アニメ『プラネテス』に関する記事の「人種的多様性」に関する記述が話題になっています。
また2003年の作品ながら、深い社会構成や人種的な多様性にも配慮されていることを指摘したい。主人公の星野八郎太、田名部愛などは名前からわかるように日本人だが、上司にあたるフィー・カーマイケルはアメリカ出身のラテン系か黒人の女性であり、同僚のユーリ・ミハイロコフはロシア人の白人男性だ。他のキャラクターも人種・性別と多岐にわたっているだけでなく、これらの登場人物が先進国出身であるということも、1つの伏線となっている。

この「社会構成や人種的な多様性にも配慮されている」というところが問題であるわけですね。
『プラネテス』において、いわゆる「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)」が行われたと断定する内容となっているわけで「いや、そんなことはないだろう」といった意見が出て来ている。
『プラネテス』のキャラクターにさまざまな人種が含まれていることは客観的に観測できるものの、それが多様性に配慮したかどうかということはまたべつの話だというわけです。
つまり、「人種が多様な状況を描いていること」は、必ずしも「人種的多様性に配慮されていること」を意味しないのですね。
単に多様な人種が存在している状況を描こうとしただけで、べつだん、多様性に配慮してそうしたわけではないということがありえるし、じっさいそうなのではないか、ということでしょう。
で、ぼくの意見はどうかというと――まあ、これは微妙なところだな、と感じます。
原作マンガに関しては「単に人種が多様な状況を描いているだけで、べつに人種的多様性に配慮しているわけではない」といえそうな気もします。
近未来の国際宇宙ステーションや月面基地などを舞台とした物語を綴ろうとしたときに、一定のリアリティを獲得しようとすれば、さまざまな人種が絡む物語になることはほぼ必然だったでしょう。
ただ、これはアニメ版の話であるわけで、アニメはどうかというと――どうなのだろうな。
これは原作もかなりのところそうなのですが、アニメ版はさらにつよく、「人種」や「民族」といった概念がテーマになっている一面がある。
なので、アニメスタッフが「多様性」を意識して作品を制作したことも、まあ、ありえない話ではないかもしれない。
あきらかにいえるのは、そのくらいでしょうか。
人種的多様性という、一種の「ポリコレ」への配慮はあったかもしれないし、なかったかもしれない、と。
ただ、一部では「ポリコレ」は非常に嫌われているわけで、このような書き方は問題視されることになる。
『プラネテス』が「ポリコレ」にのっとって作品を歪めたなんてことはない、ということですね。
ただ、「ポリコレ」が単純に悪であり、間違えているとはぼくは考えていません。
いまの時代、やはり白人男性だけがヒーローというわけにはいかないし、性暴力や性犯罪についての意識も厳しくなって来ている。
その辺を考慮すると、やはり一定の「ポリコレ」は必要であり、また有効であると見るべきではないでしょうか。
何といっても、現代の物語はさまざまな意味で多様な人々をターゲットにしているわけです。「多様性」を考えることは悪いことではない。
また、黒人ヒーローを主人公に据えた映画『ブラックパンサー』が大ヒットを遂げたように、「ポリコレ」が経済的に大きな価値を持っている側面もあるわけですね。
「ポリコレ」が一概に文化にとって有害であると断定することはできないでしょう。
ただ、もちろん、「ポリコレ」には明白な限界もあり、そして、問題も多々あります。
「ポリコレ」の問題としてまず挙げられるのは、その過度の急進性でしょう。
物語業界全体として見れば、多様さは悪いものではありません。というか、「最終的には」、人種であれ、性差であれ、多様性が実現することは物語表現にとって端的に「良いこと」であるとぼくは考えています。
ただ、「ポリコレ」には、それを「いますぐ」実現しなければならないとする急進性がどうしてもともなう。
「多様性の実現は正しいことなのだからいま、すぐにでも実現されてしかるべきだ」とする、いかにも左翼的な「せっかちさ」というべきでしょうか。
表現において「多様性」を重視することは、あるいは正しいのかもしれないけれど、それをすぐにでも現実にしようとしたら、必然的にさまざまなあつれきが生じるわけですね。
また、もちろん、そもそもその「正しさ」は唯一の価値観なのかという問題もある。
「ポリコレ」はある程度は「正しい」にしても、べつに絶対的な「正しさ」ではないはずだ、ということもたしかです。
多様性に配慮しろといいながら、作品の幅を単様を狭めていく矛盾が、そこにはどうしても付きまとう。
そしてまた、欧米リベラルの価値観だけを金科玉条とし、無条件にそれに従うべきだ、とする考え方はいかにも傲慢です。

「ポリコレ」を信奉する人は多いけれど、その「正しさ」を絶対的なものとみなすと、それに反する作品をことごとく改変せずには済まないようなことになるでしょう。
これは批判を受けて当然です。文化大革命じゃないわけですからね。
海外の「リベラル」の価値観に過ぎないものを、世界的に見て唯一の「正しさ」と見なすことは、きわめて危ういでしょう。
とはいえ、それは非常に重要な価値観でもある。現状で男性だけが威張り散らして、女性が従順に従うばかリみたいな作品を作ったらやはり違和感があるはずです。
で、日本のアニメが今後、どこまで「ポリコレ」を意識するべきなのかというと、まあ、これもむずかしいところ。
ある程度、「ポリコレ」を意識したほうが世界市場でのセールス的にも高評価を受けるということは、おそらくあるかもしれません。
しかし、その一方で、「ポリコレ」に配慮した作品でなければダメだということになれば、日本市場のオリジナリティが致命的に毀損する可能性もあるわけです。
たとえば、『回復術士のやり直し』みたいなエログロミソジニー作品はどう考えても「ポリコレ」的にはアウトでしょう。
だからといって、完全に「ポリコレ」を無視するべきだというのもどうなのか。
何といっても、ぼくたち自身の価値観が大幅に変わってしまっているわけで、過去の描写に違和感を覚えるところはどうしてもあるでしょう。それを改変していくことは必ずしも悪いことではないはず。
まあ、「自然とそう感じる」レベルではなく、「そう考えるべき」とべき論を持ち出すところに「ポリコレ」の暗黒面があるのですが。
この点については漫画家の赤松健さんが問題提起し、評論家の小野寺系さんが批判して、炎上したという騒動が思い出されます。

「ポリコレ」は是なのか非なのか。ちょっとこれは、単純に是非論で語れるような問題ではないかもしれません。
おそらく、長期的に見れば、「ポリコレ」的なるものは世界を大きく変えていくはずです。
いまさら、古い時代の価値観に戻ることもできないのではないでしょうか。
しかし、そうではなく短期的に「アップデート」を強いる「ポリコレ」に対してはつよく批判していくことが必要です。
欧米リベラルの価値観だけがすべてを支配するという時代に対し、日本という「辺境」から抗議していくことは重要なことだと思います。
いまさらあからさまに差別的な作品を楽しみつづけることも問題だけれど、だからといってしゃにむに「正しさ」を追いかけることも愚かしい。
リベラルも保守もそれぞれに限界を抱えている。結局、それなりにバランスを保ってやっていくしかないということですね。
ただ、それがいちばんむずかしい。「適度なバランス」がいったいどこにあるのか。今後も議論が必要でしょう。
ぼくの考えは、とりあえずそのようなところです。以下の記事もお読みいただければ嬉しく思います。
では。