらとぼしく、ただただ灰いろの失望が続いているだけの時代ということなのでしょうか。
もちろん、こういう状況は一夜にして逆転することもありえるので、じっさいにはどうなのかわからないものの、いまのところマクロなヒット作はあまり見あたらないようですね。
いまは停滞の時期なのかもしれない。
ただ、エンターテインメントの潮流は、この種の停滞期と革新期をくり返しながら進んでいくものであることもたしかです。
庵野秀明監督が『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の四部作を始めるとき、『エヴァ』以降に『エヴァ』より新しいアニメはなかったと語って話題になったことがありましたが、たしかにその時期は一種の停滞期で、あまり革命的に目新しい作品はなかったように思います。
そしてその後、『魔法少女まどか☆マギカ』や『進撃の巨人』などが出て来て状況が一気に変わることになるわけですね。
そういう事情を考えると、直近に『エヴァンゲリオン』と『進撃の巨人』が幕を閉じたばかりである以上、いまが「空白期間」に相当しても不思議ではないのかもしれない。
これでもし『ONE PIECE』と『名探偵コナン』が完結したら、完全にひとつの時代が終わる印象ですよね(いつまでも終わらない可能性もあるけれど)。
まあ、とにかくいまは面白いマンガやアニメには事欠かないながら、あまりマクロなスケールの情勢を追いかけた作品はないのではないか、というのがぼく(たち)の現状認識です。
逆にいえば、そこが空いているともいえるわけで、今後、そういったところがねらい目なのかもしれません。
それでは、今後、その空隙にどのような作品が出て来るか?
もちろん、それがわかったら自分で書いて大儲けしているという話なのですが、ひとつ、ヒントはあります。
『進撃の巨人』終盤の展開です。
「異なる種」同士に共存の余地はないのか?
世界的に大ヒットした『進撃の巨人』のクライマックスでは、主人公エレンによる人類大虐殺のようすが描かれました。
これは、「同じ人間」の所業という見方をすれば単なる許されるべからざる行為なのですが、「異なる種」の自衛と見ると、まったく見え方が違ってくる。
それが〈アズキアライアカデミア〉の視点です。
「同じ人間」なら、「話し合えばわかりあえる」ということもありえますが、そもそも「種」としてまったく異質であるとしたら?
どちらが相手を抹殺し尽くすより他にない、という結論が出てもおかしくありません。
じっさい、現行人類ホモ・サピエンスはほかの「人類」やいくつもの種を殺し尽くしていま繁栄の時を迎えているのですから……。
また、いま、何かしらインターネットを利用している人なら、あらゆるところで「価値観の対立」がひじょうに極端な形になっていることを肌感覚でご存知でしょう。
それは右翼対左翼かもしれないし、男性対女性かもしれない。あるいは、フェミニスト対オタクでも良いでしょう。
しかし、とにかくさまざまなところで「お互いにまったく理解できない、理解する気もない集団の対立」が際立っている。
これはもちろんインターネット成立以前からあったことではありますが、ネットが介在するようになって極端になったことも事実でしょう。
同じ社会で生き、暮らしているにもかかわらず、まるでまったく「異なる種」であるかのように理解しあえない人々……。
それが2021年の社会の実状です。
エレンの行動の真意とは?
そういうことを考え合わせてあらためて『進撃の巨人』を見てみましょう。
そうすると、この物語においてエレンが選択した行為は、単なる「仲間の利益を最優先する」ことではなく、「自分たちの種を守り抜くために異なる種を絶滅に追い込むことも辞さない」ことであったのかもしれないとわかります。
エレンは「自分たちの種」を「もうひとつの種」から守り抜くためにこそ、その「もうひとつの種」の絶滅を目ざした。そういうことなのではないでしょうか?
