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『エヴァ』や『進撃の巨人』の斬新な「ワールドビルディング」とは。

ライター

 1978年7月30日生まれ。男性。活字中毒。栗本薫『グイン・サーガ』全151巻完読。同人誌サークル〈アズキアライアカデミア〉の一員。月間100万ヒットを目ざし〈Something Orange〉を継続中。

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物語への興味が「個人の内面」から「世界の秘密」へ移っている?

 前の記事(https://somethingorange.biz/archives/480)でも引用しましたが、ジャーナリストの佐々木俊尚さんが、いまの時代のエンターテインメントは「個人の内面」を描くことから「世界の秘密」を暴くところに力点が変わってきている、という意味の記事を書いています。

1975年生まれのイギリスの女性作家、ゼイディー・スミスが語ったという言葉があります。

「誰かがなにかについてどう感じたのかというようなことを伝えるのは、もはや書き手の仕事ではなくなった。いまの書き手の仕事は、世界がどう動いているのかを伝えることだ」(『Present Shock』Douglas Rushkoff、2013より。未邦訳)

「誰かがなにかについてどう感じたのかというようなことを伝えるのは、もはや書き手の仕事ではなくなった。いまの書き手の仕事は、世界がどう動いているのかを伝えることだ」(『Present Shock』Douglas Rushkoff、2013より。未邦訳)

さらには『進撃の巨人』や『エヴァンゲリオン』も、同じような物語が描かれています。1995年のテレビアニメから今年『シン・エヴァンゲリオン劇場版』にいたるまで、シンジくんは成長はしません。しかし一枚一枚皮をはぐように、世界の構造がどうなっているのかが見えてくる。

登場人物の物語ではなく、世界の意味の解明と提示が主題となっているのです。

もし世界が、その構造をつくるコンピュータのOSのようなものと、その上で動くアプリのようなもので成り立っているとしましょう。従来の「物語」は、アプリがつくる起承転結と成長の物語です。でもOSには、始まりも終わりもありません。OSは、「そこにある意味とは何か」「これからどうなるのか」「どこから現れてきたのか」などを聞かない。ただそこに存在しているだけです。

21世紀のわたしたちが知りたいのは、OSがどのように管理され、どのようなルールで運用され、どのような構造を持っているのかを知りたい。世界の奥底へと降りていき、奥底で駆動しているOSをつぶさに観察して世界の原理を探求したい。

わたしたちの求める物語への熱情は、そう変容している。

https://note.com/sasakitoshinao/n/nbdded15d7334

 ぼくは、これに対し、いかに時代が変わって「世界」への興味が増しても、重要なのは「個人」であることに変わりはない、という異論を語りました。しかし、どうでしょう? ほんとうにそうなのでしょうか?

『機動戦士ガンダム』の独創的な「世界」。

 もちろん、ぼくの意見そのものは変わりません。ただ、そういうぼくにしてから、いまのエンターテインメントにおいて、重厚な「世界」を構築することが重視される傾向がつよいことは認めざるを得ません。

 ここでいう「世界」とは、単に物語の背景となっている設定を指すわけでもなければ、主人公たちが活躍するその舞台の描写を指しているわけでもありません。その両者が一体となり、初めて物語の「世界」を形づくっている、と考えます。

 とりあえずここでは便宜的に、前者を「大世界」、後者を「小世界」と呼んで区別しておきましょう。

 たとえば『機動戦士ガンダム』でいうなら、「宇宙世紀0079年、人々は宇宙に舞台を移し、モビルスーツを呼ばれる兵器を開発して、終わらない戦争を続けていた」というのが「大世界」、具体的な軍事基地なりスペースコロニーなりが「小世界」にあたります。

 そのいずれも『ガンダム』の「世界」を形成するためには欠かせないものです。

 『ガンダム』という作品が魅力的なのは、ひとつにはこの「世界」が独創的で個性的だからでしょう。

 もちろん、視聴者はそこで繰り広げられるアムロ・レイだのシャア・アズナブルだのの冒険やら陰謀やらをこそ楽しんでいるわけですが、背景となる「世界」にオリジナリティがなければ『ガンダム』はここまでヒットしなかったでしょう。

