アニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』を完走しました。ひとこと、面白かった!


最近あまり通してアニメを観ていなかったのだけれど、これは大あたりでしたね。
評判の良いセカンドシーズンから観始めるという邪道を選んでしまったわけですが、まったく問題なく楽しめました。
「ボクっ娘」のトウカイテイオー、好みだ。どうもボーイッシュな子が好きなんだな、ぼくは。
物語は異世界(ぼくたちが住んでいるこの世界)の競走馬の名前を受け継いだ「ウマ娘」のひとりであるトウカイテイオーが「トレセン学園」に入学してくるところから始まります。
生まれながらに天才的な走力を持つ彼女はかつての三冠馬ウマ娘シンボリルドルフに憧れを抱いており、自身も三冠馬を目ざしています。
しかし、彼女の行く手には想像を絶する困難が待ちかまえていたのです……。
いやあ、思い出しただけで泣けるわ。『艦これ』以来、いくつも見かけるようになった擬人化系の作品で、「競走馬の宿命をもつウマ娘」という時点でかなりよくわからない設定なのですが、物語は非常に良く練られていて魅せるものがあります。
宿命のライバルともいうべきトウカイテイオーとメジロマックイーン、親友同士でありながら戦い合うさだめを負ったふたりに訪れる過酷な試練の数々に、とても感動させられます。
ぼくは競馬にはくわしくないのでよくわかりませんが、物語は基本的にネタ元となった競走馬の「史実」を踏まえているようで、ひとつのスポーツものとして珠玉であるのと同時に、いわば「歴史もの」としての面白さもあるという贅沢さ。たまらないですね。
この物語のなかでトウカイテイオーが歩む人生は、「史実」で競走馬トウカイテイオーが歩んだ馬生を踏まえているわけです。
あまりにもドラマティックなので創作であるかのように思えますが、そうではないと。ここらへん、非常に現代的な印象です。
というのは、現実を元にすることによって、非常に辛いというか、「現実にはありえるけれど、一般的に物語にはそぐわないとされる」エピソードが出て来るのですね。
その結果、かなり錯綜した、シンプルではないプロットになっている。そこがとても面白く感じました。
この展開は、「脱主人公」という文脈で語ることもできるでしょう。
この概念は、前の記事では「脱物語」といういい方をしていましたが、いろいろと誤解を生みそうなので、もう少しわかりやすい「脱主人公」に改めました。ごめんなさい。
「脱主人公」とは何か。
まだついこのあいだ思いついたばかりのアイディアなので、十分に練られていないところが大きく、ツッコミどころ満載だとは思いますが、そういった未成熟な発想を時間をかけて練り上げていくところにブログの面白さがあると信じて、語っていくことにします。
「脱主人公」という概念は、物語の主人公には「主人公特権」が存在していることを前提としています。
具体的には「物語の最後まで死なない」であったり、「ラスボスを倒す」であったりするのですが、とにかく物語の主人公には、その物語を成立させるためにさまざまな「特権」と「義務」が課せられているのです。
逆にいうなら、その「特権」と「義務」を負っているからこそ主人公、ないしヒーローであるのだといえる。
もちろん、そうではない物語もあります。私小説とかドキュメンタリーとかね。
だから、ここでいう「物語」とは、主人公(ヒーロー)が外敵(ヴィラン)を倒して、共同体を救うという、太古から語られてきた「竜退治」の形式だと見ていただければ良いかと思います。
もう少し広くスポーツものなどを含むとするなら、「主人公特権」はたとえば「苦戦はしても、最後には勝つ」といったものになります。
ようは、「主人公特権」とは、物語の「王道」を成立させるため、いい換えるなら物語に勝利や成功のカタルシスをもたらすために存在しているのですね。
「主人公」と「主人公特権」は切り離せないものです。
主人公が戦場の片隅でざこに敗れ、死んでしまっておしまいといった物語もたしかにありえますが、スタンダードとかオーソドックスなスタイルとはいえないでしょう。
特に「広く一般的な人気」を求めれば求めるほど、物語は「王道」のスタイルに近づいていかざるを得ない。
じっさい、『ウマ娘』でも、主人公であるトウカイテイオーは最後の有馬記念で優勝します。
これはもちろんあるひとつの歴史的事実を持ってきているわけですが、その出来事を物語のクライマックスに持ってきた作劇にはあきらかに「意図」がある。
その意味で、トウカイテイオーはたしかに紛れもない「主人公」であるわけです。
で、ここで取り上げたいのは、トウカイテイオーのライバルであるメジロマックイーンと「トレセン学園」の後輩にあたるライスシャワーの物語です。