そしてまた、この「種」という概念が、先ほど述べたように「分断と対立の時代」を迎え、相互理解できないままに対決しつづける人々のアナロジーであることはいうまでもありません。
現代政治の課題はまさに社会の「統合」なき「分断」であるといわれますが、『進撃の巨人』はその「お互いに決して理解しあうことができない人々」のありようを「異なる種のあいだの絶滅戦争」という形で描きだしてみせたわけです。
その意味では、あるいは最終回の結論は腰砕けであるかもしれません。
しかし、相互に不信や無理解を抱えて分断された社会の行く末が、「どちらかの殲滅」でしか終わらないということを明確に示した意味で、やはり『進撃の巨人』はものすごい作品であったと思います。
2020年代初頭の最先端のテーマといって良いでしょう。
あるいは『鬼滅の刃』にしても、最後までまったく和解することのない「善」と「悪」の全面対決を描いていたという意味で、やはり「分断の時代」を象徴する作品ということができるでしょう。
絶滅戦争、そして結婚。
そうなると、必然、今後の作品は『進撃の巨人』のこのテーマを何らかの形で乗り越えることが求められる。
「社会の分断」の行く末が「絶滅戦争」でしかありえないことはわかった。
それでは、人類に残された選択肢はそのような末路でしかないのか? 他にたどるべきルートはありえないのだろうか?
そのようなことが問われるのだと思います。
逆にいえば、「まったく異なる文化や価値観」のもち主同士での「対話」は可能なのか? そして、四分五裂した社会をふたたび「統合」に導くことはできるのか?
それは、現代の社会の、政治の、そして物語の最先端にして最重要のテーマということになるでしょう。
ここで〈アズキアライアカデミア〉のメンバーでありぼくの友人のペトロニウスさんがYouTubeで面白いことをいっていました。
最近、『トニカクカワイイ』や『焼いてるふたり』を初めとして、妙に増えているように思える「結婚もの」の背景にも同じ「分断のテーマ」があるのではないか、というのです。
つまり、共同体の分断と異文化の共存、それがネガティヴな方向に進めば「絶滅戦争」に至る。
それでは、ポジティヴな方向に進めば? それは「結婚」になるというわけです。
いい換えるなら、対立と分断の時代におけるある種の融和の象徴、それが結婚だ、ということになるでしょうか。
決定的に異なる文化の間の対立なり対決がプラスに出れば絶滅戦争だし、マイナスに出れば結婚になると。
これは驚異深い指摘だと思います。
異文化の対立と衝突から新しい文化へ。
ペトロニウスさんは『姫騎士は蛮族の嫁』や「小説家になろう」連載の『貧乏侯爵は蛮族の娘を妻にするしかなかったの!』などを例に挙げていますが、ようは異文化同士の衝突がプラスに出て新たな文化を生み出していく、ということもありえるのですね。
となると、次の課題はどうすればお互いに理解しあえず、宿命的に対立する価値観を持っているかもしれないもの同士が、絶滅戦争に至る対立ではなく、和解と共存の道を歩むことができるか? そういうことではないでしょうか。
とはいえ、お互い「種」のレベルでまったく共存の余地がないのではほんとうにどうしようもないかもしれない。『鬼滅の刃』にしてもそういうストーリーでしたよね。
それならやはり絶滅戦争しかないのか? 互いに自分たちのありようを「善」であり「正義」と信じて、盲目的に戦うよりほか道はないのか? それとも「異なる文化同士の結婚」はありえるのか?
そういったあたりが「次の時代」のメインテーマになってくるのではないか、とこれはまあ、ただの妄想に近い予想になりますが、そういうふうにいまは考えています。
マクロのレベルでこういったテーマを扱った作品が出て来るようだと面白いですね。
そうなると、一気に「停滞期」を突破して、次の文化的発展が見込めるかもしれません。
革命の火ぶたを切るのはだれなのか? とてもとても楽しみです。

いま、社会は「分断と対立の時代」を迎えている。それを象徴するのが『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』の「異なる種同士の闘争」という描写です。そして、一方ではそれは「結婚もの」にも結びついている。次の時代がどの方向へ行くか? とても楽しみなことですね。
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