 そして、個々のキャラクターがいなくなったあとも、最新作『閃光のハサウェイ』に至るまで『ガンダム』シリーズが続いているのは、もっとこの「世界」のことを知りたい、この「世界」にひたっていたいという欲望が視聴者にあるからに他なりません。

『ガンダム』の魅力は「世界」にあり。

 つまり、『ガンダム』シリーズにおいて最も魅力的で不可欠なキャラクター、それはアムロでもなければシャアでもなく、ガンダムやザクが宇宙を舞台に戦い合う、その「世界」だということです。

 このオリジナルな「世界」は富野由悠季監督がほとんど独力で作り上げたものだとされていますが、そのことはかれの特別な才能を語って余りあるでしょう。

 漆黒の宇宙空間ではてしない戦闘を繰りひろげる無数の人型のロボット。そのまわりに浮かぶ、いくつもの円形をしたスペースコロニー。戦いのなかで超感覚に覚醒してゆく「ニュータイプ」や「強化人間」たち。

 これは日本伝統のロボットアニメと、舶来の『スター・ウォーズ』や『2001年宇宙の旅』の折衷ではありますが、それでも『ガンダム』のまえにこのような「世界」を提示した作品はありませんでした。

 いま、ロボットアニメの歴史を振り返るぼくたちにとって、『ガンダム』という作品がそのなかで圧倒的に独創的に思われるのは、その「世界」に独創性があるということなのです。

 今日なお『ガンダム』が不世出の名作として知られているのは、当時のアニメとしては別格なほど、時間的にも空間的にも考え抜かれたこの「世界」があったからだと思われます。

 この「世界」のことを、大塚英二に倣って「大きな物語」と呼ぶこともできるでしょう。

「小世界」と「大世界」は補い合う。

 くり返しますが、この「世界」は主人公たちがそこで躍動する物語のじっさいの舞台である「小世界」と、時間的、空間的設定としての「大世界」に分かれます。

 このうち、じっさいに映像のなかで視覚的に確認できるものは「小世界」のほうであり、「大世界」はあくまで抽象的な概念として存在しているに過ぎません。しかし、いくつもの「小世界」に統一感を与えているのは「大世界」です。

 士郎正宗原作、押井守監督の『攻殻機動隊』を思い浮かべてみましょう。この映画で「小世界」にあたるのはあきらかに香港からイメージを持って来たと思われる近未来日本のサイバーパンク・シティです。

 「攻殻機動隊」こと公安九課のリーダーである草薙素子や相棒のバトーの冒険はそこから出ることはありません。ですが、その「小世界」を成り立たせているのは、「過去に第三次非核大戦と、第四次核大戦があり、そこで義体技術という名のサイボーグ・テクノロジーが飛躍的に進歩した」という時間的な設定、つまり「大世界」なのです。

 いい換えるのなら、『攻殻機動隊』の混沌とした「小世界」は「大世界」の制約のなかで作られていて、そこから逸脱することはありません。突然、設定的にありえない出来事が次々と起こったりしたらまさに興醒めでしかないわけです。

 その意味で、「小世界」と「大世界」は補完しあっており、ふたつそろって「世界」を構成しているといえます。

「世界」とは「生きたひとりのキャラクター」。

 こういったひとつの「世界」は、単に書き割りの設定であるのみならず、まさに人間のキャラクターに匹敵するほど「生々しい」ものでなければなりません。

 そこには、「世界とはこのような場所である」、あるいは「このようであるべきである」という作家の認識と主張が込められているといえます。

 たとえば、『エヴァンゲリオン』シリーズの「世界」が謎めいているのは監督である庵野秀明氏がそのように世界を捉えているからでしょうし、『進撃の巨人』世界が過酷なのは、まさに作家がそういうふうに世界を受け止めているその証左に他なりません。