あるとき、メジロマックイーンは怪我をして意気消沈したトウカイテイオーに向けて、「あなたの目標でありつづける」という意味のことを語ります。
典型的な「待っているわ」展開というか、ライバルストーリーの王道的な展開です。
『ガラスの仮面』にもありましたね。映画の『バクマン。』でも、くり返し出て来ました。非常に燃えるセリフですよね。
で、常識的に考えれば、こういう展開となったからには、メジロマックイーンはその後、不敗を貫いてトウカイテイオーの復帰を「待っている」という展開になりそうなものなのですが、じっさいにはそうはなりません。
そこに突然、ライスシャワーの物語がインサートされて来るからです。
ライスシャワーはトウカイテイオーとメジロマックイーンの一歳年下にあたるウマ娘で、きわめて優れた実力を持ってはいるものの、「自分の勝利は望まれていない」という思いから走ることをやめてしまいそうになっています。
しかし、仲間たちに励まされることで、ふたたび競技に戻って来ます。
このライスシャワーが、なんとメジロマックイーンを破ってしまう。メジロマックイーンはトウカイテイオーとの約束を守ることができなかったのです。
これがどういうことかというと、つまり『ウマ娘』という物語は、決してトウカイテイオーとメジロマックイーンだけの物語ではないということです。
もちろん、トウカイテイオーにはトウカイテイオーの、メジロマックイーンにはメジロマックイーンの物語があり、そしてまたトウカイテイオーとメジロマックイーンふたりの物語もあるわけですが、それにはまったく関係ないところでライスシャワーもライスシャワーの物語を生きていて、それがふたりの物語を打ち破ってしまうことがありえるということ。
そういう意味では、トウカイテイオーもメジロマックイーンも、決して「世界の中心」ではなく、その文脈での「主人公」でもないわけなのです。
これはぼくがいう「脱主人公」に非常に近いところにある展開だと思う。
もちろん、「史実がそうなっているからそうしただけじゃないか」ということはできる。じっさいそういう側面はあるでしょう。
しかし、そのくらい「史実」を尊重する展開にしたことがそもそも大きいし、それに、じっさいに作品を見てみればわかるのですが、トウカイテイオーとメジロマックイーンのライバル関係の物語に、ライスシャワーの物語がインサートされてくることには、あきらかな「意図」が感じられます。
ライスシャワーはごく気弱なウマ娘で、あこがれのべつのウマ娘を目ざして成長して来たのですが、彼女に勝利してしまうことで「自分は祝福されることはない」と思い込んでしまっている。
こういう物語が、あるとき、トウカイテイオーとメジロマックイーンの物語に差し挟まれ、そして凌駕していくわけで、たしかな証拠があるわけではないにしろ、やはり制作陣も意図して、狙ってこの展開を用意したように思えます。
そしてまた、だからといってその後、ライスシャワーこそが最強最速のウマ娘として君臨するのかといえばそうでもなく、そのライスシャワーもまた、ネタキャラのような扱いだったツインターボにあっさり負けてしまったりする。
この描写からは「それぞれのウマ娘にそれぞれの物語があり、だれかひとりだけの物語が特権的に優先されるわけではない」という「脱主人公」な感覚を感じ取ることことができます。
もちろん、トウカイテイオーは最後にはどうしても勝ちたいところで劇的に勝利するわけで、物語全体を通しての主人公がトウカイテイオーであることは間違いありません。
トウカイテイオーはそこで思い切り「主人公特権」を発揮して不利な情勢をくつがえし勝っているようにも見える。
そういうわけなので、『ウマ娘』が完全な「脱主人公」の物語というわけではないのだけれど、その片鱗を垣間見ることはできるという話です。
それは、「主人公特権」という一種のご都合主義にもとづく従来の王道のドラマツルギーをさらに洗練させていくプロセスであるのかもしれません。
はたして、ぼくがいっていることに何らかの意味があるのか、それとも単なる妄想的なうわ言に過ぎないのか、それはわかりませんが、とりあえず、ぼく(たち)は『ウマ娘』という作品をこのように見ています。
主人公が「主人公特権」を失い、「世界の中心」でなくなるということは、その種の「ご都合主義」が通用しないシビアな世界に放り出されるということ。
それは一種の「リアリズム」であり、最近の物語の流行にのっとっているように思えます。
「脱主人公」というアイディアは、ここからさらに考えて、練り上げていくつもりですが、その一端として、『ウマ娘』を語ることができるという話題でした。