 ここでいう「世界」とはまさにひとつの思想、哲学、あるいは「世界観」の象徴であり、その意味で「生きたひとりのキャラクターである」ということができます。

 そして、それだけにひとつの「世界」を作り出すことは魅力的なキャラクターを生み出すことと同様、むずかしいことなのです。

 佐々木俊尚さんが記している記事からもわかるように、近年の日本のアニメ界隈やハリウッド映画業界では、ことにこの「世界」を描写することに力が注がれるようになってきています。

 もちろん、最も重要なのはキャラクターのドラマであり、それがなければ観客は映画を見てはくれません。しかし、その「世界」が十分に活き活きとしていて魅力的であるのなら、多少ドラマが弱くても映画が成立してしまうこともたしかなのです。

「ワールドビルディング」という方法論。

 そのような「世界」構築の方法論は、ハリウッドでは「ワールドビルディング」と呼ばれているといいます。それについて書かれた具体的な記事を引用してみましょう。

 特に北米の映画業界で言われていることですが、いまの映像業界では「ワールドビルディング」という手法がメインになってきています。

 これまでは、古典的映画が遵守していた「ひとつの作品で起承転結をはっきりつけ、観客に効率よく物語を見せる」というメソッドが長らく主流でした。しかし、70年代以降のハリウッドで隆盛してきたメディア・コングロマリット、メディアミックスのような流れがそれまでの撮影所システムの衰退と入れ替わるように発展し、作品がヒットした際にすばやく連作が出せるように、あらかじめ大域的に世界観を設定しておき、その中に適度に「謎」を読み込める「余白」を散りばめる、というスタイルが広がってきたんです。例えば、いまのハリウッドでのワールドビルディングの代表的なコンテンツが、3月1日に日本公開される『ブラック・パンサー』も含まれる、「マーベル・シネマティック・ユニバース」(マーベル映画)です。

https://realsound.jp/tech/2018/03/post-164358.html

 このような「ワールドビルディング」の方法論は映画史的には『スター・ウォーズ』に始まるとされていますが、その『スター・ウォーズ』は連続テレビドラマに影響を受けているようです。

 あらかじめ個々の人物や「小世界」を内包する「大世界」を作り上げておいて、そのなかでドラマを展開する、というやりかた。

オタク第一世代の方法論。

 この「ワールドビルディング」の方法論においてどういうことが起こるかというと、個々の物語、あるいは作品を語るだけではその作家の創作の全体像を語ったことにはならない、といった事態です。また、同じ記事から引用しておきましょう。

 ただ、ひとつ言えるのはワールドビルディングというコンセプトの話にも繋がりますが、第一にひとつの作品、画面が、それだけで完結してクオリティや作り手の創造性を評価できるという考え方や、第二に映画なりアニメなり、あるいはスクリーンなりテレビ画面なりといったひとつのジャンルやデバイスに特化した批評基軸が有効性を持たなくなってきているということです。やはりJ.J.エイブラムスを例に取るなら、彼は黒澤明やジョン・フォードのような創造性というより、二次創作的というか、オタク的な感覚で映画をつくっている印象があり、それをかつての大文字の巨匠と同じように論じてしまうと、その本質、面白さというものを見誤ってしまうでしょう。それは庵野秀明さんの『シン・ゴジラ』にも同じことが言えます。

 これは、庵野秀明監督や『エヴァ』について考えたことがある人にとっては、ほとんど自明のことでしょう。「オタク第一世代」と呼ばれる庵野監督は、いつもかれが好きな作品のパズルのように組み合わせて作品を作っている印象があります。

 しかし、それでは、庵野さんが生み出した『エヴァ』の「世界」はどこまでも模造品に留まっているのでしょうか?

ただの「パッチワーク」ではない。

 『エヴァ』の世界(「小世界」と「大世界」のいずれも)が、ある意味で『マジンガーZ』や『ウルトラマン』、『宇宙戦艦ヤマト』といった過去の名作のパッチワークから成り立っていることはつとに知られていて、もはやなかば常識となっています。

 これは『ガンダム』の「世界」が『スター・ウォーズ』の影響下にあることと同じで、皮相的には「既存の作品の物まねでしかない」ということもできます。

 「人類補完計画」や「裏死海文書」といった不思議な、なぞめいた言葉から構成されるその「大世界」は、圧倒的なセンスのよさによって魅力的にはなっているものの、本質的には「どこかから借りてきたような」ものだともいえるわけです。

 しかし、それでも、『エヴァ』の世界は圧倒的に輝きを放っています。なぜなら、そこには「作家の実感」が、いい換えるなら「魂」が篭もっているからです。

 『エヴァ』の世界がかぎりなく怖ろしく、いくつもの深遠な「謎」に満ちていて、しかも主人公たちに対してまったく優しくないのは、作家がそう世界を捉えているからだと先に述べました。

 それは、単に「設定ではそうなっている」という次元を超えて、象徴的な意味で作家にとっての「この世界の真実」を表しているのです。それが、「世界に血が通っている」ということ。

 「世界」の構築において重要なのは、単に設定上のつじつまが合っているからということだけではなく、それがきちんと「作家の内面の心象風景」を表現できているかということなのです。『進撃の巨人』でも同じことです。

「世界」とはその作家の「魂の風景」である。

 『進撃の巨人』の「世界」は、なぜあそこまで人間に対し残酷なのか。それは、描き手が「この世界は残酷な場所だ」と感じているからに他なりません。それが「時代の気分」にマッチしたからこそ、『進撃の巨人』は破格のヒットになったのでしょう。

 きわめて政治的(ポリティカル)といわれる『進撃の巨人』の物語ですが、その背景にあるのは作者の「世界観」です。それが、「壁に囲まれた都市」という「小世界」、「なぜ巨人たちが都市の外に徘徊しているのか」という「大世界」を作っている。

 そして、読者はそこに「たしかに、この世界ってこういう残酷な、だけど美しい場所だよな」と共感し、物語に夢中になるのです。

 つまり、物語のなかの「世界」とは、その作家にとって「この世界はどういう場所であり、またあるべきであるか」という、その「実感」と「理想」が篭もったものなのであり、逆にいうならそこにその作家の「魂」が篭もっていなければ、いくら緻密に考え抜かれていても意味がないのです。

 『エヴァ』にしろ、『進撃の巨人』にしろ、その「ワールドビルディング」の独創性はずば抜けている。それはただ「細部までよく考え抜かれている」という次元のことではなく、「その作家にとってのこの世界の真実の形」を表現できているということなのです。

映画『ドラゴンクエスト』はなぜ酷評されたか。

 同じことが『ONE PIECE』でも『HUNTER×HUNTER』でも『十二国記』でも『獣の奏者』でもいえるでしょう。それらの「世界」は、すべて作家の「世界観」に沿ってデザインされています。

 あるいは、そういった「異世界」を舞台としているわけではない『よつばと!』や、『ALLWAYS 三丁目の夕日』といった作品にしても、作家の「世界はこうであってほしい、こうであるべき」という価値観を象徴しているところに魅力があると思います。

 これらの作品の「小世界」はいかにもリアルなこの世界そのものというふうに見えますが、じっさいにはそうではなく、やはり作家の願望なり理想を反映したものなのです。

 最近公開された映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が多数の観客から非常な酷評を浴びたのは、この「世界」の虚構性を暴いたそのシナリオに理由があるでしょう。

 いつまでもその「世界」にひたっていたいと願う観客にとって、そういった「楽屋落ち」的な結末はきわめて重大なタブーに触れるものなのです。

 ほんとうに佐々木さんがいうように物語を楽しむ観客の興味が「個人」から「世界」へ映っているのかどうかは微妙なところですが、少なくともいまやいかに「魂の風景」としての「世界」を作り込めるかに作品の成功がかかっている、とはいえそうです。

 まあ、まさに書き割りの「世界」を使い回している「なろう系」みたいな例もあるんですけれどね。ここら辺のことは、「なろう」のことを考えるときにまた新たに考えてみたいと思います。

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